見出し画像

KY

沖縄にいた時の話。
大学卒業してからKYなことで失敗。半分は茶化しの気分もあった。
しかし、些細な話のずれで疎外されると、気分がおかしくなり、時に人格否定される気分にもなった。

昔から考えすぎると言われてきた。
それは人と意志の疎通で、自分の言っていることが相手に繋がってないようなことが多くあり、失敗して、それを言語化して、誰かに相談しにくくて失敗した。それでも母方の祖父とは仲が良く、大好きだったから、祖父には認められてた気がした。小6の時に世を去って悲しかった。だから周りに合わせて、意志の疎通以上に、上から勝手に押し付けられる始末になる。

他人と話がつながらない恐怖は常にある。
沖縄に来てからそれが再び出てきた。「お前の言っていることは誰にも通じない」と言われて意識が過剰になって、反抗的になり、一方的に主張してやったことがある。

意志の疎通に対して強迫観念になった。
自分の事を好きという女性にも違和感が子供の時からある。
どうして好きなのかという理由を聞かないと私は納得しないからだ。
話がずれるとKY扱いされる。最初は大丈夫だと言っても、どんどん重なると、人格否定されるのも相まって、ひねくれていくし、感情的にもなる。

いや、むしろ違うと思う。
理解されようとしてそうなった。人間関係の分析をしてそれを理論化してた。その話や哲学の知識を出そうとしたら、排除されて、抑えつけられた。
KYでなく、状況は選んでいたと思う。公的な話をしている場でなかったから。その分悔しくなり、言葉、理論の抽象さを高めつつ、具体的に説明しようとしてた。段々認められず嫌になった。
認められた瞬間、ストレスためて、怒りだした。すべてが遅すぎて。


話が合わなさが恐怖になる。合う人を探すのも難しい。
その上、共感性を言われてきてて、合わなかったときの無関心さが恐ろしかった。沖縄のすばらしさであり、美徳だろうと思う。

沖縄は話の合わない人を人でなしにするのだから。
沖縄は素晴らしいと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?