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【書評】星野文月さんによる『音楽 完全版』評

2020年に入って夢中で読んだ『私の証明』の著者星野文月さんに、『音楽 完全版』(大橋裕之著)について文章を寄せてもらいました。思い返せば映画が公開された2020年の1月に、吉祥寺のブックスルーエで「大橋裕之原画展」開催中に、『私の証明』の星野文月さんの選書フェアも開催されていて不思議な縁を感じます。

大橋裕之『音楽』について

年が明けたばかりの1月、新宿の武蔵野館で映画『音楽』を観た。

大橋裕之、岩井澤健治、坂本慎太郎……こんなの観る前からおもしろいに決まってるじゃん…と心の中で呟きながら劇場に入る。

映画はやっぱりめちゃめちゃ面白かった。あらすじは、高校生の不良がバンドをはじめる、というとてもシンプルな筋書きなのに、予想を何段階も飛び越えて行く展開と、今までの映画では見たことがない「間」の使い方、なんかもう訳がわからないけど、とにかく胸がアツくなるバンドの演奏シーン(ドラム、ベース、リコーダーの3人編成)にすっかり感動してしまう。主人公の研二たちは、奇妙にうねりながら最後まで駆け抜けていく。観終わったあとの私の第一声は「あーおもしろかったー!」だった。こんなにストレートな感想を叫びたくなる映画を観たのは本当に久しぶり。日曜日の憂鬱なんて感じる隙もないくらい晴れ晴れとした気持ちで、意味もなく早足に新宿駅に向かった。これはもう一回観たい、と思い帰りの電車で武蔵野館のHPを開いた。

それから瞬く間にコロナウイルスが流行して、映画館に行くことができなくなった。

溢れかえる情報や、SNS上の語気の強い言葉にすっかり疲れてしまって、私は好きな小説も漫画も読めなくなった。歌が入っている音楽は聴けなくなって、いつも楽しみにしていたラジオ番組も受け付けられなくなった。気が付けば窓際のベッドに寝ころんで、空ばかり見るようになった。人の考えや、意図が感じられるものに触れることにたいして、身体が拒否反応を起こしているみたいだった。

文章が読めない、書くこともできない、という状態になったタイミングで、このブログへ寄稿の依頼が来た。正直何かを書ける気がまったくしなかった。でも、資料として大橋さんの漫画が貰えると聞いて、気が付いたら「やります」と返事をしてしまった。

営業の伊藤さんから、『音楽』以外にもカンゼンから出ている大橋さんの漫画をいただいた。その日のうちに『ゾッキA』を読んだ。あれ、漫画が読めた。力の抜けた絵のタッチや、唐突なのになぜか違和感を感じない不思議なストーリーに魅了されて、手が勝手に次のページをめくっていく。その勢いに任せて『遠浅の部屋』『シティライツ』を続けて読んだ。気が付けば、誰も居ない部屋で「ははっ」と笑っていた。自分が笑った声を久しぶりに聞いた気がした。

『音楽 完全版』はその次の日に読んだ。「音楽」だけでなく、描き下ろしの「プロローグ」や著者本人が当時を語る「音楽と漫画の頃」、初期作品の『ラーメン』『山』『漫画』も収録されている大満足な一冊だった。このページのカットが映画のあのシーンになったのか……といろいろ思い返して読んで、そしてやっぱりもう一度映画も観たいなと思う。こんなにすばらしい漫画が、最初は自費出版でつくられたという事実に驚いてから、年月を経て作品が多くの人を巻き込み、映画化までされたことを思うと勝手に胸があつくなった。

いただいた大橋さんの漫画をすべて読み終えて、私は漫画が好きだ、と思った。そして、またそう思えるようになって、とても嬉しかった。

大橋さんが描く世界は、私が肯定したい世界だ。

開けばいつでもそこにある世界のなかで、研二たちは今も音を鳴らし続けている。そして、そのことを想うだけで、今日もちょっとだけ頑張れるような気がしている。

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『音楽 完全版』
著 大橋裕之
ページ数 192
判型 A5
本体価格 1300円
出版社 カンゼン
発売日 2019年12月9日

【評者プロフィール】
星野文月(ほしの・ふづき)
1993年 長野県生まれ。私小説『私の証明』を刊行。
誰も聴いていないラジオをやってます。https://anchor.fm/YMK

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