見出し画像

“視える”ようになるためには

「0」「無」「零」の世界を“視る”能力、見識、感性は、大概の人間には備わっていない。なぜならば、人間は“未熟”だからである。ある意味、“視えない”ということは“人間らしい”とも云える。しかし、人間は、この「0」の世界を視えるようにならないと悟ることが出来ない。悟りを得ることが出来なければ、人間“人”に成ることが出来ない。己、この意味を理解出来るか?そもそも人間はなぜ存在するのか?何の目的で人間をやっているのか?そのことも分かった故の悟り。この真理の探究が人生の旅の目的。そのようなことが分らず、神仏に神頼みをしたところで何も動きはしない。人間は、視えないからと言って、何かにすがってみたり、大枚を叩いて誰かに視てもらったり、視えないものを視えるようなふりをしてみたり、視えないものを全くもって否定してみたりする。「0はゼロだろ。意味なんてなし!計算に必要だからあるもんだろ?それ以外は知らん!」「科学で証明できないものは無いものと同じ。無いものを有るように言うのは極めてナンセンスだ!」「あの人は、視えないものが視えるらしいよ。今度、私も診てもらおうかな…結構お金掛るみたいだけど…」「神はいないよ。でも幽霊は信じる。なんか背筋がぞっとする時あるし…」「この間、空に光るものを見たんだ。あれは絶対UFOだよ!」「裏の世界っていうのはアレだろ?極道の世界っていうか、裏街道の、堅気の人間が知っちゃいけねえ世界よ。」「それって、映像加工すれば今の世の中、何だってフェイクもの作れるよ。世界は嘘ばかりで溢れてる。笑っちゃうね」…。現代の「0」「無」「零」の世界の捉え方は、大方この程度か。これでは現代の人間が、古代よりむしろ退化していると言わざるを得ない。実相は、ものごとすべてに表と裏がある二面構造、即ち表裏一体が同時に存在する世界。従って、物や金や生物にも見えない力が働く。物でなくとも善と悪、陰と陽、昼と夜、白と黒、生と死、愛と憎、透明と混濁、正義と不正も同様。では、どうすれば"視える”ようになるのか。人間、未熟であることを受容し、謙虚に素直に正直に生きるのみ。その繰り返しの中で人間磨かれ、“視る”ための能力、見識、感性が徐々に得られていく。これらは自分自身で身に付けるもの。借り物では悟りは永遠に啓けない。


そのことを肝に銘じ、自分自身の未熟さ加減を心底認め、一からやり直しの意識で日々を生きます。


有難うございます。

幸せを呼ぶそよ風チャリダー/サステナビリティイノベーティブコンサルタント。「感謝感動を世界に地球に」のカングロ代表、ザッポス研究会、イノベーションサロンZ、システムD研究会、サステナ塾、セブメディ創設者