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小説『エミリーキャット』第67章・燠の記憶

マンションの敷地内は延々と続き呆れるほど広かった。
彩は歩きながら果たして本当にこの地を踏破出来るのであろうかと本気で疑った。
それゆえにあの森がいかに拡大で、深い森であったかを彩は改めて思い知った。

暗くなっても桜がマンションを取り囲むように植樹されている為、その桜を照らし出す為に並列する街灯のもと、マンションの住人達はピクニック・シートを敷いて集い、夜桜見物を至るところで賑々しく行っていた。
その傍らを犬連れでどこか場違いな彩達ふたりはうつむき加減に小さく黙礼しながら彼らとすれ違ったが、ふたりは明らかにマンションの住人ではない為に怪訝な眼を一斉に放たれた。

夏場は芝生の勾配に散水するのであろう、芝のなだらかに隆起する至るところに銀色のスプリンクラーが点在し、それが街灯の光で蒼白くまるで隠された武器のように鋭利に輝くのを彩は視線の隅でそっと見澄ました。
スプリンクラーを設置した広やかな芝生やそれを円(まど)かに取り囲む桜並木、マンションの各家庭から流れる夕餉(ゆうげ)の匂いが暖かくそしてどこか懐かしさを伴いつつ漂う中、彩は歩きながらあちらこちらへと注意深く視線を巡らせた。しかしあの森の面影はどこを見渡しても微塵も無く、ますます彼女は悲しみを深めていった。

マンションの傍の植え込みには
「珊瑚樹」
「乙女椿」
「山梔子(くちなし)」
「紫陽花」
「金木犀」
「銀木犀」
そして「沈丁花」…
と植樹されたまだ若々しい木々にその名を示すプレートがその梢に各々掛けられていた。
だがどれもあの森とは関係なく、後から植樹されたものだと彩には一目瞭然なものばかりだった。
”森の木を間引いたのではなく全滅させたのね、
あの美しい豊かな森の木々のほとんどを殺してしまったんだわ”

歩いても歩いても続く見上げるばかりの高層マンション郡はどれも皆、窓灯りの灯る家庭の温もりを宿しながらも今の彩にはそれらはどうしようもなく味気無い無機質な巨塔のように感じることしか出来なかった。

エミリーと歩いたあの深い紅葉の森、ふたり抱き合い、笑いながら転げ落ちた苔混じりの天然の芝の斜面と深い草地の優しい褥(しとね)、
その時突然、彩の目の前に見えないスクリーンがあるかのように何故か睡らされていたそこでの記憶の断片が次々と音を立てるように色鮮やかなディテールとなって、スクリーンの上に蘇るのを彼女は視た。

そこで交わした生まれて初めての激しく荒々しい口づけ、
そのどこか痛いような口づけに彩はたとしえもない自堕落な甘美を覚えた。
それと同時にエミリーの飢えを感じるような口づけに彩はエミリーという優美な女の姿を借りた見知らぬハイエナに唇、舌、口腔、
やがてうなじ、首すじ、耳、鎖骨、現存する乳房も、失われた乳房さえもが全て時を遡ってまで食い尽くされるような恐怖が一瞬胸の奥に突き上げた。
するとエミリーのキスはそれを察したように柔らかくどうしようもなく甘い慰めへとすり変わる。
繻子(しゅす)で包み込むようなその時のどこか仰々しい貴婦人のような挙措、
彩が安堵するとそれに安堵したエミリーの中に矢も盾もたまらず新たな波が揺り起こされる。
そしてそれは彩にもエミリー自身にも誰にも抑えられない。
優美で野蛮な原始だ。
エミリーの口づけは獣性を小さく彩の深部に竜巻のように目覚めさせ、それはアドレナリンと血流の奔流と共に隆起し、血管のようにふくれ上がりエミリー自身にそれを制御する術は無い。
排泄と同じくらいそれはどうしようもなく自然だからだ。
それを感じた彩はエミリーの熱い耳朶(じだ)に強くてタフな外国製の口紅の為にやや荒れて薄皮がツノのようにささくれ立った素の唇を押しつけて言い放った。


『いいわ構わない、
私を食べて』

やがてその水と油との狭間にあるボールのように板挟みのエミリーの興奮を不思議な共感で迎え入れた彩は野蛮で高貴なエミリーを迎え入れたと同時に野蛮で高貴な彼女を突き放してもいた。

