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小説『エミリーキャット』第40章・イギリスから来た少女

『館内だとばかり思っていたのに、これでは話が違う!』
青年は青筋を立てて怒ったが、
ブライアンがそれを制して言った。
『個展は個展だよ、
君の作品の良さはむしろ館内の貧しい人工の光なんかよりもカリフォルニアの自然光が入るここでのほうがより引き立つ、
色彩のセンシティブさだって本来、自然の採光が得られる場所でこそ、鮮明に見えるし、より君の作品らしさも活きるってもんだ、
それにここだと人も気軽に入り易いだろう?』
『だからといって…』
青年の失望を隠し切れない明るいブルーの瞳は悲しみの灰色を曇りの日の湖面に煙るように漂う狭霧の如く、にじませ始めていた。
『こんなに強い光にずっと当たっていたら絵が変色してしまうかもしれないじゃないか、
南国の強烈な光に当てたりしないでって僕の絵は言ってるよ、
絵はナーヴァスなんだ、デリケートなんだよ!』
と言った直後に彼は思わず息を飲んだ。
あの中国娘がホルトンプラザへ入ろうか迷っているのだろうか、
また例によって何やら困惑したような様子で立ちすくんでいる姿が青年の目に飛び込んできた。
彼女しか見えない、とこの時彼は思った。
ブライアンは青年の視線の先に目敏く少女を見つけ、これを利用しない手は無いと『ジャスタミニッ…!』
と小声で吐息と唾とがマルボロの、においと共に青年の耳に飛沫(しぶき)のようにかかるような言いかたをすると、少女の元へと走っていった。
『おい、ブライアンよせ!
やめろよ!』
青年は思わずそう叫んだものの、
心の中はその『やめろ』とは全く真逆の自分が居ることを知っていた。
たちまちブライアンは少女に追いついた。ブライアンが恐らく個展を観てゆきませんか?とでも誘ってくれているのだろう、彼が愛想のいい一点の曇りも無い笑顔をすこぶるアメリカ的に浮かべながら少女に向かって話すのを青年は見た。
イギリス紳士などと世界的に呼ばれてはいるがイギリスの男はアメリカの男ほど誰に対しても社交的でもなければ、特に陽気で女性を喜ばせる話術に長けてもいない。
アンブローズの話によれば、アメリカの男はイギリスの男のように紳士たるもの『男子厨房に入らず』なんて時代遅れなことはしないという。
料理もすればアイロンがけだって女よりはるかに上手い男は少しも珍しくない。むしろ家事が好きな男は多い、
その癖、屋根が傷んだだの扉の立て付けだの家の修理は大抵専門業者を呼ばずとも出来ることが多く、とかく器用者だ。
生真面目なイギリス人と違い、些か浮気性なのは別として女性に優しく女性への賛辞の為の語彙はポケットの小銭よりも潤沢だという。
横で聴いていて歯が浮くようなことも平気で云うが、イタリアーノやフレンチよりはマシだからお前もアメリカに来てもっとこっちの女性と親しくなりたかったら頑固な英国流ばかりを押し通してないで、少しはアメリカの男を見習うがいいと言った兄の、自分とそっくりなネモフィラの花を思わす碧い瞳の奥に宿る深い悲しみと心痛とを彼は見た。
幼い頃は恐らくもっと澄み渡る明るい瞳を輝かせていた時もあったはずだ、と青年は思った。
しかし青年が物心ついた頃には、
既に歳の離れた兄は、深い悲しみを碧い瞳の奥深く宿していた。
昔、まだ幼かった青年の小さな頭を愛おしげに撫でるとよく兄はこう言ったものだった。
『いいかい?
僕らの故郷の話は父さんや母さんにはしてはいけないよ、
僕にならいいけれど、親や妹にその話をしては駄目だ、
余計な心配をかけてしまうからね、みんなが心を痛めるのをお前だって見たくないだろう?』
『でもエミリーは聴きたがるよ、
どうして僕達だけがアイルランドから来たの?って』
『妹はまだ小さいから意味が解らないんだよ、』
『大人になったら僕のお嫁さんになるだなんて言うんだ、』
幼かった青年が無邪気に笑うと、
まだ十代だった兄は弟を抱き締めて本来よりもずっと老成した声で言った。
『父さんも母さんも、お前にはきっと感謝してくれているだろう、
お前のお陰でエミリーがすっかり元気で明るくなったとね、
だけど僕はエミリーよりお前のほうが何倍も心配だよ、
お前がどれだけ心に深い傷を負うだろうかと…
そんな人間はもう僕だけでたくさんなのに』抱き締められながらも青年には兄の涙の意味がよく解らなかった。
数年後、白い薔薇やガーデニアの花に埋もれた小さな棺を見るあの日までは…。



