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小説『エミリーキャット』第55章・エミリーとの出逢い、尚三の初恋

『山下くん?…山下くん!』
尚三はまるで通勤電車の中で草臥れ果てたサラリーマンのように教室の隅でうつらうつらと船を漕いでいた。
『…山下くんっ!起きて、
起きなさいっ!教室は寝るとこじゃありませんよ』
二十五歳の担任の田頭富貴枝(たがしらふきえ)から叱責の声を教壇から飛ばされてもそれでもまだ尚三は強烈な眠気に惰眠(だみん)という沼の底地まで引きずり込まれ、遠い何処かで自分を呼ぶ声を微かに聴きながらも、それに抗って浮上する余裕は微塵も無く、兎に角眠くて眠くてたとえ地震が起きようが、津波がこの教室を揺れて荒ぶる水槽のようにしてしまったとしても彼はそのまま眠り続けたいとすら願った。
『おい、起きろよ、』
背後の席の竹内という少年が小声でそう言うと、心配そうに運動靴の爪先で、尚三の椅子を蹴っ飛ばしてくる。
『起きろってば、先生すごくオカンムリだぜ、もう起きたほうがいいって』
それでも起きない尚三を尻目に尚三の隣席の学級委員の三上少年がことの成り行きを愉しむかのように言った。
『ほっとけよ、帰国子女さんはまだ時差ボケから立ち直ってないんだからさ、もう1ヶ月以上経つのに、きっと先生に甘えてんだよ!
メリケン帰りは甘えん坊さんだってさ』
『田頭先生綺麗だもんね』
と別のとこから少女の声がした。『ねえ、どうして山下くんのこと、みんなキコクシジョって云うの?山下くんは男子よ、
シジョってジョシでしょう?
おかしくない?ダンシなのに』
『オカマなんだよ、帰国子女はみんなオカマだから男も女もキコクシジョなんて呼ばれたりするんだよ、』学級委員が笑いながらそう言うと教室中、声変わりをした笑い声といまだ黄色さを残す声とが少女達の声と混じりあい、その喧(かまびす)しい哄笑の余波はなかなか静まることがなかった。
挙げ句の果て『おかま、おかま』
というシュプレヒコールまで湧き起こる始末だった。
田頭富貴枝は『こらっ!いい加減にしなさい!
帰国子女はおかまなんかじゃありませんよ、山下くんをそんなこと言って虐めたりしたら先生承知しませんからね、
いいこと?帰国子女であろうがなかろうが、みんなここのクラスの生徒達は全員先生の可愛くて大切な子供達なのよ』
『わあ子供達だって、先生俺達のこと生んでくれたの?』
若い教師をからかう声色は声変わりの遅い少年のようだ。
『じゃあ、家に帰ったら居るあのオジサンオバサン達は一体誰なんだろう?』
といかにも態とらしい芝居がかった声が別方向からした。
『先生、まだ結婚してないのにこんなに沢山子供産んじゃ駄目じゃないですかぁ』
『先生こんなに沢山産んで痛かった?俺の母ちゃん俺産んだ時、痛すぎて失神したのに、痛すぎるからまた失神から覚めちゃって余計地獄だったって言ってたあ』
『わあ先生痛かったって一体どこが痛むの?』
『ねえ先生赤ちゃんてどっから生まれるの?』
すると学級委員の三上少年が権高な中にも愉悦を含んだ口調でこう言い放った。
『そういうことは俺に聴けよ、
先生より俺のほうがずぅっと詳しいんだから』
『わあ、教えて教えて』
田頭富貴枝はほとほと困り切った顔で白いブラウスの上からでもそうと解る豊かな胸の上に腕を組んだ。
日頃から胸が大きいことを、からかわれてはしょっ中男子生徒から触られまくっている田頭冨貴枝はそんなことくらいでは少しも音(ね)を上げなかった。
『三上くん、
そういう話は小学生がまだ話すことではありませんよ、
どうしてもそういった話を今ここでしたいのなら、授業の妨げになることでもありますし、お父様やお母様にわたくしから後でお電話差し上げないと駄目かしらね?』
と言われて三上少年はぐうの音も出なくなった。
『でも三上産婦人科はいい病院だって、三上くんのお父さんもいいお医者さんだって、近所のおばちゃん言ってたよ、
私の娘はナンザンだったけど健康優良児が生まれたって、ねえ先生ナンザンって何?
先生もナンザンしたことある?』『きっとプロレスラーの名前だよ力道山みてえ』『わあ俺、力道山好きい、めちゃんこカッコいいよあの人最高だぜ』

