見出し画像

ゆりかごから墓場まで、もしもスープがなかったら

 「朝食で提供している味噌汁を廃止します、人件費の問題で・・・。」
と働き先で聞いたのはいつだったか。私はもっぱら白米には味噌汁がついていないと落ち着かないので、えっと思った。そしてかのスープ本の、老婦人の言葉を思い出した。

「わたしはね、食べることと、お昼寝と、本を読むことだけ。その他には何もいらないの」

吉田篤弘『それからはスープのことばかり考えて暮らした』(2009年)中公文庫

 舞台は前作『つむじ風食堂の夜』の月舟町から一駅の桜川。主人公オーリィは古い映画作品に登場する、ちょっとした脇役の女優に心惹かれ、この映画を何度も観るために仕事を辞めたところだった。あるきっかけでサンドイッチ店「トロワ」で働くことになったオーリィ。しかし近所にライバル店もでき始め、サンドイッチだけでは経営が成り立たなくなってしまう。そこで付け合せにぴったりなスープを考案することになるが、案の定うまくいかない。そんなある日、映画館で懇意になった老婦人宅へお邪魔することに。その時に老婦人がオーリィに言った台詞だ。

ロゴを制作してくださった鴨人さんお気に入りの一冊でもあります。

 歳を経るごとに体力も身近な人も削られるように失っていく高齢の生活。そこから彼女が導き出した、最低限の生き方を煮詰めたような台詞。タイトルにもあるスープは、この台詞の柱の“食べること”を支えている。


 思い起こせば、コース系レストランで最初に運ばれてくる食事はサラダかスープだ。調理速度もあるだろうが、野菜類から食べることで血糖値の急激な上昇を抑えるなど、人体に優しい順番に則った計算がされている。と、あすけんの女が言っていた。
 そして今日偶然読み始めた本に、人生とスープの密接な関わりを感じる一節と出会ってしまった。

「おつゆー露」いつ、どなたがこの言葉を使いはじめられたか知るよしもありませんが、露が振り、ものみな生き返るさまと重ねてあります。(中略)人が生を受け、いのちを全うするまで、特に終わりを安らかにゆかしめる一助となるのは、おつゆものと、スープであると、確信しております。

早川茉莉編 辰巳芳子『スプーンはスープの夢をみる 極上美味の61編』
(2022年)筑摩書房P14-P17

 そのスープもとい汁物が、朝食にない生活の場になるとは。上がり続ける物価に、薄給で働き手も居着かない仕事場。大切なスープから始まらない人様の朝もあるというのを噛み締めて、私は今日もスープをいただく。


 余談であるが、吉田篤弘さんのスープを程よく再現しているのではないかという店がある。ホテルニューマスターチに併設されている喫茶コマガタ(営業日:火・木・金・土の15:00~22:00)である。

「トロワ」のスープを彷彿とさせる、喫茶コマガタ“本日のポタージュ“

 ホテルニューマスターチは一室4000円以下の安価なホテルで、図書室に改装した元大浴場“おふろ文庫“や、旅の思い出に1冊だけ本を持ち帰ることのできるスペースもある。

元大浴場の残り香に包まれながら、本の世界に浸れる贅沢な空間

 積み読消化や作品作りの缶詰にもよい、読書人にはうってつけの場所だ。機会のある方はぜひ訪れて欲しい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?