アメリカ慣れしたブライアンが青年に向かい、手のひらを向けたと同時に少女がブライアンが指し示すその指先を辿るように青年を見た。

青年は一瞬、呼吸が止まる思いがして思わず固唾を飲んだ。
少女は無表情にこちらを見て青年にも気がついた様子ではあるが、
あまり興味をそそられたという風には見えない、
どちらかというとショッピングモールに入りたいのかもしれない、
しかし次の瞬間、ブライアンに付き添われて少女はこちらへ向かってやってきた。
個展はモールの敷地内のパティオのような買い物客が行き交うところにごく簡素に急場凌ぎに建てつけた感のあるプレハブ小屋で開かれていた。
人からよく内部が見れるように扉は無く、壁も半分しか無い、
あるのは柱と屋根だけだ。
少女がその手作りギャラリーのどこか寒ざむしい小屋へ足を踏み入れた途端、青年には少女の体温が放つ匂いがふと遠い記憶を呼び覚ますのを感じた。
それは甘くて同時にほんのり苦い、
あの熱覚ましのシロップを思わせた。
匂うだけなら甘ったるいくらいなのに、味わうと苦味やえぐみを飲み込む時、喉の奥に感じるものの、青年はその味が嫌いではなかった。
背伸びをして安香水でもほんのりつけているのだろうか?
少女が近づくとシロップか甘い薬液のような匂いがより人肌めいた温もりと湿度を伴い、青年の鼻をついた。
今日はあのガーネットのような赤茶のミニ丈ワンピースではない、
濃紺のプレーンなワンピースを着て、衿と大きく深い折り返しのタックがついた袖口だけが白く眩しいようなサテンだった。
海沿いや街中でさえ椰子の樹が目につくカリフォルニア州のサンディエゴに居て、
およそ相応しくないその服装は、
折り目正しく優美ではあっても、
この地ではむしろ浮いて見えるほど不自然に見えた。

『スイートに見えるが病気持ちのフッカーかもしれん』と言ったブライアンがいかにもわざとらしく青年にだけ解る意味のウィンクをして見せると、過度に朗らかな調子でこう言った。
『このヤングレディが君の作品を是非観たいと言ってくれてね、
今日初めてのお客様だ、
君からも彼女にお礼を言うべきかな』
ブライアンは青年に有無を言わせぬリズムに乗って立て板に水の如く、少女に向かい、青年が現在ニューヨークを拠点に有名な画家の師事を受けつつ画家として活躍している、
新進気鋭の画家であること、
まだとても売れっ子とは言えないがターナーの再来と思っているくらいだ、という強烈なお世辞を個人的に交えたプロフィールを簡単に語り、最後に『ターナーって君は知らないかもしれないけど英国の有名な画家の一人なんだが、まぁそれだけ彼は有望ということだ』
とすっかり板についたアメリカン・イングリッシュで締めくくった。
青年はターナーは好きではあったが余りにも自分とは作風がかけ離れ過ぎているし、そこまでの歴史的な画家と比較され、同じ英国というだけに過ぎないのにと途轍もなく恥ずかしくなり、穴があったら入りたいような気持ちになった。
彼は思った。
『ブライアンは善い奴だが恐らく美術には詳しくないんだな、
でなけりゃターナーの名前なんて出るはずはない、聴いてるこっちが恥ずかしくなる、それに僕の一体どこが新進気鋭だと言うんだ?』
彼はブライアンの思いとは裏腹に、少女の前でみじめな思いを噛み締めていた。
すると少女が意外な言葉を発して、男ふたりは思わず凍りついたようにその場に佇立してしまった。

『ここにある作品はターナーとは随分違うと思うわ、
作風も画風も色彩の使いかたさえ、何もかもが西と東ほど違うと思う。
ピカソと比べるのと同じくらい違い過ぎるわ、でもターナーより貴方の絵のほうが私は好きよ』
と少女は青年が思わず見とれてしまうほどの美しい歯並びを見せて笑うと、
彼自身もお気に入りの作品の一つを指し示し、尚も淀みない流麗な英語で言いつのった。
『特にあの絵、
さっきここへ入った途端、惹き付けられたわ、
野生の野原に咲く花と、車の修理に使う道具とが不思議で新鮮な対比だし、聖書が半分に切り取られたように描かれてあるのには何か意味があるのかしら、
とても興味があるわ』