『俺、ファイティング原田のほうが好き、ボクシングはプロレスと違って八百長じゃ無いもん』
『なんだと?じゃあ力道山は八百長だって言うのかよ?』
『なぁなぁ八百長ってなんだ?』
『ねえ先生は力道山とファイティング原田と八百長とどれが一番好き?』
『ちょっともうやめて、
先生困ってるじゃない、可愛そうよ』『そうよ、博子ちゃんの言う通りよ、
だって和子、一番末っ子だからお父さんの顔も知らないのよ、
お父さん戦死したから先生からそう言われて嬉しいよ、お父さんじゃなくてもお母さんがふたり居てくれたらとても嬉しい!』
一瞬教室がしん…と鎮まり返った。
『斎藤和子ちゃん?今の言葉、
先生すごぉく嬉しかったわ、
先生も和子ちゃんみたいな優しくて可愛らしい女の子を生徒に持てて誇りですよ、和子ちゃんはまだお腹にいる時にお父様、戦死なさったのよね、でも、お国の為に亡くなられたんだから…
決して無駄な死ではありませんよ、今でもきっと和子ちゃんの傍に居て見守ってくれているわよ、それに和子ちゃんは兄弟姉妹が大勢いるものね、お母様はさぞかし大変でいらっしゃると思うけど…』と田頭富貴枝は沈痛な面持ちとなった。

『でもないと思いますけど、』
と三上少年が言った。
『和子のお母さんうちでもう2回も子供堕ろしてるし、』
『うわあ、なんだ、そりゃあ』『ダンスホールで歌ってんだってさ、ついでにアイジンやってんだって、ダンスホールで歌手やってるだけじゃ生活出来ないからシャチョウさんにお世話になってるらしいってお母さんから聴いた』『三上くんやめなさいっ!
なんてことを貴方は言うのっ
和子さんに謝りなさ…』と田頭富貴枝が言い終わらぬうちにもぞもぞした口振りでキコクシジョの少年が急に目覚めてこう言った。
『ダンスホールの歌手のどこが悪いってんだ?
だって立派な仕事だよ、
誰にでも出来る仕事じゃない、
彼女のお母さんはそれだけプロフェッショナルてことじゃないか』『でもお妾さんなんだぜ』
『お妾って何?ああミストレスか…でもさ考えてもみろよ?
子沢山で日本なんかまだ女性がなかなか働かしてもらえない国なんだろう?
お給料も猫の額ほどだって聴いたよ?』
『それを言うなら雀の涙だろう?』
『まあどっちでもいいや、
そんだけたくさん子供生んでも、彼女のお母さんはきっとまだまだセクシーなんだよ、
いいじゃないか、歌手やってハウスワークもして大勢の子供達育てて、おまけにセクシー、
素敵じゃないか、
和子さん君のママはきっと黒いタイトなドレスが似合うゴージャスなレディなんだよ、
そうだな、多分…ジャズシンガーのローズマリー・クルーニーみたいな感じの…』
そう言い終わると何事も無かったかのように尚三はまた眠りこけた。『ちょっと!山下くん、起きなさいっ』

『なぁ今ノートに書きとったけどミストレスって何?新種のウェイトレス?』
『セクスィーってのもなんだ?
やっぱ新種のウェイトレス?』『ゴージャスって新しいプロレスラー?怪獣みたいな名前だなあ、おっかねえ』
『ローズマリーなんとかってのも誰なんだよ?歌手だって?』
『知るわけないだろう?
アメリカの青江三奈みたいなもんじゃねえの、マリリン・モンローの親戚かなんかかもしんねえぞ、アメリカだし、』
『プロファッションてのもナンだ?新しい洋装店か?』
少年達は皆、おのおの学習帳と鉛筆を手にしたまま、
一斉に首をひねり、揃って同時にこう言った。
『わっかんねえ』

