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よさこい踊りの思い出 包括 抑圧

沖縄のよさこいの踊り団体にいた思い出。

笑顔で踊る事ばかりで、抑圧的だった。
楽しまないとならない義務感があった。私は意見がズレてて、ズレると真っ先に副ボスに抑え込まれていて、精神衛生上苦しくあった。

その時に、人類学の本を読んでた。
インディアンの話が引用されていた、アメリカ西海岸のアメリカインディアンの文化で冬まつりがあると知り、その内容にて、踊りをして戦争しに行く話を見て興奮したことがある。(カイエソバージュ2 熊から人間へ/中沢新一《講談社選書メチエ》)

冬まつりで、青年が大人になるためのイニシエーションを介して、「人食い」になり、戦場に行くと言う内容だった。部族の集落間でのいざこざに対しての戦争と思う。ここでの人食いは、超越すると言う意味で使っている。

この話が刺激的だったのは、訳がある。
踊り団体の雰囲気があまりに平和的すぎて、共感することから外れると、抑圧的だったからだ。常にあそこでは共感しあったり、笑顔になるようなことをしないとならなかった。

関西のようなシュールさやいじりの笑いが一切なかった。いる人間のすべてが完璧そうにふるまっていて、同調的すぎた。
案の定、「踊りは戦争するためにする」といってやったら、連中は黙り込んだ。ざまぁみろと思った。言葉のずれで抑え込まれることが多々あり、「自己満足」、発言に対し「役に立たない」と言われることが多かった。

包括性

メーリングリスト見てても、よさこい踊りのすばらしさや、賛美のみで、荒々しい、又は賛美以上の価値観は全くなかった。メンバーに女性が多いわけか、共感的な包括性があっても、そこからはみ出ることには無関心で抑圧的だった。その中で包括されて、管理されるのみで、逆らうと包括された空間に絞殺される感覚だった。

女性の母性本能は、市販化される本やマスコミの本には肯定的に描かれている。しかし、包括する母性には共感的な感情が元になってて、意に逆らうと母性本能に締め付けられる。又は排除されて、それまであったものを失う感覚にされる。

マスコミや本、女性は、こういった話はしている事はない。あってもわずかに出てるくらい。女性は無自覚にそれを自覚している。そして使いこなすのだろう。顔では笑顔の反応を装いながらも。中では何を思っているのかわからない。だから女は賛美されたり、やさしくされるのを求める。
怖い人間は排除されるだけ。メールでやらかしたのもあるだろうが。それ以前から知っている人間との確執であった。

疑問

当時いた沖縄の踊り団体に対しての疑問、怒りがあるなら、最大公約数の人間の幸福のために一個人のストーリーを宣伝材料にして、拡大しているのでないか?そして夢や目的の共有、共感をする。それ以外の脱線したものになると、排除となり、他に行けとなる。「個性の尊重」などと言っている。踊りを教えてもらった、ほにやも似た体質なのかもしれない。

今マスコミで、コロナワクチン賛美して受けさせる風潮にそっくりだ。何が価値だ!ふざけんじゃない!と言いたい。


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