どうなってもいい、

でもどうにもなりはしない、

どうかなってしまうのは私がそうなりたいと望んでいる状態になるだけだ。
だからそれは私の悲願そのもの、
そうして彩はそうなった。

と同時に小さなアザミの棘ほどの恐怖は彩の中で瞬時に消えて無くなり、
ふたりは気がつくとお互いを貪るように味わい尽くしていた。

そこには慎哉との陸ごとの時いつも感じたくなくとも、つい感じてしまっていたあの生理的嫌悪など何も無かった。
エミリーは白いドレスの裾をまさぐり彩はずっと信じ込んできた不感症の自分から解き放たれた。
その時の瞬間を思い出し、
今、彩のうなじの毛が一本一本と鈍重な速度で確実に立ち上がる逆さまのドミノ倒しの如く秘(ひそ)やかな音を立ててざわざわと鳥肌を立ててそそり立っていった。

『寒いわエミリー』

彩は思わず譫言(うわごと)のようにそう口走ったのを思い出した。

あの時寒くもないのに何故寒いと言ったのか、
エミリーの吐息をはらんだ声の無い笑いが彩の熱い潮(うしお)にかかった。

恥ずかしいもない、
嫌悪もない、

そのかわり彩はただ『寒いわ』とばかり熱病にうかされたように口走り続けた。
エミリーがあの暖炉で燻っていた黒い燠(おき)を火かき棒で突つき起こすようにして焔を起こしたように彩もまた熱く滾(たぎ)る何かに変身を遂げていた。

サナギから蝶へと、
蝶からサナギへと、
あり得ないメタモルフォーゼが自分の中で頁をめくるように次々とまるで万華鏡のように現れては消え、現れては消えた。

蝶より色とりどりで艶冶な肢体美を誇る幼虫達、
その極彩色の幼虫達の上を羽ばたく陰のような蝶となった彩は昏い水辺を、
そして宙を、
どこか虚ろに半ば微睡みながら舞った。
やがて彼女はドリルのような唯一の墜落と同時に艶やかな複数個の綺羅めく破片の飛翔体と化した。

力尽きて空を見上げると
野鳥の鳴き交わす声が遠く、
近く、まるで放射線状に差す木洩れ日のように聴こえた。

そして更に彩を追いかけてくる執拗な追憶は目眩(めくるめ)くピアノのトリルの如く彼女の全身を小さな蜥蜴の群れように素早く駆け抜けた。
堪らず眼を閉じたまま立ちすくんだ彩の柔らかい秘奥の限界めがけて突き上げる甘美な清水か?
鋭く優しい閃光のように彩の小さな世界は待ち焦がれていたその通りに貫(つらぬ)かれ、彼女は恍惚のあまり震える指先を泪を浮かべつつもキリリと噛んで、目の前を先立って歩く女に気づかれぬようそっと呻いた。

割れた毬(いが)の中からも垣間見えるあのびっしりと詰まった豊かな栗…。

黒い革の手袋に包まれたエミリーの手が冷たい門を内側から掴み、悲しげな瞳と微笑みがあの木洩れ日のように凍える夜気を溶かすように闇の中でさんざめく光のように見えた。

ブルーベルの咲く森、
ギョロリと大きな瞳を向けて笑いかける緑いろの太陽、
鳥になって空(くう)を切り飛んだあの大空、
翼に感じる風のボリューム、
それは決っして重くなどなかった。

むしろその厚み弾力を味方につけて疾風に吹き飛ばされそうな頼りない小さな翼への支えとし、安堵して独りぽっちの空の中であっても寄る辺の無さを感じずに済んだ。

名の知れぬ白い花の咲く花野原へ横たわり眺めたあの日の空…

ふたりで不思議な鳥達について語った疎林の奥。

高窓から見遥かす夜の黒い波濤のように三角波にも似て波打ち、
どこまでも拡がり、海のようにそよぐあの夜の森の葉群、
調度品の彫刻の影がランタンの光で長く伸び上がり身を打ちつけ合う小鬼と小妖精のあられもない姿と化して彩の不安な夜を魅せた。
あれは幻影だったのか?
それとも本当のことだったのか?