尚三は授業中に散々眠ったので少しはすっきりとして休み時間になると校庭からやや離れた自転車置場の傍にある節瘤(ふしこぶ)だらけの大きな松の古木と貧相な梅の木、そして庭石のある芝生の庭へ入り込むと、そこで横たわって空を見上げた。
地面から続くこの国は海を隔てているだけでアメリカとは全然違うのに、空だけはアメリカで見た真昼のあの空の色とたいして変わりなく見えるのが尚三には不思議でならなかった。
美しいブルー・スカイは高く澄み渡り、些かお腹の空いてきた尚三には今見ている雲は食べたら甘いコットンキャンディーのようにも見える。
この空は懐かしいアメリカへと繋がっているのだ、と思うと尚三はアメリカのあの湿度の低い風土、様々な人種の人々の体臭がむっと立ちこめる空気感、慣れるまでは頭痛や吐き気を感じるようなその空気感までもが尚三にはただただ懐かしかった。
そしてそのあらゆる肌の色の人々と道ですれ違うと『ハーイ』と顔見知りでなくとも必ず声をかけられる開けっぴろげな文化の異いをも思い出し、彼は思わずホームシックじみた心持ちになり、涙が浮かびそうになった。
そしてより人懐っこい人ならば、少年相手でも少女相手でもその『ハーイ』の後に『スウィーティー』と声をかける老若男女の満面の笑顔が思い浮かんだ。
手荷物を抱えた年輩の、あるいは大人の女性が店や銀行へ入ろうとしていると小さな子供ですら、
その硝子の扉を先立って行って、開け、その小さな手を扉に添えて自分の母親ほどの女性が中へ通り抜けるまで待っていて、女性が『サンキュー』と云うとすかさず『ユーウェルカム、マァム』
と答える。
そんなことは気障なことでもエエカッコしいでもなんでもなくごく普通に見かける日常的な風景の一コマでもあった。

それに比べて日本の子供達は一体あれはなんだ?と尚三は思った。

『つまらないなあ、日本の小学校て…なんてガキばっかりなんだ、
とてもあいつらが同い年とは思えないよ』
と小五の彼は思った。

『ねえ…君、そんなとこで何やってんの?』

声のするほうを振り返って尚三はハッとして芝の上へ起き直った。

『そこ多分入ったらいけないのよ、柵があるでしょ?』とその少女は微笑んだ。

長身で手足が長くヒョロッとした体型は十四、五歳くらいに見える。何よりもその彫りの深いどこか憂いを秘めた顔立ちと艶のある波打つブルネットの髪、抜けるように白く理目の細かいポーセリンのような肌は、どう見ても日本人ではない。唯一薄く色の入った奇妙な眼鏡を掛けているのが気になるが、それ以外は凛として端正でどこか少年が少女の扮装をさせられているようにも見えた。
そしてそれがちぐはぐな雰囲気を彼女にもたらしてはいるものの、尚三はそのちぐはぐさが彼女の魅力のように感じた。
見るからに利発そうなその少女は、どこかぎくしゃくとした固い動きで酷く内気そうにも見え、反面、とても人懐っこそうでもあった。
『wear you from?』と問いかけたあと尚三は馬鹿みたいだと自分で自分を思った。
『だって今彼女は日本語をぺらぺら喋ったじゃないか?』
と尚三は頭の中でそう英語で思った。
『君…本当に日本人?どこの国から来たの?』
『私、日本人よ、でも半分こなの、』
『半分こ?』
『混血娘だから』
『ああ、それでか、』
『猫のミックスと同じよ、
それと…ミックスジュースみたいでしょ?でもミックスジュースほど色んなものは多分混ざってないわ、
ハッキリしたことは解らないけど、』と彼女は肩をすくめた。『君、どこの国のハーフなの?』『日本とイギリス』
『じゃあイギリスから来たの?
ずっと日本?』
『アメリカから来たの』
『アメリカ?なんで?
なんでアメリカ?
イギリスの半分こなのに…』
『ねえ私もそこへ行ってもいい?』
『えっ?いいけど…』
少女が白いペンキ塗りの柵を越えて芝生の中へ入り込み、クスクス笑いながら尚三の隣へ座ると同時に尚三は言った。
『いいけどさあ…ここ本当は入ったらいけないんだろう?』
『でももう入っちゃったから…』
少女はクスクス笑っている
『変な女の子だなぁ』
と尚三は思った。
『君、小学生に見えないね』
と途中から尚三は思いきって英語で少女に話しかけた。
『そう?』
『大き過ぎるよ、骨太で肩幅だって僕よりあるし背も高い…
そりゃヨーロピアンはみんな高いけど、アメリカンだって高いけどさ、
それにしたって』
『私、中学生よ』
『えっ?』
『小学生だと思った?』
『なんで中学生が小学校に居るんだよ?』
『留年したの、
普通、小学生が留年なんて滅多にしないらしいんだけど私、身体が弱くて去年一年ほとんど通学出来なかったから…校長先生が3日しか登校出来ていないからいくらなんでもこれではねってうちの親に言ったらしいの』
『そうか、だからか、
本当は中学生なんだ』
『ええ、本当は中学生なのにでもまだ小学生なの、
校長先生の話によれば、この小学校で留年した子供はまだ私1人なんですって、凄くない?』
『そんなこと自慢にならないだろう?まあ病気だったんなら仕方が無いけど…病気ってなんの病気?』
そう訊いた後で尚三はまだ少女の名前を訊いていなかったことを急に思い出した。
『君、名前なんて言うの?』『私…』と言って少女は長く濃い睫毛を伏せて暫く躊躇うような沈黙をした。
やがてまるで意を決したようにこう答えた。

