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留学・就職・寿退社の独身時代を経て結婚に至るまで

人生の節目・50歳の第二の人生を語る前に、それまでの人生の大きな節目、区切りをまとめる必要があります。

ここでは私のカルフォルニア州の4年間の生活、留学・就職・寿退社を経て、結婚に至るまでの過程をまとめてみたいと思います。

日本の大学卒業後、長年密かに準備していた留学がいよいよ実現することになります。選んだ場所は西海岸。日系の企業が集中しているのは西海岸なので、大学院在学中にインターンをするのに困らないと思ったからです。それから、私の学業の専門分野では、『理論(=Theoretical)は東海岸、実践(=Pragmatic)は西海岸』と言われており、大学院卒業後は研究者としてではなく語学教師として大学で教えようと思っていたので、迷わずに西海岸を選んだ所以です。

場所はベイエリアと言われるサンフランシスコ湾。空港を降り立ったその日の、カルフォルニアの太陽の光、空港内のアナウンス、人々のざわめき、やっとアメリカの本土を足で踏んだぞ、これから新生活が始まるんだ!という波を打つような高揚感、今でも忘れることが出来ません。

空港はサンフランシスコの南の位置にあり、太陽が眩いばかりでしたが、市内へ入るにしたがって、霧が濃くなるばかり…  そう、ここは有名な霧の町サンフランシスコ。よく、観光客がカルフォルニアだと思って軽装で来たのはいいものの、寒くて結局”San Francisco"ロゴ入りのパーカーをお土産屋で買ってしまう、とはこのことです。寒くてブルブル。え?ここって太陽の国カルフォルニアじゃないの?!

そして新しい大学へ到着したときには、辺り真っ白。日本でいう高原のような雰囲気で、空気が湿って霧が立ち込めています。カルフォルニアの太陽はどこ?!ここはどこ?!と一瞬パニクりましたが、大学のビルをみるとすぐに『大学院準備段階』モードに切り替わり、天気よりもこれからの学業のことで頭がいっぱいでした。

こちらの学校は九月が始業式なので、八月はクラスを登録したり、教科書を買い揃えたり、忙しくて天気どころではなかった。そして、学業達成のゴール設定だけでは、他の学生と同じドングリの背比べになってしまうので、他の学生と同じことをしないで、大学院の外でも修行を積むんだ!という心構えが非常に強かったような気がします。まずは大学の研究所へ専門分野の先生にアポをとって自分からご挨拶に行きました。こういう理由で留学に来ました、と説明すると、『ま、自分のクラスでTA(=助手)のポジションが空いたら声をかけてあげるよ』と言われました。なので、自分は本気であることを示すために、その先生の授業を1つ受講することにしました。のちにその先生のリサーチの仕事のアルバイトや、TAとしても雇っていただき、随分と経験を積まさせてもらっただけではなく、アルバイト代が出たので、金銭的にも助かりました。この仕事のおかげで、自分の履歴書もどんどん更新できました。日本語が流暢なアメリカ人教授だったので、留学のノウハウをいろいろ教えていただきました。今思うと、絶妙なタイミングでこの先生に目をかけてもらい、今は感謝の気持ちでいっぱい! 先生、ありがとう!

それから、市内にあるJapan Societyという日系の団体に、かくかくしかじかの理由で留学に来たのですが、職務経験が全くないので、一学期間だけ事務職のボランティアをさせてください、と履歴書を持って挨拶に行きました。すぐに採用してくれました。一週間に一度だけバスで通勤しました。異国で初めての仕事ということで、これも随分と丁寧に教えていただきました。履歴書にこれも職歴として入れました。そう、ボランティアでも学生にとってはこれは立派な職歴となるのです。

学業とインターンシップは抑えた、次は私のソーシャルライフ! 学業とインターンシップだけでは息が詰まってしまうので、大学院の外でネットワークを作らなければ、社会人の新しいお友達も作りたいなぁと思って、様々なサークルを探し始めました。社会人同好会とでもいいましょうか。何でもよかったのですが、留学一年生として大きな大きな壁にぶち当たりました。

『みんな話している英語が聞き取れない』
『会話の流れについていけない』
『思うように話せない』

これはかなり厳しです。お友達に誰もなってくれないんですから。それから、親元離れて初めての新生活で、自分に戻れる時間は同じ留学生と連むとき。慣れ親しんだ日本語で会話をして息抜きはできるのですが、進歩している実感が湧かない… 英語がまだ流暢ではないので、『こんなところでぼんやり何してんだろう?!』と不安になることが多かったです。

