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オボツカグラーニライカナイの対比 断片

ステレオタイプの沖縄

それは、楽園の観光イメージ、癒しの島、時間の流れが緩い、という物。

これがここ数十年のイメージだが、数百年前は儒学が盛んだった。
上の階級では。儒学によっての秩序の勉強が役人になる子弟に教育されてた。儒学の勉強は沖縄のみでなく、日本、中国など東アジアでは普及されていた学問である。

たいていの人は、楽園的な観光イメージが先行している。
このイメージは張りぼてでしかなく、中に入ると儒学的な因習が残っている。その要素が年長主義にも影響されている。

沖縄にいるとき、「沖縄は発展しない」という人が周囲にいた。
その人は発展しない理由を分析していなかった。発展しないのは年長主義の特権によって起きていると思う。なぜなら、沖縄では年長者の主張が絶対で、新し文化が入ってきても「あんなものは役に立たない」といえば、そこで文化を入れていく事が止まる。

年長主義の根本には、儒学があるように思う。

年長主義はその家族の長を中心に年齢階級が起こり、その秩序が家族ごとにある。儒学がそこに入るのならば、父母や兄弟を敬えと言う模範意識があり、その意識が年長主義が強化される。強化されるので権威化されて、その権威が新しい価値観に対立する。自分たちの縄張り意識が強いので、権威と縄張り意識が表裏一体になっている。

オボツカグラ

海外から文化が入ってくる。
沖縄には海の彼方、ニライカナイから来訪神が来る伝承がある。来訪神が来ると言うのは、海から文物が入ってくることの象徴でもある。入ってくることで珍しがられる。水平なものである。

その一方で、オボツ・カグラという概念がある。

「おもろそうし」の「おぼつ」は天上の神の在所の意味。地上の万物はすべて天上世界(おぼつ)の投影という考え方がおもろ人にあったようで、おぼつは常に地上世界と対応し構造化、観念化されて天上世界になっている。
「おもろそうし」にはオボツの原注に「空也」とあり、対語のカグラと合わせて『混効験集』には「天上のことをいふ」とある。その天上の世界、神の世、満ち足りた世を「おもろそうし」は「おぼつ世」と表現している。

(海を渡る神々 死と再生の原郷信仰 外間守善(角川選書 (1999)P20より抜粋)

ニライカナイは水平な概念に対し、オボツ・カグラは垂直な縦を意味する。
琉球王府に作られた概念らしく、沖縄本島、奄美島にしかないらしい。カグラはオボツの対語で地上を意味していると思われる。

何を言うかというと、ニライカナイは横の概念に対し、オボツカグラは縦の概念で、縦の概念が年長主義的な要素、儒学的な秩序の要素を強化しているのではないかと言う事で、王権の確立により王の特権を作るためにできたのだろう。権威化のために。

それは珍しがられたニライカナイから来た文物が、王権または権威的な存在の力により、オボツカグラの如く天上から来たものとして扱われていくので、権威化される。オボツカグラ化された価値観が固定されやすくなるので、島の発展は停滞されるのだろう。

オボツカグラ-ニライカナイの仕組み。

島の中でオボツカグラが縦軸になり、天上の価値が下りてきている概念。降りてき続けている。有限な概念。その一方でニライカナイは海の彼方からくる文物を示す。無の概念を示す。もっと言うならば、シマが有を意味し、海は無を意味することになる。

海の彼方から来た文物がオボツカグラにより権威化されるが、権威化されるものが限られるならば、文物は権威の横に横たわることになる。権威化されるものは限られているのだろう。

王権を作るために作られた概念だったためか。今は王権は存在しないが、権威が残っている。権威的な価値がオボツカグラを支える。それは家族の年長主義が含まれると思う。オボツカグラの権威の中に儒学の要素があるのかもしれない。

故に「沖縄は発展しない」と揶揄される結果になる。
この縦の権威的な仕組みが、精神的な意味でのソテツ地獄を形成しているのだろう。

向こうでは概念的に、考察する人は乏しいのだろう。

加筆(2022/4/16)
同時に沖縄県は、復帰後に観光立県の戦略を立てたためか、いわゆる琉球王国を観光のシンボル、ブランドにしすぎて、仕組みが理解しずらくなっていると思う。琉球王国を誇りにしても、ブランド化されるのと逆行して、中身の価値観を客観視されにくくなっていると思う。

余談だが、向こうで暮らしてて、グスク巡りをしていたが、沖縄のグスクに関心持っている人少ない気がする。






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