『私、エミリー、貴方は?』『僕、尚三、エミリーか、
いい名前だね、ねえ病気ってなんの病気だったの?』
すると少女は急につんとしてこう言った。
『いいじゃない、そんなことどうでも…ねえ尚三は何年生なの?』『僕は五年生、留年した君は今何年生なの?六年生だよね?
きっと…』
『そう、6年生、ショウゾウよりひとつ上ね、』
『二つ上だろう?本当は、
ねえ君の英語、アメリカの発音だね、イギリスの英語は話せないの?』
『今はあなたの英語に合わせているだけよ、私はパパの仕事の関係でアメリカに住んでいたからアメリカの英語も話せるけど、うちじゃブリティッシュ・イングリッシュと日本語のそれこそミックスジュースみたいな会話をしているわ』
『ミックスジュースか、
でも君はキングズ・イングリッシュかクィーンズ・イングリッシュが話せるんだろう?』
『そんなもの話せないわ、
私のはただのブリティッシュ・イングリッシュよ、
キングズ・イングリッシュとか、クィーンズ・イングリッシュなんて…あんなの…今の言葉じゃないもの、日本語で例えるなら、そうね…大和言葉みたいなものよ』
『なんだって?ヤマト…?何?それ、でもよく言うじゃないか、
クィーンズ・イングリッシュだからあんた達の使うブロークンなイングリッシュと一緒にしないでよねって』
『それ言った人、頭がおかしいのよ、それか、冗談か、
じゃなくてもそうね、誇りを籠めて我々の英語はアメリカや余所(よそ)のとは違うんだ!ってことを言いたくてわざとそう言ったのかも…
アメリカの英語よりずっとエレガントなんだぞ、格が違うんだぞって云う為にそう言ったのかも、
でも本当は今のイギリス人が普通に使う英語はキングズでもクィーンズでもなくてただ、ブリティッシュ・イングリッシュよ』
『そうなんだ…エミリーと知り合ってよかったよ、僕これでひとつtibditが増えたもの』
『informationでしょう?』
『どっちでもいいや、そんなこと、面白かったらどっちでもいいさ』と尚三は芝生の上へ寝転んだ。エミリーも横に並んで寝転ぶと言った。
『ねえ尚三はアメリカのどこにいたの?』