『……』息を飲んだ青年は咄嗟に頭の中が真っ白になり、少女の言葉に、そぐった台詞が上手く出てこないことを歯痒く感じたが、それでも少女の最後の言葉につい今しがたまで死んだように萎え衰えていた彼の心は急に息を吹き返す思いがした。

『ターナーより貴方の絵のほうが好きよ』



この言葉が彼に薔薇いろに潤う息吹きを与えた。

そしてその後に続く少女の唇から魔法の呪文のように飛び出す麗しい言葉の数々ほど身体の半分が死滅したような落ち込みに打ち沈んでいた彼を瞬く間に生き返らせ、幸せの絶頂にまで導き出してくれた言葉は、
この世界にきっともうどこにも無いとすら青年は思った。
ニューヨークでも少しは好意的に書いてくれた論評ですら彼女の率直でみずみずしいような感想の足元にすら及ばない、
その言葉の端々もが彼を内側から早鐘のように打ち鳴らし、その心臓は横隔膜の上で躍り狂うあまり今にも口から飛び出しそうだと青年は思った。
少女の言葉が彼の中を血流に乗って全身を駆け巡るような思いがした。
青年は頬を紅潮させ、うっすらと感動の涙さえ浮かべ、あふれるような微笑みで思わず少女を見た。


しかし少女はその青年の微笑みに、やや困惑したかのような固い笑みを返すだけだった。
だが男達はふたり揃って、東洋人というのはこういう曖昧な笑みを見せるものなのだと好意的に受け取った。
ブライアンは少しばかりプライドを傷つけられた顔つきをしながらも、これで青年のご機嫌が治ってくれたらむしろ有難いくらいだ、と彼は思った。
ブライアンは傷一つ無いピカピカでカリフォルニアの光を通す、まるでアクリル製みたいな笑顔をそのままに、さっきとはかなり落ちたトーンの声でこう言った。
『ヨウコにギャラリーの中を案内してあげたら?
とてもインテリジェントな女性のようだから、君と話が合うかもしれない、』
観る順路が一応は決まっていたが、頭の中が感動のあまり真っ白になったままの彼はただ奥行きだけはあるギャラリーの奥へと、まるで夢遊病者のようにふらふらと歩き出し、
それにつき従うかのように少女が少し距離を置いて青年の横を歩き、
ふたりはコーナーを曲がって数少ないスタッフの好奇心丸出しの視線から姿を消した。
気がつくと彼は最後に観る絵の前に立っていた。
『順路があるんじゃないの?』
という少女の声に急に現実に引き戻された彼ははっとして、彼女の小鹿のように黒々と濡れた大きな瞳を改めて見た。
『ああ…しまった、そうだった…』と青年は思わず内心舌打ちしたが後の祭りである。
『いいんだ別に、どこから見たって僕の絵なんか…
どうせまともに見てくれる人なんかここには居やしないさ、』


『そうなの?』
『ここだけじゃない、どこだって…兄のお陰でこうしてささやかながら個展を出してはいるものの、…
こんな掘っ立て小屋での個展なんて…
そうと解っていたら、僕はいっそのことなんにもしないほうがまだマシだった』
『……』青年が願ったわけではなかったが沈黙がふたりの間を流れた。

『貴方…アメリカ人じゃないのね?』
その沈黙を破るように少女が言った。『僕はイギリス人なんだ、アメリカ人じゃないよ、でも何故解ったの?』
『解るわ、私もイギリスから一週間前にアメリカへ来たの、
観光だけど…』と少女はどこか沈痛な面持ちでそのあどけなさを曇らせると視線を青年から反らした。
その時、彼はふと思った。
少女のように見えるが案外少女はもうとうに自分が思っている以上に大人の女なのかもしれない、


