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小説『エミリーキャット』第64章・悲しみよ、こんにちは

足音は一人のものではない。
複数で勇み足に近づいてくるものだとエミリーは思った。

ケンイチは鞄の上蓋をまくり上げ、中から赤く分厚いノートブックを取り出した。
そしてそれを自分とエミリーの目の前の草地の深みへと紛れ込ますようにして置くとエミリーに向かって真剣な目を向けた。

『いいかい?
これは君に読んでもらいたくて、おじさんが昨年からコツコツ書き溜めておいたものなんだ、
だからこれはおうちへ持って帰って読んで欲しい、
今のエミリーちゃんには少し難しいかもしれないが、いつかもしかしたら君の人生に少しだけ役に立つことがあるかもしれない、
エミリーちゃんに知っておいて欲しいことやこれからの君に何か生きる上での参考になればいいと、おじさんなりに考えて考えて書いたものなんだ、
つまりこれはおじさんがエミリーちゃんに送る長い長いラブレターだ、エミリーちゃんからはとてもラブレターだなんて思えない内容かもしれないが、僕はもうずっとエミリーちゃんと悲しいことだがお友達ではいられなくなりそうだから…。
代わりにおじさんはこれを君に託したい』
『そんな…おじさんどっか行っちゃうの?だって私とずっと友達でいてくれるって約束してくれたじゃない!』
『僕は変わらずそう望んではいるよ、しかし』
そう言いかかるケンイチの言葉の継ぎ穂を踏みにじるような色を、ほとばしらせて背後からの中年の男の声がふたりの会話を遮断した。

『長谷川さん、休憩時間はそろそろ終わりですよ』
『ああ、これはどうも』
とケンイチは声のするほうを、
こわばった笑顔で振り返りながらも、座ったまま背後に向かって、そのねじった上半身で足元の草地を隠そうと努めた。
敏感なエミリーは咄嗟に背後に立つ十名近くいる大人達の視線から反れるようにノートブックを拾い上げると、
ダッフルコートの前を素早く開き、その小さな胸に抱(いだ)くようにして包み隠した。

『長谷川さんその女の子は一体どこの誰ですか?
貴方には確かお身内は居ないはずですが、』
エミリーは声のするほうをノートブックをコートの中にひた隠しにしたまま、そっと上目遣いに見つめ上げた。
『身内のようなものですよ、
この子のことは娘か孫のように思っていますからね』
そう答えたケンイチを、煙草の吸いすぎの為か、すっかり血色の悪くなった薄い唇の端に声にならない嘲りを浮かべながら、四十代くらいの男が遮るように言った。

彼はあくまでもケンイチ本人に試問したわけでも、確認したわけでもなく、悪意ある他者が吹聴するケンイチへの色眼鏡や嗜虐的な噂の断片の数々を、
ほんの僅かに聞きかじっただけで、当人よりも無責任な噂のほうを信じ切っていたのだ。

自分の頭の中の憶測だけで勝手に造り上げてしまったに過ぎないケンイチへのイメージやストーリーを、なんの証左も無いのに盲信した彼はその盲信によりケンイチを驚くほど短絡的に断罪しようとしていた。
ケンイチはそのことに気づいてはいたが、大抵の人間はスキャンダルや人の決して良くない噂が三度の飯より好きなことは知っていた。
そしてそのことに当人達は気づいていない場合も多い、

ケンイチは思った。

''どんなに物理的に忙しくても、
精神的に暇な人間というのは、
常にこういったことを何故かいつも飢えたように欲っしているし、志摩臆測で自ら造り上げたその筋書きを信じるほうが容易いのだ、
そしてそういった体質に対し、
彼らのような人々はあくまでも無自覚なのだ。''

