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喩えは人をダメにする…かも

例えば、時事解説番組の一連の流れを思い出してほしい

この文を見た時に、ほとんどの人が身構えたんじゃないかと思う。「例えば」というワードを視認することで「今から自分に馴染みのある論理が来る」と、僕がしようとする説明に対して少しばかり肯定的になったのではないか。

喩えは話者が自分の主張に根拠を持たせるために使われるわけだが、この認識は誰もが持っているために喩えに対して身を乗り出して理解しようとするクセがついていると思う。これを上手く利用すれば"この主張は今からの喩えに必ず当てはまるものだ"と思い込むように誘導されることもあるのではないか。

人は難解なものに直面した時に、どうしてもわかりやすさを求めてしまう。このとき、多少間違ってはいるが非常に身近で易しい喩えが出てきて、そこで解釈を終えるとなると、この人が直面した「難解なもの」は「自分にとって既知であった論理式」へと姿を変えることになる。しかし、喩えはあくまでもこの難解なものに類似した何かであり、難解なものそのものではないため、どうしても把握の取りこぼしが発生する。これが自分にとって新しい論理式であった場合、この人は新たな思考体系の獲得の機会を逃したことになる。

これは喩えが全て悪と言いたい訳ではなく、もちろんこの喩えという文化がとりわけ文学表現に有り余る寄与をしてきたという奥ゆかしい面などが存在することも知っている。ただ喩えに対する肯定的な姿勢は、時には理解に対して先入観を生み出してしまい、いつの間にか大きな歪みを生じている可能性があるんじゃないかとも思う。分からないものはその時だけ分からないものとして一度手元から離してみるのもいいかもしれない。

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