小さなリュック

夕方、アルバイトのため職場のネットカフェにいつものように自転車でやってくると、店のあるビルの手前に救急車が一台停まっているのが見えた。

人だかり、というほどではないが、人が十数人ぐらいいて、何かあったのかな、と思ったが、たいして気にとめもず、扉が開いていた救急車の中を見るともなく見ながら、僕は通り過ぎてビルの駐輪場に自転車をとめ、エレベーターに乗って、6階にあるバイト先のネットカフェに向かった。

エレベーターの扉が開き、店の中に入ると、いつもと様子が違うことに僕は気づいた。刑事のドラマに出てくるような、黄色のテープが店内に張られていて、警察の制服を着た人たちが店の中にいて、カメラで写真を撮ったりしているのが見えた。

端の方に、お客だろうか、女の人がうずくまっていて、女性の警官と、店の女性店員がかたわらに付き添っていた。何事かと思いながら事務室まで行くと、さっきここで飛び降り自殺があったと言われた。女の子が女子便所の窓から飛び降りてしまったらしい。うずくまっていた女性は、女の子が窓から飛び降りるのを直接見てしまい、ショックで動けなくなってしまったということだった。別に、地面に血のようなものは飛び散ってはいなかった気がした。僕が通り過ぎた救急車の中にその飛び降りた女の子がいて、救急隊員に処置されていたのだろうか、なぜ早く病院に運んでやらないんだろう、ということを考えたりしながら、制服に着替え準備をして、店長を前にミーティングをした。

店で人が自殺してもそんなもんだろうか、案外店長は冷静なようだった。今日は大変なことがあったが、いつも通り、冷静に働いて欲しい、と言われた。他のシフトのメンバーと、事務室を出て、先ほどとは逆に入口の方の、受付カウンターに戻るときに、女の子が最後に使っていたらしい席が見えた。ブースの扉が開いていて、床に小さな、薄汚れたリュックが転がっていた。

これから当分の間は客が来ても入店はお断りする、と言われたので、警察が実況見分をしている間、僕は入口を封鎖する役割でカンターにいることになった。

やってきた人の入店を断ったり、何かありましたか、と訪ねてきた新聞記者を追い返したりしているうちに、いつの間にか警察官も帰って行った。女の子が飛び降りるところを見てしまって、うずくまっていた女の人も、女性店員に大丈夫ですか、と声を掛けられたが、ええ、大丈夫です、と言って帰っていった。別に人が自殺するのを見てしまったけど、女の人は普通の生活に戻っていくのだ。店長を含めた正社員の三人は、警察に事情聴取に行ったようだけど、別になにが起こったか知らないものは、わからない感じで、もういつもと何事も変わらないような感じになっていた。

別に家族でも友人でもない、名前も知らない、店の会員情報から、19歳の女の子だとは聞かされたが、それだけの関係なんだから、そうだよな、と思った。年間3万人が自殺しているという。そのうちの一人だよな、ということだ。

休憩の時間になって、自殺しても三時間もすれば、何もなかったことになってしまうんだな、と思って、まかない飯を持って、僕は事務室に行った。

事務室に入ると、そこにある大画面のテレビに、飛び降りる前の女の子の姿が映っていた。トイレの窓から飛び降りて死ぬために、トイレの中に入っていく女の子の姿を、防犯カメラが捉えた映像だった。その時の映像を提出するように警察に言われたのか、それをⅮⅤⅮとかに焼いて、切るのを忘れて画面を一時停止にしたまま社員はあわてて警察に行ったのか、トイレに入っていく女の子の顔をアップにしてそれは止まっていた。僕はここで飯を食って、一時間休憩をするのだろうか。映っている、死ぬほんの少し前だという女の子の顔をじっと見た。

その場を見てしまった女の人から女性スタッフが聞いた話だと、女の子は女子トイレに入ってきて、個室から出てきた女の人の前をすうっと通り過ぎて、そのまま何の躊躇もなく窓に足を掛けて、女の人があっ、と声を掛けようとしたと同時に、飛び降りてしまったらしい。女の子はうつ病だかでひきこもっていて、家出をして、うちの店に来ていたということらしい。

画面に映った女の子の顔は無表情で、何を思っていたのかわからない。なにもわからない。でも僕はこの画面に映っている顔をよく見た記憶があった。僕のアパートの部屋の、洗面所の鏡に、よく映っていた顔だった。僕がうつ病だった頃に、よく鏡に映っていた顔と同じ顔に見えた。僕は店ではうつ病だったことは隠している。僕以外の店の人たちは、うつ病だったんだって、と自分たちとは違う頭がおかしくなった人間かなにかのような感じで、画面に映っている子のことを言っていた。ビルから飛び降りるなんて、まともな人間のすることじゃあないと。ビルから飛び降りるなんて、まともな人間のすることじゃあない。僕もその話に加わっていた。

僕は自分が、あの一目見た小さなリュックを持って、自分の部屋を出ていくところを思い浮かべる。まともな人間じゃない彼女の、家出をするには小さすぎるリュックを。

僕はネットカフェの制服を着て、まかない飯を手に持って、大画面に映った、飛び降り自殺した女の子をじっと見ていた。

そのあと、事務室での休憩が終わって、夜の十一時になる頃だった、あの女の子、途中の電線がクッションになって命は取りとめたんだって、と聞いて、ああ、よかったじゃないか、と僕は思った。でもあがる深夜の十二時になったときに、やっぱり死んだんだって、と聞いた。これから親御さんがリュックを引き取りに来るんで、来たら渡して上げて欲しいと、深夜のシフトのメンバーには伝えられていた。

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