見出し画像

似て非なるもの。人材育成と人材教育の違い



書き出し


育成と教育はしばしば混同され使われるが
明確な定義や違いは個人の主観に委ねられている。

・教育 
教え育てること。望ましい知識・技能・規範などの学習を促進する意図的な働きかけの諸活動。
・育成
やしないそだてること。

デジタル広辞苑


具体例で考えてみる。

育成か教育で考えてみて欲しい。

ゲームでレベルアップするのは?


犬や猫にするのは?


学校でするものは?


では会社の研修はどうだろう?



これらの質問に即答できる人間もいれば、じっくり考えない答えが出ない人間、そもそも論で定義のすり合わせから始める賢い人間。さまざまだと思う。


しかし僕は身近にいる大学生に週一で将来の夢や目標のための”教育”をしている。
それは間違いなく育成ではない。

何故そう確信を持って言えるのか?

育成と教育が曖昧で不確実な定義だからこそ
自分なりの解釈でその境界線に切り込んでいきたいと思う。



本題

先に結論を明記する。
教育と育成の違いは”人格の矯正を孕むか否か”である。


僕は育成と教育の定義を
・育成(スキルを肉付けし経験を得るもの)
・教育(人格と価値観を矯正し人間性を高めるもの)
だとしている。


先ほどの4つの質問に当てはめてみる。

ゲームでレベルアップするのは?A育成
犬や猫にするのは?A育成
学校でするものは?A教育
では会社の研修はどうだろう?A育成

しかし残念ながら先述した通り、育成と教育はしばしば混同され使われるが
明確な定義や違いは個人の主観に委ねられている。

そのため「自社では〇〇といった教育方針を採用しています!!」
などといった反論が生まれる。と同時に僕は良い会社だと思う。


もう一つ決定的な教育と育成の違いがある。
それは価値を与える側の責任の有無だ。

よくマニュアルや方針に基づいて価値を与える人がいる。
それ自体は間違いではない。

何故なら過去のデータが体系化され十分な根拠がある提案になっているからだ。

しかし、それだけでは教育には程遠い。


学校の現場で例えてみよう。
日本でトップクラスに難しい大学に進学したい生徒がいたとする。
成績も十分に優秀。
あなたが次にいう言葉は

「油断せず引き続き頑張ろう。」だろう


しかしそれは時として不十分だ。
それは目的のヒアリングが欠けているからだ。

もしその子が美容師になりたい学生だったなら?
真っ先にすることは美容学校のオープンキャンパスへの参加だろう。

もしその子がノーベル賞を取りたい学生だったなら?
世界規模で通用する人材になるためにより高いレベルを目指さなければならない。

もし夢や目標がないまま進学しようとしているなら
入学に必要な勉強量を最低限担保し、社会経験を積ませることだろう。


当たり前のことだが目的によって手段が変わる。
もし価値を享受する者の目標や夢が高いレベルであったなら
それに見合った環境を選択するための意思決定の責任を持たなければいけない。


もしそれに見合った努力をできていなかった場合
「その夢を諦めた方がいい。」と言わなければならない。


教育者とはそういうものだと思う。


スキルをあげる育成と異なり、まず夢や目標を綿密にヒアリングする。
それに見合った行動が取れていいない。
もしくは社会的に価値のない利己的な目的の場合
人格と価値観を言葉を投げかける”責任”と”覚悟”を持たなければならない。


だから教育は育成の先にある。


人材教育に力を入れている企業がいたとして、
スキルを教え経験を増やす行動を取れていたとしても
夢や目標が一つのコミュニティー(共同体)の
与えられた選択肢の中でしか選択できない環境ならそれは育成に等しい。


社員の教育とは「社員の意見を十分に尊重する」とかいう次元ではない。
そいつの人生で最良の選択肢を共に見つけ
その目的のために時として批判や人格を矯正する覚悟を持ち
ようやく教育の第一歩目がスタートする。

僕はその覚悟を持っている。

しかし、いくら覚悟があっても一言で人生を変えるような教育が出来ない状態は教育者としてはスタートラインにすら立てていないのかもしれない。

それでもやる。

僕の教育で福岡の学生市場が発展することによって
いつか自分の協力者になり得る人材が輩出されることを信じ
その子の果てしない可能性をがむしゃらに追求する。





育成と教育。一見すると似て非なるものであるが
人格まで矯正する価値を与える側の覚悟の違い

そこには雲泥の差があると僕は思う。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?