したがって彼は彼の信じる不充分な知識にしか基づかない正義感からケンイチを社会的に排除排斥してしまおうと躍起になっていた。

『マンションの住人達が、貴方の不適切な真似を見たといって病院に苦情が来ているんです!』

四十代の男の言葉に疲弊の色と諦観の色を同時に滲ませながら、
ケンイチは言った。

『…不適切な…?
…見たとは一体何を見たというのでしょう?あなた自身がそれを見たのですか?』

『長谷川さん!貴方、その女の子とこのマンションの遊具の中へ』
と怒気を帯びた口調で荒々しく言いかけた男を制して小柄で頭の禿げた医療事務局長の初老の男が、一見温厚そうに微笑みながらこう言い諭した。
『まあ、まあ、ここではもうその話はやめときましょうよ、
ねえ?
そのお嬢ちゃんが今もまだここに居るわけですから』
『そうよそれ以上言ったら子供が傷つくじゃないの』
とやはり正義感に打ち震える医療事務員の中年の女が鼻息荒く言い放った。
それを聴いたエミリーは苛烈な勢いで負けじと言い返した。
『傷つくって何が傷つくの?
子供って私のこと??
お嬢ちゃんも子供も私のことなんだとしたら、私は全然傷ついてなんかいないわよ?
だってケンイチさんと私は親友同士なんですもの!』

見知らぬ大人達が一斉に息を飲むのをエミリーは見た。

声にならないどよめきが彼らの表面をさざ波となって次々バトンを受け渡すかのように不穏な色と変わって、さながら蛇のようなうねりを見せつつ見る見る彼らの上を伝播するのをエミリーは慄然として見た。

『子供が傷つくじゃないの』
と言ったその舌の根も渇かぬうちに医療事務の女は思わず弾けるような口調で堪えかねるようにして叫んだ。
『お友達じゃないでしょう??
あんなとこに二人きりで閉じ籠ったりして!
貴女恥ずかしくないのっ?
子供といったってもう十代でしょう?そんなに小さな子供じゃないのよ?少しは女の子としての自覚を持ちなさい!
私が母親なら本当にぶってるとこだわ』
『香川さんやめましょう、
相手はまだ子供だ、
少なくとも成人ではない、
見なさいランドセルが置いてある、大人びて見えるが彼女はまだ小学生のようだ。』
と頭の禿げた事務局長が再度、
穏やかな口調で仲間を制した。
するとその背後に立つケンイチと同じ制服姿の三十代とおぼしき男が、いかにも怜利そうな軽蔑の眼差しをケンイチに向かって放ちながら
『そうですよ、
恥ずかしいのは長谷川さんのほうだ、同じ警備員として信じられない事態ですよこれは!
あんなところへ小学生を連れ込むだなんて、
一体中で何をしていたんだか』
と吐き棄てるように言った。

『恥ずかしいってなんのこと?
被害者って誰が被害者なの?
誰も被害になんかあってないわ、それに私、連れ込まれたんじゃなくて、自分から進んでケンちゃんの秘密基地へ入ったのよ』
『エミリーちゃんもうよそう、
いいんだ、おじさんは病院へそろそろ戻らないといけないようだ、皆さんとお話があるからね』
エミリーは見る見る涙が盛り上がる瞳をケンイチに激しくふり向けると、
『私も行くわ!
だってみんな何かおかしいもの、あなた達のほうが変な色をこの丘の上いっぱいにまるで光化学スモッグみたいにあふれさせて…!
私、この色大っ嫌いよ、
勝手に何かこの人達はでっち上げてケンイチさんにそれを押しつけてしまおうとしているのよ私にはそれが解るんだからね!』

医療事務の女は思わず
『まぁ!呆れた、変わった子ね』
そう言い放った自分の口にはっとして彼女は思わず羞恥の手を当てた。

しかし人々がその医療事務員と、ほぼ変わらぬ思いを持ってエミリーを最初の印象とは違い、今や珍奇な生き物か、あるいは畸型の小動物を見るかのような視線を皆一斉に自分に向かって放つのを、
ヒリヒリと痛いほど感じたエミリーはまるで傷ついた小さく狂暴な獣のように肩を怒らせて咆哮した。

『私は変わってるかもしれないけどあなた達みたいに残酷じゃないわ!
残酷だとしてもあなた達のように上手で巧みな残酷はできないわ!
だってあなた達は独りじゃ何も出来ないのは私とまるで同じだけど
利口で狡いのは群れにならないと、そんなこと言ったり、
したりも出来ないんでしょう!?
そんなの戦争してる時の人間と同じじゃない!』

