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よさこい踊りと人間関係の分析、哲学と

沖縄ほにやはよさこい踊りを価値と言ったが、実際はサークルでの活動に過ぎない。その上で過剰に共感と自己陶酔を内部でしてて、外に理解を求めていた。踊りでの出演で幾らかもらっていたとしても。

自分のそれに影響は無意識に受けていた。
人間関係の分析で、哲学に関心持っていて、理解されようとして、無関心にされていた。よく考えると、はたから見たら、趣味でしかなった。
自分では学術的にしたいと思っていて、ライフワークともなっていた。
今でもライフワークと化していて、やり方が複雑化している。

両者は表裏一体なものだった。
私の場合、悲惨な経験の分析から始めてて、その点では沖縄ほにやとは違う。彼らは沖縄の文化の為と言っているので。

しかしながら、理解と共感と言う煽りは無意識に受けていた。
私は、よさこい踊りへの陶酔感の分析はあの場にいてもできなかった。
分析の仕方を始めたばかりで未熟だったし、離れてみないとわからなかった。

分析に共感性はいらないと思う。沖縄ほにや時代の共感に対する過剰な雰囲気にはあこがれもしたが、違う。プロパガンダのようなものしかなかった。
この現象はサヨク的な物に近いのだと思う。

沖縄ほにやには、地味さがなかった。地味だが、踊りの披露で派手さのみしかなかった。披露して陶酔さが強まってた。

哲学や人間関係の分析には、文献読みや現状を記述しての分析がいる。
地道だ。自分が手を付けている部分には派手さがないのがわかった。
足りないのは話をするすき間や瞬間、わずかな場所がいる。

思い通りに調べた事、学んだことを話せないのは精神衛生上きつい。
すき間に入り込む瞬発さがいる。

楽しい楽しいよさこいマニアにはわからないと思う。
彼等はブランドを扱っているから。今に見てろ。

まぁ、気楽にいこう。

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