『俺、ワシントン、
ワシントンで生まれて…暫くワシントンで育ってその後少しだけだけどLA、』
『そうなんだ、私、LAはサンディエゴに居た時に時々バスで行ったわよ、
飛行機で行くほうが早いけどバスのほうが窓からの風景を楽しめるからいいわ、それに飛行機だと気圧の関係でパパは耳が痛くなるし私も頭が痛くなるの、
バスだと凄く時間がかかるけどバス旅行って楽しいわよ、
父が車で連れて行ってくれたこともあったけどバスのほうがなんだか盛り上がるの』
『どうせディズニーランドだろう?僕の住んでいたところはレシーダっていってロサンジェルスの中でも割りと田舎でなんにもないとこだったんだ』
『そうなのね、でも私はLAはあんまり詳しくないの、住んではいなかったから…
旅行もいいけど、やっぱりそこに数年住んでみないとそこの良さも悪さも解らないと思うの、
旅行だと多分そのどっちかだけしか見えなくて、表面的に解ったような気になって帰ってゆくだけだと思うから…。
アメリカで一番好きなのはカリフォルニアよりニューヨーク、
ウェストコースよりイーストコーストのほうが好きだったわ』
『僕もワシントンのほうが断然好きだった、確かに僕はLAは半年しか居なかったしね、もっと長く住んでいたら案外レシーダもいいとこがあったかも、
でもやっぱりワシントンのほうが僕は絶対好きだった。
今だって本当は帰りたいくらいなんだ』
『綺麗な街よね、旅行でなら家族と行ったことあるわ、
町並みが他のアメリカの都市とは少し違っていて…やっぱり首都だなあって…父がここなら住んでみたい、って言っていたわ、
まるでヨーロッパみたいな建築や街並みもアメリカじゃないような独特の雰囲気があったわ、
これは私の個人的な感想だから、もしかしたら違っているかもしれないけれど食事も他とは違っていたような気がしたわ、
でもあくまでも旅行だったから、ワシントンについては全く無知よ、ただ落ち着いた雰囲気でニューヨークよりノーブルな感じのする素敵な街だった』
『ワシントンの秋はとても綺麗だよ、…って親がよく言ってた、
僕は秋より夏のほうが好きだけど』『私、秋が一番好きな季節なの、子供らしくないってよく言われるけど』
『でも日本の秋が一番綺麗だってうちのお父さんは言ってる』
『そうよ、私もそう思う、
日本の秋はとても綺麗だし美味しい果物がたくさんお店に出るでしょう?うちの森では栗だって採れるのよそれに森全体が紅葉で色づいてそれは綺麗なんだから、』

『えっforest?今、forestって言った?』と尚三は驚いたように柴の上へ起き直った。
エミリーも尚三に次いで身を起こすと『forestなんかじゃないってよく言われるけど…でもWoodsでもないと思うわ、だから私は日本語で‘’森‘’って呼ぶのが一番好きなの、それならいいでしょう?』

『いいけど…そんなに大きなモリに君、住んでるの?』
『そうよ、もっと云うとね、』
とエミリーはワンピースのスカートの捲れ上がりを手のひらでお尻を撫でるようにして直すとやや勿体ぶって言った。
『家の周りは森ではないの、
少し木は生えているけど…家の周りは広いお庭で…そこからだいぶ奥のほうが森へと繋がっているのよ』

『へえ~…でもそれってさ、
本当に君の家の敷地内なの?』
『敷地?それどういうこと?』『近くの森林を勝手に自分んちのものだと君が思ってるだけなんじゃないの?』
『あら、そんなこと言うのなら、うちへいらっしゃいよ、
森の中を案内するわ、
うちのビューティフル・ワールドをね、あと家族も紹介するわ、私、妹が居るのよ、ハーフだけどハーフに見えない金髪でね、
見た目も大人っぽくてとても綺麗で可愛い子よ』

だが尚三が関心を示したのは妹の話ではなかった。
『ビューティフルワールド?
なんだそれ?
君はエミリーじゃなくてアリスだったの?』と尚三は嗤った。
『それはワンダーランドでしょ?うちはビューティフルワールドよ、うちには残念ながらワンダーランドに棲むようなチェシャ猫や半獣半人みたいな面白くてヘンテコな人達は居ないけど…
でもロイが居るわ、
私の大好きなロイ!
ワンダーランドのチェシャ猫なんてただニヤニヤ嗤ってるだけじゃない、ロイのほうが賢くて貴族のような気品があって、おまけに猫だけどしっかりしててもの凄く、頼りがいがあるの、まるでお兄さんみたい、チェシャ猫なんかよりよっぽど素敵よ!』

