【青森県十和田市】馬のテーマパーク「駒っこランド」にある馬の博物館「称徳館」は馬好き必見スポットだった
以前、岩手県奥州市にある牛の博物館の記事で「北東北には各地に馬にまつわる文化や風習があるのに馬の博物館はないのだろうか」と書いた。
記事を書いた際は調べ方が足りずに知らなかったのだが、該当する施設は青森県十和田市に存在していた。
十和田市は奥入瀬渓流を郊外に有する上北地方の中核都市だ。
現在も農業が盛んな街であることに加え、市街地近くには映画にもなった『犬部!』の舞台である、北里大学の獣医学部がある。
この街の中心部から20分ほど離れた場所にある場所にある十和田市馬事公苑、通称駒っこランドにある称徳館という施設が馬の博物館としての役割を有している。
田園地帯を抜け、小さな山を車で登るとその山頂に広がっている広大な公園が駒っこランドであり、街のイベントなどがよくここを会場に開かれているようだ。
馬のテーマパークを自称するだけあり、馬をモチーフにした遊具や博物館のみならずもちろん馬も多数飼育されている。
さて、今回のメインの称徳館があるのは牧場や交流館を少し登った先。
建物などに隠れているので少しわかりにくいかもしれないが、看板に沿って歩いて行くと立派な和風建築が現れる。
最初のエリアは驥北館の名がつけられている。
驥北とは冀州というかつて良馬の産地だった中国北方の地域を語源としており「良馬の産まれる北の地」を意味する言葉だそうだ。
ここでは古代中国と馬の関係や、日本の驥北と呼ぶべき北東北と馬との関係性についての歴史が展示されている。
北東北と馬の関係性は古く、蝦夷と呼ばれていた時代から既に非常に高い弓馬の技術を身につけているという記載が『続日本後紀』の中にある。また、平安時代にいくつかの和歌で詠まれた「をぶちの駒」の「をぶち」の意味には諸説あるが、十和田市の北にある現在の六ヶ所村を指しているという説もあるらしい。
そしてここ十和田市の中心部である三本木は江戸時代の終わりに馬市が開かれて以降は太平洋戦争終結まで軍馬の育成地であり、馬産を中心に地域の経済発展が続いていた。
現在も続く青森県立三本木農業学校はこの流れを汲んでできた学校だ。また十和田市役所や十和田市現代美術館などがある十和田市中心部の官公街通りは「駒街道」とも言われており現在も多数馬をモチーフにしたモニュメントが見られるが、ここも元々は旧日本陸軍の軍馬補充部三本木支部があった場所なのだという。
驥北館に続くのは馬具館。こちらは読んで分かる通り、馬に装着する様々な装身具などが展示されているコーナーだ。
馬具館では鞍や轡、鐙はもちろんのこと、祭事で馬を着飾らせる装束なども多数展示されている。
現在でも旧南部藩地域のお祭りの時期では、町によっては着飾った馬が神輿と共に街中を練り歩く姿が見られたり流鏑馬奉納が行われたりする。
中でも代表的なのは、岩手県の滝沢市と盛岡市で毎年6月の第2土曜日に行われるチャグチャグ馬コだろう。農耕馬の日頃の労働への感謝と馬の無病息災を祈る目的で始まったこの行事で、鮮やかに着飾った60頭もの馬が鈴の音を響かせながら田園地帯から街中を歩く姿は北東北に夏の訪れを告げる風物詩となっている。
さて、この馬具館に展示されているものの中でも特にスペースを割いていた面白いものが馬の良し悪しを見極めるための文献や資料などだ。
現在も伯楽という言葉があり、よく人間に対して人間を見抜く能力がある人という意味で使われるが、元は良馬を見定める能力がある人を意味する言葉だった。今ならば競馬に携わる人や趣味にしている人でもない限りは馴染みのない能力であるが、馬と人間の生活がより密接だった時代はより身近な能力だったのだろう。
ただ、当時の馬産事情もあり現在のように主に馬の血統や普段の様子などから予想するのとは少し事情が違う。馬相、つまり人相や手相のように馬の見た目で性質や性格、果ては縁起の良さなどを判断しておりそのための指南書なども多数書かれていたようだ。
現在は青森県東通村の寒立馬に当時の文化の名残が見られるが、かつて南部藩で行われていた馬産では広い場所に馬が自由に走り回ったり繁殖したりできる状態にさせておき、その中から良さそうな馬を捕まえて武家に売るという半野生状態での放牧が行われていた。
