見出し画像

書いてみて、思ったこと

二つの概念の比較|dragoniata|note

沖縄に住んでて思ったこと|dragoniata|note

埋没 |dragoniata|note

主に上記の事を書いた。他にまだたくさん記事がある。
これらのこと書いてて、よさこい踊り団体に嫉妬もあるのだろう。
その一方で、よさこい踊りの価値を勝ち誇る態度がある。イベントで踊って成功すれば価値とし、はしゃぐことに。

見ていて苦しく、悔しかった。
こっちは当時何をしても、結果が出なく、失敗ばかりだったから。
哲学、抽象的なことを考えて書いてて、伝わらず、下に見られてたし。

よさこい踊り団体。彼らは踊りに対して、子供の様にはしゃいで自己陶酔してた。私もこの人たちの様に成れればいいなと思っていた。
その一方で戯れても、どこか違和感があった。

その理由は、学生時代にいたサークルで、価値やカリスマを賛美、陶酔した学生を見て辟易したのが大きいと思う。

今思うと、沖縄の価値観と創価学会の価値観が混じってたのだろう。
沖縄ほにやに入って、疑似的に創価学会の慣習を経験したのかもしれない。

「自己満足だね」
「通じないよ」
「何のためにしているの?」
「役に立たないね」

今でも言われたことがトラウマにもなる。その為に連中に批判をした。
反論したい。

「自己満足だね」
そういうが、沖縄ほにやが高知ほにやからもらった、よさこい踊りに自己陶酔している。そして共感して、他人にもそれを求めていて、かなわないとヒステリックになる人がいた。それも自己満足でないか?

「通じないよ」
その言葉をお返ししたい。あなた方こそ、価値ばかりだった。
よさこい踊りを見ている人にも共感してもらいたいと言う願望あったのに、なぜ対等でない価値を下に見るのか?

「何のためにしているの?」
言いたいが、キレイな動機でないとだめなのか?
私が人間関係の分析したり、哲学を学んだりして考察しているのは、学生時代に失敗したトラブルを分析するためだ。それを言うには難しかった。
明るく、楽しい人たちには無関心に等しいから。思考を形にするための試行錯誤を沖縄ほにやは、していたのか? してたとしても途中からしてなかったように見える。私の間違いか?

「役に立たないね」
何に役に立つのかやってみないとわからない。よさこい踊りという手段の身を用いて、効率的な結果を出すことに固執してなかったのか?と私はあなた方に問いたい。私にも落ち度があるが、「個性の尊重」だの「異文化礼賛」だの、理想ばかりで内実が伴っていない。
このスローガンは今思うと、苦しみの元にもなった。理想と現実との間に隔たりがある。

そしてもっと言いたいのは、高知ほにやを権威に扱いすぎるなと言いたい。
そればかり吹聴されてて、迷惑だった。沖縄ほにやはこの団体に対してどれだけ客観的に見たのだろうか?

だから

ほにやを恐れる必要はない
ほにやを権威づける必要もない
ほにやを賛美、陶酔する必要もない

そして創価学会に人生を言われる筋合いもない。
人の不幸に付け入って、しつこく勧誘してくる常識のない人たちだから。

批判しててわかってきた。
こんな人たちは大したことがない。群れて崇拝しているのみだと。
沖縄ほにやと創価学会に人の人生を疎外されたくはない。
創価学会にこそ意味がない。沖縄ほにやのよさこい踊りにも価値はない。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?