『ロイって猫?』
『そうよ、ロージィも紹介するわ、ロイの三毛猫の奥様でとびきりの美女なの、
彼女は猫だけど、まさにビューティフルワールドのswanよ』
休み時間が終わる鐘の音色の録音が流れた。
『ちぇっまた授業かよ、
つまんねえの、また眠くなってきちゃったよ、』
『ねえ今度の日曜にうちへ来ない?今度の日曜なら父もうちに居るから紹介するわ、
父はイギリス人なの、
ショウゾウと久しぶりにアメリカの英語で話せたら父もきっと懐かしがって喜ぶと思うわ』
『いいけど…でも…じゃあどこで待ち合わせする?』
『…そうね、うちはそのう…
説明するのが難しいのよ、
そうだ、佐武郎さんが車で迎えに行ってくれるわ、
私、佐武郎さんに毎日学校へ送り迎えしてもらっているのよ』
『えー…車で送り迎えなんて凄いなあ、エミリーはいいとこのお嬢様なの?』
『単に身体が弱いからよ、
私だって本当はみんなと同じように歩いて登下校したいわ、
道草だってみんなとしてみたい』
とエミリーは急に暗い淋しげな表情となった。
『ねえエミリー佐武郎さんて誰?』
すると小柄な老人の大きな叱咤が飛んできてふたりはひやりとした。
『こらこら!そこのふたり!
早く授業に行かないと先生に叱られてしまうよ』
この先には用務員の住まう家が在り、安普請ではあるが、彼はそこに妻と雑種の犬一頭と九官鳥一羽と文鳥二羽と暮らしていた。
ひょうきんで優しい彼と彼の妻は子供達を皆、孫のように愛し、子供達からも愛されていた。
『小使いさん、ねえ少しだけ大目に見て、』
とエミリーが手を合わせるようにして言うとエミリーに弱い彼は微苦笑を漏らした。
『ちょっとだけだよう、
でないとガーティちゃんまた留年になるわけにゆかないんだからね、小学校は留年二年は無いんだから』
とホウキ片手に頭を掻いた。
『ガーティ?君、エミリーじゃないの?』
『エミリーよ、でも公ではガートルードなの』
『はあ?何それ、エミリーって、じゃあミドルネームなの?』
目の前の子供達が英語で頻(しき)りに話すのを見て用務員氏は困惑したように立ち尽くしていた。
『喜多川さん、
彼ね、アメリカからの転校生、
でも日本語が上手よ、ショウゾウ、学校のアイドルの喜多川さんよ』
『アイドルなんて言われたら…困っちゃうな』
『山下尚三です。喜多川さんどうぞよろしく』と尚三は喜多川に向かって慇懃に握手の手を大人の外国人のビジネスマンがするように差し出した。
『ねえ喜多川さんイッペイとまた遊ばせてね、あとキューちゃんも、それからまた小鳥達のすり餌作らせて私、あのすり餌を作る時使うヤゲンってのが好き!』
『薬研が好きだなんて、
ガーティちゃんは別嬪さんだけどやっぱり変わってるなあ、
だいたいそんなものの名前なんか子供は興味持ったりしないよ?
一平はそこいらいつもほっつき歩いてっからなあも俺にことわりを入れなくたっていつでも遊んでやって。
あいつこそ学校のアイドルだからね』
と喜多川は少年と長々握手をしたまま困惑したような笑顔でそう言った。
用務員の犬は校内を放し飼いにされ、我が物顔で毎日のし歩いていた。犬を虐める生徒など一人もおらず、喜び勇んだ一平に飛びつかれたりその為に一張羅の洋服を汚されても親からの苦情は一切無かった。子供の服は汚れるものと思っていたからだ。
小さな子供が一平に飛びつかれて転んで多少怪我をしても、『子供はそうやってかすり傷を負いながら自然と共に成長してゆくもの』と大人達も思っていたので膝小僧に赤チンを塗られてそれではい、お仕舞いだった。
生徒も皆、一平を自分の犬のように可愛がっていたが大人達も同様だった。
中には犬が苦手な子供や教師や親も居たが、自分達が近づかなければその雰囲気を察するのか一平は近寄らなかったし、人を絶対噛んだりしない温厚な一平が、校内を低徊することに誰からも異論など出ようはずも無かったのだ。
むしろ子供に猥褻な真似をしようと忍び込み、実際被害に遭いかかった少女が泣いているのに異変を感じた一平がその輩を追い払ってくれたという武勇伝もあり、頼りがいのある賢い番犬がいる素晴らしい小学校と近所からももてはやされた。そして一平は誰からも愛され一目置かれてさえいた。
当然PTAなどから苦情が殺到するなども皆無で、そしてそれは戦後復興して間がない昭和というその時代最後に残された真(しん)に平和で長閑(のどか)な風景のひとつだったのかもしれなかった。

