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【試し読み】新刊『江戸の怪異と魔界を探る』から試し読み"鬼の通り道となる「鬼門」と「裏鬼門」"

4月13日から順次書店に並び始める、『江戸の怪異と魔界を探る』(飯倉義之監修)! 今回は、発売に先駆けて第一章から"鬼の通り道となる「鬼門」と「裏鬼門」"を公開いたします。みなさま、発売をお楽しみに~

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『江戸の怪異と魔界を探る』
監修 飯倉義之
ページ数 208
判型 A5
本体価格 1700円
出版社 カンゼン
発売日 2020年4月13日

四神に守られた江戸城

 徳川家康が江戸に入る前、江戸の大部分は未開の地だったという。家康がこのような地に拠点を構えたのは、家康のブレーンだった僧・天海の献策があったためだった。
 天海は、徳川家康から徳川家光までの三代にわたって将軍の知遇を受け、最高のブレーンとして存在感を発揮した天台宗の僧侶である。家康の知遇を得ると、天台宗の支配権を握り、幕府の宗教政策にも介入、川越喜多院に寺領四万八〇〇〇坪と七五〇石を与えられ、喜多院は天台宗の関東総本寺とされた。
 鎌倉幕府があった鎌倉ではなく、北条家の本拠地である小田原でもなく、天海が江戸を選んだのは、風水学的に「方角」がよかったからとされる。
風水では、よい地勢の場所を「四神相応の地」という。「四神」とは、方角や季節、色、属性などをもって四方を守る四体の聖獣のことで、北に玄武(山)、南に朱雀(窪地)、東に青龍(流水)、西に白虎(道)のある地が最高の場所とされた。中国の都・長安も、日本の都である平安京も、この思想のもとに建設されている。

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 天海は西は伊豆から東は房総までの地相を調べて、江戸が四神相応にかなっていると考えたのである。
 すなわち、江戸城を中心に東に平川(青龍=流水)、西に東海道(白虎=道)、南に江戸湾(朱雀=窪地)があった。平川とは、現在の神田川から日本橋を通って隅田川につながっていた川である。
 江戸にとって山といえば富士山だが、江戸城から見て富士山は南西にある。そのため、北に位置する麹町台地から富士山を望めることから、麹町台地を玄武(山)に見立てた。そうして江戸城は四神によって守られた地としたのである。なお、平川ではなく大川(隅田川)や荒川、麹町台地ではなく男体山(栃木県日光市)をあてる説もある。

鬼門と裏鬼門を封じよ!

 江戸城を政治の中心地に決めた天海は、次いで周辺の要所をおさえることにする。江戸城は四神に守られているが、陰陽道では北東と南西を忌まわしき方角としている。
 北東を「鬼門」といい、南西を「裏鬼門」という。鬼門から邪気が流れ込み、入ってきた邪気は裏鬼門を通り抜けていくとされた。そのため、鬼門と裏鬼門を封じて、邪気が入り込まないようにする必要があった。

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 京都の平安京も鬼門と裏鬼門を考えて建設されており、鬼門である北東には比叡山がそびえ、そこに延暦寺を建立した。南西の裏鬼門には男山があり、石清水八幡宮が置かれた。天海は延暦寺で学んだこともあったため、鬼門封じと裏鬼門封じの重要性を知っていたと考えられる。
 天海は平安京にならい、江戸城の鬼門の方角に寛永寺を建立した。寛永寺は正式名称を「東叡山円頓止観院寛永寺」という。「東叡山」は東の比叡山という意味である。延暦寺の名称が元号の「延暦」にちなむことから、天海も時の元号「寛永」を寺名にした。
 天海は一寺だけでは鬼門封じには足りないと考えたのか、そのほかにも神田明神を湯島に移し、江戸最古の名刹だった浅草寺を幕府の祈願寺と定め、この二寺院も鬼門封じの役割を与えられた。
 そして裏鬼門の方角である南西には、増上寺を芝に移して徳川家の菩提寺として、これを裏鬼門封じの寺とした。
 さらに、比叡山とゆかりの深い、三宅坂上にあった山王社 (日枝神社)を赤坂に移し、この二つの寺社を裏鬼門封じとした。

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