『イギリスから?何故イギリスから??』
少女の伏せられた長い睫毛
にぼんやりと見とれていた彼はワンテンポ遅れて今更驚いたように言った。
『イギリスに留学していたのよ、
でも事情があって…帰国するの、
でもなんだか真っ直ぐ帰れなくて…どうせ一生に一度だろうからと見納めにと思ってアメリカへ立ち寄ったの…だけどきっともうすぐ日本へ帰ると思うわ、
いつまでもアメリカにいるわけにはゆかないもの…』
『日本?君、日本人なの?』
『中国人だと思ったんでしょう?
アジア系では中国人が多いものね、それと私の名前はヨウコじゃない、ミヨコよ、
どうすればミヨコがヨウコに聴こえるのかしら?』
『ミヨコ…』
『さっきの彼、確かブライアンと名乗っていたわね、
名前を尋ねられたから答えた時には彼、こう言ったのよ
''オー!ミョーコ"って』
少女が初めて可笑しそうに声を立てて笑ったので青年も嬉しくなって思わず問うた。
『ミョーコって可笑しいの?』
『可笑しいわ、
ミョーコだなんて奇妙な名前、日本には無いわ』
『本当だ…今は君の英語、イギリスのアクセントになっている、
でもさっきまではアメリカの英語をごく自然に喋っていたね』
『日本ではアメリカの先生に英語を習っていたの、でも私はアメリカよりイギリスへどうしても行きたくて…』
『どうして?』
そう尋ねられて少女は急に不機嫌な顔をするとぼやくようにこう言った。
『好きだったからよただ単に、
みんな聴くのねどうしてイギリスを選んだんだって、
イギリスを選んだ日本娘の野暮な口から大英帝国への壮大なリスペクトの美辞麗句が並べ立てられるのを、みんな待ち望んでいるからよ、
それだけ日本人なんか心の底では小馬鹿にして見下しているのよ…
イギリス人なんて』


『そんなことはない!だって』
と彼が言いかかるとブライアンが足早に角部屋に入ってきた。
『失礼、ちょっと特別なお客さんがいらした、画家に逢いたいと仰られているから君は来るんだ』
『えっ、でも』『君の写真が掛かっているのを見て本人がいるなら逢いたいとおっしゃってくださっているんだ、
早く行ったほうがいい』
『……』青年は少女への想いに苦しいような目を向けたがその青年の耳元でブライアンが急かすように耳打ちした。
『ロサンジェルスで画廊を開いてらっしゃるオーナーの方なんだ、
だから君は早く行ったほうがいいんだよ!』
『……ロサンジェルスの?』
と言いながらもまだ名残惜しげにする青年を見かねて、育ちはいいが計算性に欠ける青年にブライアンは苛々と言った。
『君の為に俺は言ってやってるんだぜ、何しろ君は親友の弟だ、
君だって本気で画家になりたいんならああいう人に顔を売っといて決して損にはならないはずだろ?』
『……』
『いいか?一分以内に来るんだ、
一分を過ぎたら俺はもう知らない、君のサポートから降りる、
その後は彼女とこのダウンタウンのどこかで中華料理でも食べながらキャンドル・ライト・デートでもするんだなその代わり君の夢も今日で、終わりだ!』
ブライアンが姿を消したと同時に少女は静かに言った。
『彼の言う通りだわ、
貴方は行くべきよ、
せっかくの才能を無駄にしないで、私にはそんなもの無いから貴方が羨ましいわ、それはね神様から授かった大切な宝物よ、
そういう意味では貴方の才能もターナーの才能も同じよ、
だから埋もれさせちゃ駄目、』
『……』息が上がり、胸が弾み、彼は涙を少女に隠すようにその場をまるで逃げるようにして立ち去った。


青年がひじょうに色蒼褪めてはいるものの笑顔でさっきゅうに立ち戻ってきたのを見届けたブライアンは、安堵のため息と共に彼の背中を叩いて労(ねぎら)いの笑顔で迎え入れ、LAのオーナー氏夫妻に紹介した。
彼をとりまく人数がそれに連れて増え、やがて客足が増える中、彼に興味を示し声をかける人も出てきた。作品について聞きたいことがあるという明らかに染めたマットなバター・ブロンドの女性はサンディエゴの新聞記者だと名刺を差し出した。
握手と共に自己紹介をする彼の視線の端に皆一様に日焼けしたサンディエゴの人々とまるで入れ替わるように抜けるほど色が白く、鉛紫の光沢を放つ黒髪の少女が出てゆく横顔が見えた。
『ああ、お願い、行かないで!』
心の中で彼は叫んだが、少女は青年に幽かに余韻のような微笑みを残すと東洋的に小さく頭というより顔だけを下げるような仕草を一瞬見せた途端、アイスクリームやコーラを持った賑やかな人混みにまるで溶け込むように忽然と消えてしまった。

To be continued…



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