『エミリーちゃん、
やめておこう、もういいんだよ』
『でも!』
『もういいんだ、それにおじさんはもう行かないとならない、』
ケンイチはそっとエミリーの濡れ光る冷たい頬に暖かい手のひらを押し当てると真剣な眼をして頷いた。
『さあ、行きましょう。
院長室で話し合ってから、
警察へ通報するかどうかを決めることにしますが、何しろここの住人からのクレームが病院のほうへ圧力となっているんでね』

『解りました』

ケンイチは立ち上がりながら
『しかしこの子にはどうかもう、あまり触れないでやってくれませんか?彼女をもうこれ以上傷つける必要も無いでしょう?
このままそっとしておいてやってくれれば…
これは私独りの責任ですから』
『しかしどこの娘さんなのか住所と氏名くらいは届け出ないと我々も…』
『エミリーよ!
私、エミリー・キーティングよ!いいわ、私ケンイチさんと一緒に行く、行ってちゃんと警察にも話すわ、
恥ずかしいようなこと何もしていないってあのおっきなお茄子の中で私達ふたりでクリスマスイヴをお祝いしていただけよ』

『クリスマスイヴ?』

と見知らぬ大人達はまるでコーラスのように高低はもるようにして異口同音おうむ返しに言った。

『そうよそれのどこが悪いの?
ふたりでケーキを食べたのよ、
ふたりで歌を歌ったわそれがいけないこと?』
『エミリーちゃん、』
ケンイチに連動するように立ち上がったエミリーをケンイチは深い悲しみを湛(たた)えたあの驢馬のような黒い瞳を向けてその瞳だけで彼女を制して言った。
『エミリーちゃん、
おじさんがラーゲリで親しくなった友達の名前は誰だった?
おじさんがあの寒い国の夜空に最後に見たものはなんだった?』
『……』

エミリーは答えかかったが、
ケンイチの瞳を見ると何も言えずに思わず童女のように泣き出した。
『エミリーちゃんだけが知っていることだよ、
他の人には解らない、
いろんなこと、
いろんなものをふたりだけで見たね、感じたね?』
するとケンイチの背後の大人達が咄嗟に目知らせを交わしながら、はっきりと眉をひそめ、
息を飲むのを感じたが、エミリーはケンイチの中にあの巨大なオーロラが輝くばかりに翻(ひるがえ)るのを見てその美しさに言葉を失った。
『……』
エミリーは童女のように泣きじゃくりながらもケンイチの瞳を見上げ、大きく無言でがっくりと大人のように絶望的に頷いた。

『さぁ行きましょう』
ケンイチは腕を捕まれ、やがて脇を取られるようにして人々に囲まれ丘の上を立ち去っていった。

『おじさんっ!』

エミリーはケンイチの後ろ姿に向かって悲鳴のような声を上げた。
ケンイチはまるで罪人(ざいにん)のように引き連れられられながらもエミリーを一瞬半ば無理矢理ふり返ると言った。
『エミリーちゃんありがとう!
出逢ってくれてありがとう!
本当に…本当に…
ありがとう!』

『おじさんっ!』

『エミリーちゃんっ!』

ケンイチの悲しみを微笑みで包み隠した顔が引き立てる周囲の人々の後ろ姿にすっかり覆い尽くされ、やがて急峻なスロープの隆起により、すっかりその姿は周囲の人々と共に埋没して見えなくなった。
しかしその最後の微笑みと同時にケンイチの老いてかすれた声が、姿は見えなくなってもエミリーに冷たい一陣の風と共に届いた。
『さようならエミリーちゃん』『おじさんっイヤだっ!
行かないで!!』
そう叫びながらもエミリーの足はすくんでその場に凍りついたようになり、動くことが出来なかった。

人々に囲まれたケンイチの顔や姿はもう定かに見ることは出来ないまま彼らは丘の上を下っていった。
エミリーは独り寒風の吹き荒ぶ中立ち尽くしていたが、やがて廃屋化したマンションの一棟の螺旋階段を昇りつめるとその屋上へ彼女は立った。
『おじさんっ!』
エミリーは屋上から錆びて毛羽立つような金網を掴みながら絶叫した。