彩に向かって幽かに頭を下げた佳容、森の中を疾走する佐武郎の眩惑タクシーの中から見た色とりどりのキャンドルを枝の指に掴んで歌い、揺れる森の合唱、

悲しげなアデルのネモフィラの花のような碧い瞳、
慎哉と『決してあの森へは二度と行かない』と誓ったのちふたりで眠ったその夜に見た夢の中で出逢った何故か仮面をつけた酷く妖艶な人魚、

そしてブルーベルの野辺で篠突く雨と氷に打たれ記憶が遠くなり、その果てで見た夢では彩自身があの見知らぬ人魚となり、
人魚となった彩は夢の中で仮面を夢中で剥ぎとると水底(みなぞこ)、めがけてそれを投げ棄てた。
仮面はどんどんゆっくりと、
そして同時に迅速に、
冥(くら)い水の銀いろの粒子に煙る遠い深海の果てへと吸い込まれるように遠ざかっていった。
そして冥い深みから眩しい陽射しが揺れる明るい水面めがけて大きな尾ひれを揺らしながら全身を波打つように人魚の彩は上昇していった。

彩は目の前に克明に可視化された追憶の中を歩きながらふと思った。

”私はあの時、ただそう言いたかったのだ、そしてエミリーに聴いてもらいたかったのだ、
ただ寒いと…。
寒くなくてむしろ熱かったのに。

まるで幼児が覚えたての言葉を姉か母親に聴いてもらおうとするかのように、私はエミリーに向かってただただ口走った…
寒いの、寒いの、ああエミリー私、寒いの!
意味も意図もなんにもない、
最初のそれはただの悲鳴だった…
私が生まれて初めて上げた牝の咆哮だった。
そしてそのことに戸惑った私は思わずそれを糊塗(こと)するかのようにその乱心をちぐはぐで、と同時に行儀のよい言葉として現したのだ。
だってそれしか無かった、
あの時の私は一糸まとわぬ魂の世界の上にさらされて一体何をどう言えばよかったというの?
だから私はエミリーにしがみつくような思いでこう言ったのよ

『私、寒いの』と…。

『着いたわ、ここよ』

女の声に彩は怖い夢から覚めたようにはっとして色蒼覚めたその顔を上げた。

公園はその敷地内の中央にどこか求心的に遊具がギュッと寄り集まっているような印象で女ふたりの立つ場所からは遠く離れていた。
ジャングルジム、
滑り台、滑り台の前には砂場、
スプリングのついた乗るとバウンドしたり揺れたりするパンダとコアラとライオンの遊具、
そしてブランコ…
一番奥にあるブランコの傍まで近づいた時、彩は小さく息を飲んだ。
黄葉はしていないものの、
あのエミリーのお気に入りのアカメガシワの樹が末広がりの傘のような繁茂を大きく横に拡げて立っているのが夜目にもはっきりと解り、冷たい夜の春風にゆったりと弾むように木の葉を揺らしている姿を見て彩はその思わぬ再会に泪が溢れそうになるのを耐えた。

その周りにもどことなく見覚えのある気のする木々がそよそよと優しい葉擦れの音を立てながら、
ごくささやかな木立ちというよりは林泉(りんせん)を造り出していた。

木々の合間に小さな噴水が設えられ恐らく昼間は水が噴出しているのであろうが夜はただ噴水のプール部分の溜め水の傍に立つチューリップ・ランプのような街灯の蒼白い灯りがさながら人工の月のように映っていた。

噴水の傍を通り抜ける女の後ろを歩きながら彩の胸は早鐘のように鳴り響いていた。
そのことを知らぬ女はやがてぴたりと歩みを止め、何かのモニュメントのように見える碑の前で立ち止まると彩に向かってまるで軽く顎をしゃくって碑を指し示すような動作をするとにべもなく言った。

『これがそうよ』

『………』

それは白大理石で造られた記念碑のようなもので特別大きくもないがひっそりと木立ちの陰に隠れるように建てられてあった。
碑の前には誰かが置いていったのであろうか、
春寒の中枯れた赤い薔薇の花束が在った。
慰霊碑の上には達筆過ぎる上に夜目も重なり余計に読みづらい文字の刻印が”~を慰さむ、永久(とわ)の睡り、
薔薇の下で…”とところどころが辛うじて読めた。