というわけで、地域の同好会をリストアップして最終的に絞ったのが Toastmasters。いわゆる、パブリック・スピーキング練習の非営利団体で、MBA学生・ビジネス系の人たちが人脈作りに、プレゼンの練習に、と来る憩いの場です。私が選んだのは日英バイリンガルのグループでした。なぜ? それは日本語でもパブリック・スピーキングの経験してみたかったし、それから、日本語もできるアメリカ人のお友達が欲しかったからです。このようなグループが、自尊心がめちゃくちゃ低くなる留学一年生とって、心理的に緩衝地帯となり、自分の英語力の発展に多大なる影響を及ぼしました。

自分でも予想してなかったのは、バイリンガルの人たちと連むのって、何て楽しいんだろう! 思っていた以上、友達がたくさんできました。英語を話す日本人でも、考え方が日本に住んでいる日本人魂ガチガチの人と全然違うのです! 目が外に向いていて、自国の文化を客観的に見ることができるので、お互い異なる国に育ったとしても、共通意識・価値観が似ているのかな、今考えてみると、Toastmastersを離れる時期になって、『異なる言語を話しても中身の人間は同じ』と感じるようになったのは、バイリンガルの人たちとたくさん時間を過ごしたからだと思います。そんなこともあって、何十年経っても、場所が離れていても、Toastmastersで知り合ったお友達は、電話やメッセージで今でもお付き合いさせてもらっています。

さて、この場で私にとって大きな過渡期が待ち受けていました。人生とはまさに、一寸先が暗闇。誰にもわからないです。Toastmastersで英語も日本語もきちんとプレゼンができるようになろう!という固い意志で入会しました。が、その当時、入会の事務をこなしていたのが、実は4年後に結婚する夫なのでした。当時、私にとっては完璧で理想的な彼、もう、神様がアレンジしてくれたとしか思えないです。

Toastmastersは夕方6時からで、8時ぐらいに終わると、みんなでご飯を食べに行ったりしていました。それで、仲間とも親しくなり、1年ぐらいは彼とも仲の良いお友達だったのですが、1年過ぎると、友達以上に感じられるようになり、お付き合いをするようになりました。

そして大学院2年目、私は正式にアメリカ人の彼氏とお付き合いするようになりました。彼も大学院生、私も大学院生、今振り返ると、まぁ二人とも、随分といっそがしかったけど、よく勉強してよく遊んだなぁ〜! 金曜日の夜に『やった〜 一週間が終わった〜!!!』と二人で教科書を放り投げて外へ繰り出し、同級生との会食、パーティーや外食、その当時はまだNetflixがなかったので近所のBlockbusterでレンタルのDVDを借りて、家で彼が作ってくれたポップコーンを食べながらムービー・ナイト。映画館にもよく行きました。そして、土曜日・日曜日は必死になって勉強しました。

彼は博士課程、私は修士課程だったのですが、なんせ宿題の量と質が全く違う… 彼はエリート校、私は州立だったので、これもまた知能のレベルが違う…  私にとっては知的な彼といると何もかもがとても刺激的で、今思うと、『彼に追いつこうと、どうしてもっと必死に頑張って努力しなかったんだろう』と悔やまれるばかりです。どうしてなのかな。今でもわからない大きな謎。

土曜日・日曜日、ずーっとコン詰めて勉強していられない私は、土曜日の朝に太陽がさんさんと降り注ぐファーマーズマーケットへ行って、みたことのない果物や野菜を見ながら、土曜日の夕飯の食材を買いました。午後に勉強しながら、その合間に休息をとって、いろいろな料理を試しました。土曜日の夕方に彼と散歩したり、時々、外出もしました。そして日曜日の朝に自分のアパートへ帰って、勉強の合間に、掃除をしたり、その週の食材を買って作り置きして、また一週間モーレツに頑張りました。早馬が駆け抜ける、という感じでしょうか、とにかく目まぐるしく一週間が忙しく、希望があって充実した日々でもありました。

楽しかった私の青春! 見たことのない食材を使って新しい料理に挑戦する、ということに喜びを見出した私に、彼はCooking Lightという雑誌購読をプレゼントしてくれました。この西海岸の週末で私の料理の腕はメキメキ上がっていったのです。何もかもが新しくて、ピカピカしてて、新鮮。

キラキラしていた独身時代の大学院生活と就職! 日系、米系、仏系の企業で働くことになろうとは思っても見ませんでした。そう、大学院時代のインターンのおかげです。大学院を卒業してから、日本で就職することも考えました。面接もしました。そして、彼と真剣に話し合いました。『私が日本で就職したらどうする?』と聞くと、ご丁寧な日本語で『日本で就職する可能性は0%です』と断言されました。じゃあ、私がアメリカで就職すればいいのね、と”先のことを考えず”に即断した、愚かな私。なんですかね、情に流される、とはこのことですかね。今思うと、なぜ自分の人生をそんな簡単に人に合わせるの??? 不思議でたまらないです。