『おじさんっ!!』

その声を泣き荒ぶつむじ風越しに聴いた遠いケンイチらしき人影が、僅かに人影に埋もれて、
まるで人形のようにぎこちなくエミリーのほうをふり返るのを彼女は認めたが、その人影を取り囲んだ群れはやがて丘に刻まれた階(きざはし)を下りゆき、やがて病院の回転式の硝子のドアーの向こうへと吸い込まれるようにして消えていった。

それから何日も何週間もエミリーは病院へ通い詰めたがケンイチの姿を見ることは二度と無かった。

病院側は毎日下校と共に必ず雨の日も風の日も執拗にやってくるエミリーにすっかり閉口し切っていたものの、
一様に彼らは口を閉ざし、ケンイチがどうなったのか、どこへ行ってしまったのか、その行方を教えてくれる者はただの一人も居なかった。

エミリーが泣きながら病院を飛び出すのを見かねたあの禿げ頭の医療事務局長が追いすがるようにエミリーの後ろ姿に向かってこう言った。

それはエミリーを慰める為に言われた言葉であったのにかえってエミリーの背(そびら)をさながら石礫(いしつぶて)のように激しく打った。

『あの人のことはもう忘れなさい!ここであったことは忘れたほうがいいんだ、
悪い夢を見たと思って全て忘れなさい!
そうしたほうが今後のあんたの為だ、お嬢さん!』
エミリーは信じられないといった顔で事務局長をふりかえると叫び返した。
『悪い夢?
私には今のこのことがまるで悪い夢よ!ケンイチさんを返して!
私のたった一人のかけがえの無い人だったのよ!
ケンちゃんは親友だったのよ!?
私の友達を返して!』
『…友達なんかじゃないだろう?
それに長谷川さんがどうなったかなんて…仕事を辞めてどこへ行ったのかも私達は誰も知らないんだよ、
だからもうここへ来るのはやめたほうがいい、
無駄足を運ぶだけに過ぎないからね、確か…エミリーさんって云ったね?君はまだ若い、
そのうちまた年相応の彼氏か、
友達がすぐに出来るさ、
かけがえの無い人なんて若いうちはそんなものさ』

そう言って事務局長は草臥れたような、あるいは微笑みなのか、
解らないようなどっちつかずな表情を浮かべると硝子の回転式ドアーを押し、エミリーの眼にはまるで闇しか無いように見えるその奥へと、やや猫背の小さなその後ろ姿を消した。
『……』
エミリーは無言のまま打ち震えながらその場にそそり立っていたが、丘の上病院の建つ無人のアスファルトの坂道をやがて逃げるように駆け出して行った。

『私の友達!
私の大好きな人達を何故、
神様は奪うの?
エイプリルやシェリーとも離ればなれになった、そして梗子、
今度はケンイチさん、酷いわ、
私にはみんなは宝物だったのに!』

家へ帰るなりベッドで泣き臥せったエミリーは、長く開くことも出来ずにいたあの赤いノートブックをようやく心配そうに寄り添うロイとロージィに寄り囲まれながら、痩せっぽちの貧相な膝の上で開いた。
一頁目に書いてあるケンイチの大きくて読みやすい一文字一文字がさながら飛び出す絵本の絵のように頁の上から宙に向かって跳ね上がるようにしてエミリーの視界に様々な色を呈して飛び込んできた。

『エミリーちゃんへ、
話したいことはたくさんあるが、まず一番最初に言っておきたいことがある、
たくさん書いてエミリーちゃんが忘れてしまわぬようこのことは一番最初に書きしるしておくね、
エミリーちゃんまず今すぐでなくてもいいから君はいつかはアメリカへ行きなさい、

そうしていつか君が少しだけ話してくれたドクター・イカヴァニという人に逢うんだ。

君のお父さんが君に一度だけ話したというその人のことを頼って、ニューヨークへまた帰る日が、
いつか君には来るだろう、
そのことをきっと君のお父さんも考えているからこそ、そのお医者さんのことを少しだけとはいえ、君に話したんだと思う、