彩はその碑の上で萎れた花束を持ってきたのがまるで見知らぬ自分であるかのような気持ちになり、胸が傷んだが冷静を装って彩は女に訊ねることにした。
『…これは…一体…?
人骨が見つかったって…
それは一体誰のものなのか…
もう判明はついているんですか?』
『ええ、それと…』
と女はどこか平板な眼をして彩をふり返ると、
『貴女もきっと解っているとは思うけど当然その発見された女性の人骨はエミリーのものではないわ』
『…もしかして…
アデルのもの…?』
『アデルって妹さんね?
…表向きハリエット?』
『……』
『でしょう?エミリーは表向きガートルードだった』

『…ええ、そうね、でもエミリーはその名前を嫌っていたわ』
彩はムッとした声を抑えようと努めれば努めるほど両手で強く抑え込んでも、抑え込んでも、その細い指の隙間から汚水のように力強く滲み出し、やがて勢いよく溢れ出す嫉妬と憤怒とを捩じ伏せようと心の中で苦闘した。

『この碑はアデルの為のものでもないし無論エミリーの為のものでもないわ、
ふたりの母親の美世子さんの為の慰霊碑なのよ』
『美世子さんの??』
と、彩は自分を苦しめる嫉妬を忘れて思わず問うた。
『何故?どうして…そんな』
『死因についてはもうはっきりしたことはもう解らないのよ、
奥歯の治療痕やDNA鑑定で彼女と解ったものの、何故美世子さんの遺体が白骨化して見つかったのか、白骨化するほどだから長い年月地中に埋められていたものであることは確かなんだけど…
もう家族であったウィリアム・キーティングつまりビリー・ダルトン氏ももう居ないし、エミリーやアデルも亡くなってしまっている…。
一族の世話をして最も近しかった使用人達までもが皆、病没して…
だから今や美世子さんの遺体が何故森の奥深くから掘り起こされて発見されたかその理由はもう誰にも解らないの…』

『…誰にも…』
『そうよ、誰にも…永遠の謎ね』
と言った後に慰霊碑からそっと眼を背けて女はまるで美世子の霊に聴かれないよう気遣うような小声となってこう囁いた。
『でも憶測はされているわ、
なんでも美世子さんの頭蓋骨が陥没していたらしくて死因はそれではないかと言われているのだけど、誰かに何か固いバットのようなもので殴打されたか、
あるいは高いとこから突き落とされたか何かだったんじゃないかって…。』

『高いところから…』

彩はふと眩暈を感じて瞳を閉じ眉間に思わず革の手袋の指先を添え当てた。
彼女の中に残像のように追憶の炎が一片(ひとひら)一片花弁を揃える薔薇のように音を立ててざわざわぞわぞわと自分の膚(はだ)の上で総毛立つのにも似て次々とそれらは疑惑となって花開いていった。

あの赤い堆(うずたか)く巻き上がる薔薇の花芯のような螺旋階段の遥か真上で教会のようなエメラルドグリーンと花紫、緋赤、檸檬いろのステンドグラスに彩られた薔薇窓が月明かりを受けて燦然と輝き、その傍から階段の手摺りを掴んでエミリーが下に向かって顔を覗かせる。

その顔は陰となって判然とは見えないが彼女の幽かな動作に連れてゆるやかに波打つ髪がまるで船の甲板に立つかのようにゆらゆらと風になびくように揺れ動く。

そして、その薔薇いろの追憶の中でエミリーは囁く。

『彩、私はここよ、早く上がってきて』

あの果てしなく上へ上へと薔薇の花弁の迷路のような螺旋階段を彩はバターカップに先導されて登っていった。
そしてその追憶の彼方の真っ只中にいる彩は思わず螺旋階段の下を振り返ってゾッとした。

螺旋階段は赤く赤く果てしなくどこまでいっても下が見えないまるでそれは真っ赤な巻き貝の中に迷い込んだかのようだった。

『大丈夫?』

心配そうな女の声に現実に引き戻された彩は初めて薄い笑顔で蒼白く頷いた。
『もしかしたら…
螺旋階段から美世子さんは落ちたんじゃないかしら?
足を滑らせたか何かは解らないけど…』
気がつくと彩はそう独りごちていた。
『何故そう思うの?
螺旋階段だなんて』
『だって…それしか思い浮かばないから…あそこの階段は高いし、
もし足を踏み外したら…
大変な事故にもなり兼ねないと思って…』
『…こんな説があるのよ、
美世子さんはビリーさんに、
つまりエミリーの義理のお父さんだけど…彼に突き落とされたか、
あるいは鈍器か何かで殴打されたかしたのではないかって』