『ここの駅、知ってる?』
エミリーはワンピースのポケットから驚くほど美しいウォーターマンの万年筆を取り出すと自分の手のひらに英文で書いた。
その文字は逆さまに反転していて尚三には読めなかった。
エミリーは顔を赤らめて日本語の平仮名で書いた。
『うん、うちの近所の駅だ』
『じゃあ今度の日曜日、お昼の一時にこの駅の前で、
東口のほうで待ってて、
サブちゃんが迎えに行ってくれるから』

『こっちだよ、尚三くん』

エミリーの父親が森の奥へと先立って歩きながら時折振り向いては笑顔を見せた。
エミリーより淡いミルクティーのような色の髪に木洩れ日が当たるとそこが仄かに黄金(きん)いろに輝く彼は映画俳優を思わせるような水際だったハンサムで背がとても高かった。
そんな彼を眩しげに見上げる少年を気遣って『尚三くん、疲れた?少し休もうか?』
と彼は尚三の花車(きゃしゃ)過ぎるエミリーより小さく薄っぺらい、まるで少女のような肩に父親のように優しく手を乗せた。
尚三はその感触に思わずびくっと身を震わせ、人間に羽根を摘ままれた蝶のように小さく震えながらもそれに抗(あらが)わずただじっとしていた。
そして画家であるというダルトン氏の顔を尚三は恐る恐る間近に見た。
尚三は自分の肩に置かれたダルトン氏の大きな手の感触が、えも云われぬ甘美な刺激となって躰の芯にまで熱く染み通るのを感じた。
それは下半身へと潮(うしお)のように流れ、
やがて一ヵ所へとまるで紫陽花の小花のように群れ集うように蒐(あつ)まり、自分の奥底でしっかりと根付き、棲みつくのを感じた。
そしてその果てに自分の躰の一部がどうしようもなく素直に変身を遂げようとするのをなんとか鞄で隠そうとする作業で小五の彼は必死となった。
不思議な快感は彼の小さな全身をまるで優しい稲妻のように貫き、幼い彼はこのような感覚は初めてであった為、貧血を起こしそうになり、さながら少女のような細っこい脚でそれに踏ん張って耐えた。すると彼の上唇に何か生暖かいものがふいに滴り落ちた。
それは鼻血であったが過敏なエミリーが父親が気づくよりも素早く自分のハンカチを尚三に差し出し、尚三は小さく、しかし大きく彼女に救われた。
『どうしたの?大丈夫?』
とダルトン氏が言うとエミリーが先んじて尚三の代わりにこう答えた。
『アレルギーなんですって、
くしゃみが出そうになったみたい』『そうなの?』

と少年の自分への甘やかな微熱に気づかぬ彼は自分の額を尚三の小さな額へ無遠慮に押しつけるとそのままでこう言った。
『うん、熱は無いようだが、気分はどう?大丈夫?』
と額を離して笑ったダルトン氏を前に、息も絶え絶えな尚三はただダルトン氏を倣(なら)うかのように自分も笑って見せるしかなかった。
ダルトン氏の笑顔に輝くネモフィラの花を思わす碧い瞳に尚三は柔らかく敏感な胸の奥をぎゅっと強く掴まれるような気持ちになり、額に残るそのダルトン氏の感触と同時に感じた熱い吐息にすら、彼はすっかり取り乱してしまい、目の前の美しい英国紳士の傍で普通に呼吸することが出来ないほど心弱りしてしまっていた。
尚三は心臓病でもないのに胸苦(むなぐる)しく、老人のような頻脈すら感じ、やがて弱々しくはあったが敢えて彼は日本語でこう答えた。
『はい、おじ様、大丈夫です』
『わあ、おじ様だって尚三はporaitoね』
エミリーはどことなくわざとらしい幼さを装ったような笑い声を上げるとそう言って、
技巧的にはしゃいで見せた。