そのお医者さんがエミリーちゃんの叔父さんのお友達ならきっと君によくしてくれるはずだ、

日本はまだこういったことには遅れているし、君は辛い孤独な想いしかこの国ではしないだろう、
ジェーンちゃんとそれは同じだ、

だけどいつかはこの国もアメリカに追いつくようにはなるはずだ、でも昭和の今、それをただ待っていては、
君の青春も人生も台無しになってしまうかもしれない、

今はまだすぐには無理かもしれないが、いつかはニューヨークへ君はまた旅立つ時が来るだろう、
いや旅立たないといけないんだ

君はお医者さんに診てもらうだなんて''どうして?''と思うだろうね
でもねエミリーちゃん、
君は人のいろんなことが君自身そうしたいと思ってなくても判ってしまったり、その人が放つ色や波動のようなもので人の本性が見えてしまったりすることもそうだが、様々なことが少しだけ、
普通の人々とは異っているんだよ、
そのことは自覚しないといけない、

そのことを僕は病的だとは思わないが世の中では恐らく病気や障害という何か異常な…少なくとも正常ではない事態だと受け取るかもしれない、

でもねエミリーちゃん、
それが障害だとしてもそれは君の中にある豊かさの裏返し、
つまり大きな反作用みたいなものでしかないんだ、
何か素晴らしいものが隠されていたとしてもその素晴らしさが途方もなく大きいとその反作用もまたあるのだと僕は思う、

それが良い意味でも悪い意味でも平凡な人々には理解は出来ないんだ、何故なら彼らは社会生活を営む上で必要な何かが''出来る"という事態を平素、空気を吸うように、さもアタリマエだと感じていて、ろくに感謝もないからね、

もう解るだろう?
彼らはなんでも出来てなんにも出来ないんだ。

エミリーちゃん、君は自分を無力だと感じている、
お母さんに殴られ罵倒され、
低能児だ、知恵遅れだ、堕ろせばよかったなどと言われ続けて深く傷つき毎日無力感に苛まれている、

そのことはおじさんはよく知っている、でもその無力を君はむしろ喜ばなくちゃいけないんだ、
何故なら空気を吸うように様々な生活に面した事柄を操れる人間はそんなことはさしたる恵みだなんて思いもしていない、
でも君は違うはずだ、

スーパーのレジに立ち、この世界の底辺で働くような人々を君は尊いと思って心の底から震え沸き上がるほどに尊敬することが、フリではなく芯から出来るはずだ、

何故なら君にはそれが"出来ない''
からなんだ、

どんなに頑張っても
エミリーちゃん、
君にはレジは打てない、

数字の概念が無いわけではないが君にはそれは操れない、
かてて加えて同じような不自由がきっと君には他に幾つも幾つも…
あるだろう、

そしてそれらを空気を吸うように当然と感じながらこなし切って暮らす人々は、君には死んでも出来ないそれら数々をいとも簡単に可能とするだろう。

でも生まれつきそれらをさながらスプーンを持つように容易に出来てしまう人達と違って、君はそれらに対して血の滲む努力を重ねても重ねても、どうしても出来ない悲しみと痛み、悔しさを知っている、

知っているからこそ君はそのことを別の何か異うベクトル、
素晴らしさへと昇華させることが出来るんだ、

だからこそエミリーちゃん、
君は君に与えられたその無力さを素晴らしいものとして受け入れるべきなんだ、

むしろ喜ぶべきなんだよ、

たとえその為にどんなに苦しんだとしてもね、何故ならば君の''無力さ''は''単なる無力''に終わらない、
少なくとも僕はそう思っている、
終わらせてはいけないんだ、

君は無力だけど無力じゃない、
無力さから生まれるものはきっと無限なんだ。

エミリーちゃん僕は君のその無限大の未来を信じている、
何も出来ない君だからこそ、
何かを創り出せるんだとね、
なんでも平均的にそこそこ押しなべて出来る器用さに安住する世界からはむしろ絶対に創り出せない"何か''をね、

むろん君だって人間だから時にあやまちを犯すことだって、この先きっとあるだろう、
君の中をいつも稲妻のようにつらぬく激しさも衝動も時に狂気を宿す。
だが君の奥底に眠る''贈り物''は、
それだけではないんだ。