そういったやり方では現在のように普段の様子や血統などを参考にするのは難しく、その馬の外見で良し悪しを区別する必要があったのは想像に難くない。
そもそもかつての日本で農耕馬や軍馬に求められていた性質と現在の競走馬に求められる性質とは異なり、飽くまでも「かつてはそういった迷信があった」程度の話ではあるのだが、新馬戦の時などはこれを気にして見てみると面白いかもしれない。
次のエリアは玩具館。
日本のみならず、世界中の馬のおもちゃなどが所狭しと展示されているコーナーだ。
そしてこれらの展示の最後には、十和田市とその近隣で行われている馬にまつわる行事や十和田市の馬の玩具が展示されていた。
玩具館の奥のエリアは絵馬堂。
企画展の際にはここが展示スペースになるようだ。
そして絵馬堂に連なっているのが馬の信仰館だ。馬そのものを信仰の対象とするもの、馬の健康を祈願するために信仰するもの、北東北では実に様々な形で馬と信仰は結びついてきた。
ここに続くのが語り部館。
この日はやっていなかったが、4月から11月の第2・第4日曜日と祝日には1日2回ボランティアの方による民話の朗読が行われる。
この奥には和室と洋室の休憩スペースがある、特に洋室の休憩スペースからは駒っこランドとその奥に見える十和田市の田園地帯を望むことができ、特に天気が良い日はぜひ見てほしい。
そして最後にあるのは、馬と人間の暮らしについてフォーカスしたコーナー。
自動車がまだ普及していない時代、馬は人間の生活と非常に密接に結びついてきた。その様子が写真や実際に使われてきた道具と共に垣間見えるコーナーだ。
今回の記事で紹介したのは展示物の一部に過ぎない。歴史や文化といった様々な面から馬について知ることができる称徳館は、馬が好きな人や北東北の信仰や文化に興味がある人に是非訪れてほしいスポットだった。
また、駒っこランドで行われるイベントに行く際は、是非称徳館も訪れてみてほしい。ふれあい牧場にいる馬達は勿論のこと、十和田市やその周辺で見られる神社や祭りなどを、より深く楽しめるようになるはずだ。
【余談】
2024年9月現在、iPhoneのマップアプリで駒っこランド周辺を調べると「雪中行軍記念碑」なるものが確認できるが現地にそれらしいものは存在しない。ただし駒っこランド近くに周辺には「雪中行軍案内者顕彰碑」があり、これを指しているものと思われる。
恐らくデータ的には座標ではなく住所で登録されており、かつ登録上の住所が「青森県十和田市大字深持字梅山」で切れていることから、住所が「青森県十和田市大字深持字梅山1 -1」になっている駒っこランドの中に存在するものとして扱われているためこのようになってしまっているのだろう。
蛇足ではあるがせっかくなのでこちらについても紹介したい。
雪中行軍案内者顕彰碑、あるいは東道旌表碑は八甲田山雪中遭難事故に関連する碑文だ。
この石碑があるのは駒っこランドを出て県道118号を左側に進み、突きあたりの県道40号を左に曲がってすぐのところだ。市街地とは反対側になるが、駒っこランドからは車で5分もかからない。因みに県道40号は十和田と八甲田山を結ぶ道路でもある。
八甲田山雪中遭難事故の詳細は上記の八甲田山行軍資料館の記事を読んでもらうとして、映画などにもなっているのでご存知の方も多いだろうが明治時代、八甲田山で陸軍の訓練中に大量の犠牲者を出した遭難事故が発生した。
この時、遭難した青森隊と同時期に、更に長距離を少人数で行軍しつつも1人の犠牲者も出さずに生還した弘前隊が存在する。
青森隊に対して弘前隊が生還した理由の1つとして「弘前隊は冬の八甲田に詳しい案内人を雇っていたから」というものが挙げられるのだが、この雇われた案内人は三本木のマタギの若者たちだった。彼らを讃えるのがこの雪中行軍案内者顕彰碑だ。
無事生還した弘前隊が英雄として扱われた一方で過酷な道中を街が見えたら置き去りにされてしまうなど案内人達の扱いは杜撰なもので、凍傷を負い中には歩行できなくなるほどの重傷を負ってしまった者、後に若くして亡くなった者もいたという。
青森隊の悲劇とほぼ時を同じくして起きていたもう1つの悲劇は、有名な小説などでは美化して書かれていることも手伝ってか事故の知名度に対してあまり知られていない。
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