『そ、そうかな?』
数分の草上の休憩のあと、ダルトン氏は森の水先案内をする為に先立って歩いたが、正直疲れていた尚三との距離はかなり離れていった。
ダルトン氏の後ろ姿を見て尚三はこう言った。
『エミリーのお父さん日本語、
上手なんだね』
彼は鼻血はもう止まっていたもののまだエミリーのハンカチで押さえつつ、森からの木洩れ日を受けて目映いようなダルトン氏の後ろ姿をひたすらに目で追っていた。
『父は母から日本語を学んだのよ、もちろんプロの先生からも習いはしたんだけど、母がとても英語が堪能だったから…細かいことはだいたい母から教わったの、
でも本当のこと言うとまだパパの日本語は、凄く上手なとこもあれば、とってもおかしなところもあるの』
『そりゃあそうだろ?仕方無いよ、そんなの、
マザーランゲージじゃないんだからさ』
『でもそれがとってもチャーミングなのよ、私、パパのしゃべる日本語ってだから大好きなの、
ちゃんとしてないほうが素敵ってこともあるのね』
そう言い終わったあとエミリーは何故かふっと一瞬淋しげな目をしてうつ向いた。
森の奥から地味ではあるが、しっとりとした色合いの紬の着物を着てその上から更に純白の割烹着を着た佳容が歩いてくる遠目からでさえも優美な姿が見えた。
ダルトン氏は手を振り『ハーイ、カヨさん』と言った。
そして日本語で『どうですか?
ラズベリーは摘めましたか?』
『ええ、マルベリーの木にもね、たくさんなっていましたよ、
でもあれを摘むのは出来たらエミリーちゃんに頼みたいわね、
木登りは得意ですものね、』
『ねえラズベリーのジャム作れそう?』『作れるわよ、これだけ採れたら』と佳容は片手に提げた大きな籠の持ち手を渡しエミリーに持たせた。
『うわあ重い』
『でしょう?
でもこんなに摘んでも、大きめのジャムの瓶に二つか三つ位になるか、ならないかなのよ?
木苺はただでさえ小さいのに煮詰めると更にカサが減ってしまうから…。でもそのくらいしか作れなかったらエミリーちゃんやアディちゃんがきっと一日で食べ尽くしてしまうわ、
貴女達ときたらジャムをスプーンで掬(すく)って、まるでゼリーかプディングでも食べるようにして食べちゃうんですもの、本当に困っちゃうわ、
ジャムは貴女達の為だけのものじゃないのよ、
お父様やお母様の為にも作ってるんですからね?いいこと?
今度のジャムは全部ふたりで食べてしまっては駄目ですよ?』
と言って佳容はため息をつくと、ふと尚三をチラと一瞥し、ダルトン氏に向き直るとこう言った。『ビリーさん、こちらの坊っちゃんは?』
佳容は流暢な英語で話していたが、少年の手前急に日本語になった。
『エミリーの学校の友達ですよ』
『でも…大丈夫ですの?その…
お嬢様のお名前のことは…』
『エミリーが珍しく友達を連れてきた日です、だから今日は嬉しい日だし…尚三くんは帰国子女でもあるから…。
まあ…大目に見てあげて』
と彼は佳容に馴れ親しんだ微笑みを見せると、今度は尚三に向かって人懐っこい碧い瞳でウィンクして見せた。


『ああ、なんて素敵なんだ…!』

尚三は心の底から熱いものが湧き上がってくるのを抑えることが出来なかった。
こういうことは尚三にはよくあることだった。アメリカの学校の先生やクラスメイト、同じ日本からの男子生徒にも似た感覚を覚えることはあっても多分口に出して云わないだけで皆、そうなのかもしれないと彼は自分への違和感を騙し騙しと同時に秘匿(ひとく)しながら過ごしていた。
しかしその気持ちが自分の中で騙し切れない日がいつかは来ると尚三自身も子供なりに解ってはいたのだった。
老成したとこのある彼はなんとなく自分は少し他より異うのかもしれないと感じつつ、いずれはそれと向き合う時が来るのだと無自覚ではあったが感じ取っていたからだ。
そしてそれはまだ幼い彼に急に、やってきた。




…to be continued…

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