精神と魂の分裂にエミリーちゃん、君は苦しむ、

だけど我が身と世間の常識という眼鏡とに切り裂かれながらも、
君だけの聖なる狂気がむしろ君の世界を護り、やがては豊穣なものとするだろう、

何故ならばただの狂気ではないその生きる為の純粋な魔と暗さと弱さと情けなさといった負の部分は本当は君の中に常にある、
強くしぶとく負けない愛という夜明けだからだ。

君はカタワと言われながら育った。正直な人間は時に偽善者からは異常に見える、
そして彼らは一切の負の概念を嫌う、
というより恐れる、
でもじゃあそれが彼らの中には無いとでもいうのだろうか?
ネガティブもポジティブもきっと合わせ鏡のように対のものだと僕は思っている。
どちらも必要なもので、どちらか一方だけを排除しようとすればするほど不自然でそれこそ病的になる。
どちらもあっていいものだからだ。
そして僕のいとしい心優しき狂人の君は、これから君だけの''何か''を泥の中を這うようにしてきっと見つけ出してゆくんだ。

だからエミリーちゃん、
君のこれからの人生はそれを探す為の…きっと大いなる旅路なんだよ、』

『おじさん…その"何か''って何?…本当にそれが私に見つけられるかしら?
なんだか怖い…』

エミリーの濡れた頬に口づけるようにやはり濡れた小さな鼻をロイがそっと親愛をこめて押しつけた。
思わず吐息のような笑いを漏らすとエミリーは愛するロイの顔を見て無意識のうちにこう言っていた。
『ドクター・イカヴァニのところへいつか私は行くのかしら?
そしたら私のこの辛さは治るっていうの?
ああロイでも私、貴方と離れたくないわ、ロージィ貴女ともよ、
でもいつか私がもっと大きくなった時、もしかしたらまたニューヨークへ行くのかもしれない、』

エミリーの泣き腫らして桜いろに染まった瞼の裏にまだ逢ったこともないドクター・イカヴァニの顔が浮かんだ。

それは父ビリーの話したイメージが生んだものに過ぎないものの、カーキがかった浅黒く艶のある肌と濡れた黒曜石のような大きな瞳を持つドクターイカヴァニは、
エミリーの幻の中で微笑むとこう言った。

『いつか君はいろんなことを知ることが出来るだろう、
でもそのことを怖がらないで、
エミリー、
君に逢えるその日を待っているよ』

エミリーは薄紅いろの瞼をそっと開けると、傍にいるロイを抱きしめてその大きな三角の耳に向かって囁くようにこう言った。

『知るのが怖いわ、
それでも知りたいの、
自分を辛くさせているものが何なのかって、』
赤いノートブックをそっと閉じるとエミリーはそれを胸に掻き抱いて思った。

''神様は私からみんなを奪うって思ったわ、
そしてみんなに当然のようにあるものを、私には生まれつき与えてくれなくてなんて意地悪なの??って思っていたわ、
だけど…違うのかもしれない、
悲しみと出逢う数が多いぶん私にはきっと素晴らしい何かが与えられているのよ、
だから素晴らしさの裏返しの何かもまた同時にきっと神様から与えられているんだわ、
だからきっと奪われたんじゃない、その辛さや悲しみにむしろ笑顔でハローと言わなくちゃいけないんだわ、
そうやって微笑んでいたら、
きっといつか…
またおじさんにも逢える、
きっと…また素敵な友達とも逢える、きっと…おじさんの云う通り、嬉しい未来と出逢える時が来る、』

その夜眠ったエミリーの夢に色鮮やかな水々しい無数の虹が掛かった、何故だか蒼白い空が出てきた。

その夢の中で大人になったエミリーは、その虹の橋のたもとに立ち、
やがて自分の背中から目には見えない翼が二度三度と力強く羽ばたくのを感じた。

そして彼女は猫達と共にまるで爪先で跳ねるようなステップを踏みながら、虹の橋の上をさながら天駈(あまか)けるようにして、
軽々と海を越えた向こう岸へと渡って行った。






to be continued…

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