『ビリーさんが?
美世子さんを?
そんなはずないわ、
だって彼はそんな人じゃないもの!そんなこと絶対に無い!』
彩はビリーと一面識も無いというのにむきになってそう断言した。

エミリーや山下尚三から聞いていたビリーは自分の見知らぬ男の、子供を宿し不安に押しひしがれる美世子を単なる哀れみだけではない稀有な愛情と深い共感とで救った人だ。
実子でないエミリーを育て上げた忍耐強く父性だけでなく同時に男性でありながら母性的な共感力も恐らくは豊かに兼ね備えていた男性だったはず、と彩は想った。
『そうね私もそう思うけど…
でも晩年ふたりの仲は何故か険悪となっていて美世子さんはビューティフルワールドを出ていってしまい、その後の消息が解らなくなってしまっていたの…
好きな男性が他に出来てその恋人と出ていったという噂も当時はあったようなんだけど…
それもはっきりとしたことは解らなくて、当時は美世子さんの行方は杳(よう)として知れずだったみたいね、
ビリー・ダルトン氏もエミリーや使用人達も皆、一様に口を閉ざしてそのことには一切何も触れようとはしなかったし美世子さんは家族の死後何年も経ってから白骨化して森の奥深くでやっと発見されたんだから…』
『彼女は地面に埋められていたの?』彩のその言葉に女は今さら何を言わんや?といった顔をしたものの小さく頷くとこう言った。
『確かに埋められてはいたのだけれど…まるで隠し砦みたいな造りの建物に取り囲まれた花園のような箱庭に葬られていたそうよ、』
『隠し砦…』
彩の脳裡に旧いカメラのフラッシュを炊くような音と共にあの森奥の不思議な要塞のような建物が蘇った。

『じゃあ美世子さんは…そこに単に埋められていたというよりは、
葬られていたというの?』
『それらしき痕跡が多々見つかっていたという噂ね、
美世子さんの鎮魂の為なのか美世子さんを埋めた地面の上には藤棚ならぬ薔薇棚が屋根のように建てられて常にそこに蔓薔薇(つるばら)が咲いていたようだし、
周りにも薔薇がたくさん植樹されていて…
小さな墓標まであったそうよ』

『薔薇の…墓標…』
『ええ、美世子さんは薔薇の下に眠っていたのね、
私、聴いたことがあるんだけど…Under the roseって様々な説があるけれど極秘って意味合いもあるそうよ、
でも人々が私も含めそんな風に勘繰り過ぎなだけで、単に薔薇が好きだった美世子さんの為に誰かが周りを薔薇で埋め尽くしただけなのかもしれないけれど…。』

彩は枯れた薔薇の花束を見て無言となった。

それには頓着せず女は縷々(るる)と語った。
『事故だったのかなんだったのかは今やもう解らないとはいえ、世の中は今でもビリー・ダルトンが自分を棄てて若い恋人と去ってゆこうとした奔放な妻を発作的に殺めてしまい…
そして妻の魂を慰めるためにあの要塞のような小さな建物を建てたのではないか?と言われているの、
つまりあの要塞は…
美世子さんの隠された墓地だったと…』
『……』
『でもこうも言われているのよ、それは二つ目の説、
むろん噂でしかないし、世間のスキャンダル大好きな人々が捏造した刺激的な憶測によるものでしかないと思うけれど…』
ようやく彩は掠れた声で訊ね返した。『それは何?』
『母親を殺したのはビリーダルトンではなく、娘のエミリーだったのではないかって、

だから父親や使用人達はエミリーを庇う為に母親の遺体を森の奥深く要塞を打ち建ててその中へ葬るしかなかったのではないかって…』『……』
『でも今やもう本当のことは何も解らないのよ、
何が真実なのか…
そんなこと今さら知ったとこでどうもなりはしないわ、エミリーが生き返るわけじゃなし』
『でももしそうじゃなかったら?そんなことをエミリーがしていなかったら…
それはあまりにも酷い濡れ衣だわ、もしそうならば…
私なら…私なら、
彼女の汚名を雪ぎたい!』
『……』女は闇の中で彩に向かって瞠目した。
その瞠目に抗うように彩は思わず声をひそめながらも闇に向かって叫んだ。
『だってそれじゃエミリーがあまりにも可愛そうよ!