でも待って。冷静に考えてみたら、分かります。なぜなら、その当時は『絶好調の私』だったからです。留学・就職、準備と努力が功を成したのか、何もかもとんとん拍子だったばかりでなく、あれ?自分が思っていたよりもやればできるぞ? 企業や上司がこんなに評価してくれるぞ? やればやるほど結果が出て昇進するぞ? わ〜 楽しい!やめられない! とにかく寝る時間も惜しんで、勉強して働いて遊びました。英語もメキメキ上達して、企業で働いていた時期に、学会でお呼ばれされて大勢の前でトークもしました。人脈が急激な勢いで広まりました。最高の20歳代。

そしてプライベートでは、生涯忘れないプロポーズもされました。しかもイタリアのベネチアで。そんな時期に、日本へ帰って就職、とは天地がひっくり返っても、考えられなかったのです。自分が絶好調の時に、自ら進んで環境を変える、という選択、みなさん考えられますか? 絶好調の時になぜ?って思われるのが私のような凡人の感覚なのかなぁ…

今思うと、最高に楽しかった結婚前の花の独身生活! しかし、20代というのはいいですな。中身はさておき、若いだけでモテる 。大学、職場、レストラン、カフェ、パーティで、”この程度の私でさえ” 素敵な男性に何度話しかけられたことか… そして、臆病で忠実なわたくしは、何度お断りしたことか… うーむ、あまり青春を謳歌してなかったかも… そういう意味で、ウチの彼氏は賢かったな、私をカゴの中で花嫁修行させて。

そのカゴは、霧の都サンフランシスコと無関係の対岸イーストコースにあった。彼は、ピデモントといわれる近所で、三階建ての太陽が降り注ぐ大きなテラスやサンルーム付きのアパートに暮らしていました。私は週末によく歩いて近所のローズ・ガーデンを通り抜けて、ファーマーズマーケットへ行きました。ある日歩いていると、ローズ・ガーデンの裏にバレエ教室がありました。小さい頃からバレエをしていたので、日曜日の午前中の大人のバレエ教室へ通いました。そして、ファーマーズマーケットで、色とりどりのマーケットで、花や野菜・果物を買って、今日はあれを作ろう、お花をどうやって生けようかな、どこに飾ろうかな、とワクワクしながら帰りました。毎週の土曜日が楽しみでした。料理やガーデニングをして、私はもうガツガツと仕事をするんじゃなくて、専業主婦になって子供を育てたい、家族を見守りたい、それが私にとっての幸せなのかな? 本来の自分の気持ちがムクムク現れて、毎週の土曜日にその気持ちがどんどん固まって、その基礎がここで培われたような気がします。自分の人生観や将来性が週末の過ごし方で、形を成してきたのは間違いないです。

若いとは、何とも清々しくていいものです。彼氏だった夫がなんと好青年で謙虚な人に見えたことか。彼もそうやって私を謙虚な将来の糟糠の妻として見ていてくれていたんだろうなぁ… となぜかここで、『半世紀の節目』のトピックに戻ってしまうのですが、人間って歳を重ねるに従って、なぜ謙虚さが減ってきてしまうのだろう、なぜ自己主張が強くなってしまうんだろう、と考えることがよくあります。若いっていいね、とみんな言うけど、若さの良いところには、健康的な振る舞いであるからこそ、『健気(けなげ)でかわいい』と言う表現があるのかもしれません。そう、まさに健全そのものなんですね。若い人からパワーをもらうというのは、その健全たるエネルギーからなのでしょう。

その健気な20代の私たちも、30代を前に、彼の4年間の博士課程が終り、夢のような結婚式、ハワイ・マウイ島での夢のようなハネムーン、そして彼の就職先・生まれ故郷である東海岸で”健気な”新婚生活がスタートします。

最高の青春生活を過ごしたカルフォルニア、バイバイ〜 また来るからね、これもまた若さ爽快そのもの、私たちは東海岸へ足軽に去っていったのでした。その頃の私としては、何年かみっちり東海岸で学業の修行をして(その当時は博士課程に進む予定でした)、就職で西海岸へ戻ってこよう、と予定していたので、それが長い別れになるとは思いもしませんでした。

カルフォルニアの留学生活スタートから、寿退社、新婚生活スタートまで、きっかり4年間。

私にとって幸せを絵で描いたような、かけがえのない青春生活、新婚生活のスタート。

次回は、東海岸の新婚生活スタート、予定もしなかった東海岸の生活、その過程を語りたいと思います。

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