見出し画像

文書を書くことにした

四月四日。

デジタルデトックスをし、
自然に回帰するための旅に出た。

それを機にnoteの毎日更新を辞めた。


このノートに書くことで誰のためになっているんだろう。
自己満足なのではないか。そう思っていたからだ。

もちろん自分で毎日大量の文章を書き出している。

文書を書くことは排泄と同じで
自分の内面を吐き出すこと、
インプットしたものを自分の中で咀嚼して吐き出すこと
生きることだと思っているからだ。


しかし自分のために排泄した文章を、言葉を
このような形で不特定多数の方に発表する。

その意味はあるのだろうか?そう自問していた。


noteの更新は辞めたが、
インスタグラムのストーリーで
自分のために書く文章の一部を載せていた。

それを毎日欠かさず見てくれている友人に
こう言われた、


「毎日あげている文章、月3000円払っても読みたい」
「着実にいい影響を受けている。自分の行動も変わった」


この言葉を聞いてハッとした。

自分の排泄した文章も発表するだけで、表に出すだけで
誰かのためになり、行動を良い方向に変えることもできている。

ならば、自分のためだけに文章を書き
それを自分の中だけに留めておくだけでなく
どんどん発表していこう、と。


もちろん、「誰かのために」「いい影響を与えたい」
なんて烏滸がましい。

しかし、自分の中だけに留めておくのはもったいない。

批判されようと、反対意見を持たれようと
どんどん発表した方がいい。そう思った。


たまには読んでいて恥ずかしくなるような文章も紡ぎ出す。
傲慢で烏滸がましい文書も紡ぐ、
しかしそれさえも自分の一部であると受け入れる。


僕の尊敬する曽根綾子さんもこう主張されていた

「作文は自分が何をどう感じ取ったかを書く練習ですから、それに対して他人がどう思うかという葛藤なり衝突なりが伴います。それで褒められることもあれば、貶められたり、馬鹿にされたりもするわけですが、他者を通した結果を受け止める事で、自分を見つめることができる能力も鍛えられます。」

「作文能力、表現力というのは、一種の武器なんですよ。武道と同じように。それをちゃんと教えられない教育、教えられない先生というのは、困ったものです。」


ということで毎日勝手に紡ぎ出す文章を
ここにも載せていこうと思う。

生産性も、面白みもない文章で失礼しました。

明日からは少しでも気づきを得られるような
心が救われるような文章を、

いや、好き勝手に自分の内面を紡ぎ出す文章を
誰にも求められなくても自己満足で書いていこう。

結果的に誰かのためになっていればいい。

それでいい。そう思いたい。


吉田カオル





頂いたサポートは、書籍代に使わせて頂きます!サポートをしてくださる方ありがとうございます!泣いて喜んでいます!