そんなこと彼女に出来ると本気で貴女は思ってるの??』
『でも貴女だって一瞬想像したはずよ、悪夢のような想像を…
あの螺旋階段からまだ少女のエミリーが若く美しいけれどエミリーには、冷酷だった母親を突き落とす想像を』
『……』
『それが一瞬でも頭に浮かばなかったと断言出来る?』
『……』彩は震える唇を思わず私憤に噛んだ。
女の言うことは真実だったからだ。一瞬とはいえ彩はエミリーが母親を螺旋階段から突き落とす想像をしてしまったのは紛れも無い事実だった。
そんな彩の肩をまるでねぎらうように女は優しく触れると桜の花時とは思えぬ白く凍った息を吐きながら囁くように言った。
『ねえここは寒いわ、
今年の春はやたらと寒いし特に夜は冷え込む、
タロウもそろそろお腹が空いているみたいだから…』
と女はハスキー犬の前に膝まづくとその背中を優しく撫でさすりつつ温和しい愛犬に向かって長く地面に座らせていたことを頻りに詫びていたが、
やおら彩を振り仰ぐとこう言った。『ねぇ貴女、
よかったら私のうちへ来ない?
私、このマンションの先のガレージに車を停めてあるのよ』
『…でも…』
『もしよかったらだけどね、
彼は今出張中だしあと十日は帰ってこれないの、
電話は毎日してくれるけど…
だからうちは当分私とタロウとふたりきりなのよ、
だから貴女がうちへ来てくれたらなんだか私、嬉しいんだけどな、
お互いエミリーの思い出話も出来るしね、
だって今までエミリーの話が出来る人なんて逢ったことないから…。
話したいことがいっぱい!
聴きたいこともいっぱい!』

そう言って女は春寒つのる春の闇の中、真冬のように白い吐息の向こうから嬉しそうに笑った。
『…いいんですか?
お宅へ寄せていただいたりして…』
そう言いながらも彩はこの女についてゆけばエミリーへの道筋に繋がる何か確実なヒントのようなものを掴めるかもしれない、と本能的に感じた。
そしてそう思った後に彩は後ろめたい思いを口の中で苦く感じて、それを苦しまぎれに無理矢理飲み込んだ。
どうして私は罪悪感めいた心苦しさをこうして口の中で現実的な苦味として味わうことがあるのだろう?と彩は思った。
“辛い思いだけで結構、
不愉快な味まで感じるだなんて”

『だから大歓迎だってば!
私、豊島順子、
貴女は?』
『…吉田…彩です』
彩はまだ心襟を開き切れない花冷えの籠(こも)った微笑みを見せて名乗った。
『彩さんね?』
と順子は人懐っこく笑うと
『じゃあエミリーキャット族ね、私達』
『…エミリーキャット族?』
と彩は眉をひそめた。
『兎に角、ガレージへ行きましょう!これ以上ここに居たら私達、凍え死んじゃうわ!春なのに!』

固い笑顔を返しながらも彩の脳裡にエミリーのあのブルーベルの花野原で横たわりながら涙で濡れ光るオッドアイの瞳で彩を見つめるなりさながら弓を射るような強さで言い放った懐かしくも悲しい言葉がふいに蘇った。

『私は誰も殺めたりしてなどいないわ、彩こそ私を信じてなどいないじゃないの!?』

それと同時に思い浮かぶあのアデルではなく今や一体誰なのか解らない魔少女の言葉も同時に彩の胸を締めつけた。

追憶の中、あの森の中に立つ半開きの扉の陰から白いボールが忍びやかに転がり寄り、彩の足元で静止した。
それを拾う彩に向かってあの魔少女の声が扉の向こう側に拡がる冥(くら)い森の中から今も聴こえる。

『彩、エミリーは本当に花屋さんだと思っているの?
両親だって花屋なんかじゃなかったのに、彼女は彼女の父親と揃ってグルになり世間を欺いてきたのよ、エミリー達のしてきたことは犯罪よ、
父親の仕事のことだけじゃないわ、エミリーは怖ろしい罪を犯して、それを隠している、
この森の中にね、

…だから彼女はこの森を立ち去れない、永遠に…。』





to be continued…

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