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【小説】カラマーゾフの姪:ガチョウたち(7)

○舞台:2020年の喫茶店。

○一台のパソコンの周りに四人の若者。

○人物
小芳こよし:デジタルアーカイブに興味がある大学生。自分が幸せになれないのは知ってる。
彩田あやた守裕もりひろ:大学院で数学を研究する主人公(喋らないだけ)。小芳とは初対面。
弥生やよいけい:彩田の従弟。大学2年生。小芳と同じサークル。
曲丘かねおか珠玖たまき:ITフリーランスの女性。彩田の最近の友達。同い年。小芳と論争中。

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小芳こよし)「……やる方がいいことをやればいい。それをやります」
曲丘かねおか珠玖たまき)「それが分かってやれるなら、世界も地球も、こうは面倒臭く追い詰められてないんですよ。……幸せになれないから十字架を背負うのと、幸せを捨てて十字架を背負うのとは違うんですよ。幸福など御伽噺おとぎばなし夢幻むげんであって、人間は本源的に苦悩なのだと覚悟するのでなければ、人間は本当によいことを認識できない。……君が、死者の安らかな眠りを叩き起こすことに、人間の尊厳を捻り潰そうとしていることに気が付いていないようにね」
「死者の眠りを妨げるのではありません。死というものを無くす事業です。だから、全ての魂が死から解放される。だから誰の尊厳も傷つけません」
「何のために死を無くす必要があるんですか」
「人間が罪を贖うためです」
「人間の罪とは何ですか」
「生きていることです」
「…つまり、生と死は表裏一体だから、死を無くせば生も無くなると、そう言いたいのですか」
「そうではありません。……生きることは身体の罪です。人間が身体を以て生きていることで罪が行われる。人間が生きると他の生物の生命や地球が損なわれる。……違う、人間が、文明を行い始めて罪が生じた。だからその罪を止めるために、人間を身体から解放する」
「文明を止めて原始時代に帰れと?」
「そうではありません。逆です。……あなたも言いました。文明という現象は完結していない。だから文明を罪の贖罪として終わらせる、あるいは文明を極限まで進める。それによって人間の原罪は終わる」
「人間の原罪、終わりますか? 私は原罪というのは人間の言語能力のためのものと考えますが。……まあ人間の言葉が一切消えることのなくなった混沌の社会で、言語の作用価値が無に帰すれば、終わるのかもしれませんが」
「僕の考えはそうではありません。……人間の文明の罪は、具体的には農業です」
「……なるほど」
「農業は人間の罪ですよ」
 ………そのような命題はある側面からは真であるが、それは詭弁であると——彩田あやたは考えようとした。
 曲丘は表情を変えずに言った。「農業を始めたことで人間の諸々の罪が始まった、その環境負荷たるや、だから農業の必要がなくなればいい、身体から解放されるべし、ですか」
「そうでしょう。人間の環境破壊は農村共同体の開発から始まり、現在までも続いている。先進国の人々が稀少な作物や肉を欲するから、今なお大規模な農業開発は続いている。人間は農業のために草木を伐採し、土壌を死に絶やし、それでも化学物質を撒き、そのアンバランスな化学組成が流されて水質も汚れた。贅沢を覚えた人間は、もうそれの味を知らない人生に戻れない。だから美味いものを食うためになんだってする。他人になんだったさせる。人間が農業を始めなければ、………人間の罪の源は農業ですよ。農業は許されざる罪です」
「……小芳君」弥生が小芳に強張った眼球を向けていた。………しかし思念の内で表現すべきものとしたいものとを選別できず、小芳の怜悧な目から——下に目を逸らした。「どういうことだ」
「どういうことって」
「……君はサークルで、……農家の人達を…応援してきただろう。だから………なのにどういうことだよ」
「……そうだよ。してきたよ」
「じゃあどういうことだよ…っ!」
「どうって」
「君が応援してきた人に、農業は罪だと言えるのか」
 小芳は表情を変えず口も動かさなかった。
「言えるのか」
「恵さん」曲丘は片手を弥生の前に持ち上げたが、それを持て余して下ろした。そして小芳を見た。「……農業が罪なら、農民ではないあなたは、犯罪教唆さながら農業教唆ですよ、経済を使って。資本主義でも社会主義でも、あなたの生存が、経済を用いて誰かに農業という罪をさせているということになりますけれど、それは自覚しているんですか? 犯罪教唆は場合によっては実行犯よりも重罪になりますよ」
「分かってますよ。だから人間の罪だと言っているんです。農家より農業に関する罪が重い人間はいくらでもいますよ。寧ろ農民の罪は軽い。贖罪ですらある」
「どうしてですか?」
「だってそうでしょう。今が瓦解しちゃ未来は築けない。人間が、…身体のある人間が、身体の限界まで進歩しないと、文明は克服できない。今の身体的人間が成長しきらないと……、人類の進歩、世界経済の成長の果てに、今の文明は終わることができ、身体性の罪が贖われる」小芳は弥生を見た。「だから俺が言ってるのはもっと大きなことだ。抽象的で、もっと下の…いや、高いレベルのこと、個人の営みじゃなくて人類の営みとしての農業の話だ」
 曲丘が間髪入れずに言った。「今やっていること、必要悪は良心にって貫徹せよ、一度始めた罪は最後まで貫かなければ許されない、さもなくば全て破砕し、無残しか残らない。……それが、今日の我々が、今日の農業を許す理由だといったところでしょうか、あなたの場合」
「その通りです。全てはただ、弊害の小さくなる形を模索し、罪の加速度を上げないことで贖われている。勿論不十分ながら、それでもやらないよりはやるべき努力だ。我々が目指すべきは罪の加速度を上げずに成長の加速度を上げ、…資本主義を内破させることなのだから」


 お読みくださりありがとうございました。
 読んで気を悪くされた方がいましたら申し訳ありません。
 筆者自身の考えは、今回書いた小芳青年の考えとは全く異なります。今回喋っていない主人公の彩田青年に一番近い筈です。
 ここでの小芳青年の思想は、彩田青年という市民が、21世紀に数学を研究する若者が農業・園芸に向かわざるを得ない一つの要因でありました。
「ガチョウたち」は(8)に続きます。

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