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命名

新元号、発表されましたね。

新しい時代、新しい年度、キリッと引き締まるような感覚がなんだか気持ちいいです。

私は日頃、自分の今生きている時代の元号を意識することは、日付を記入するときくらいのものですが、「平成が終わる」ということが決まり、世の中がそういう雰囲気に包まれてきたとき、「日本に住む人々は、こういうことで繋がっているのか〜」と不思議な一体感を感じました。

新元号もそうですが、「名前を決める」ということは大仕事です。

私の場合は、出産予定日を1ヶ月後に控え、まだ見ぬ子供の名前が決まっていませんので、子供の「名前を決める」という大仕事があります。

名前を決めることは「命名する」という言葉でも表現されます。

これは「名前を決める」ということが「命を与える」と同義である、ということを表しているかのように感じられます。

実際、「名前」という概念は、言葉を持つ人間にしかないものだと思うのですが、これは単なる個体識別番号的な意味だけのものではありません。

映画やアニメなんかで「本当の名前を知られるのを避ける」というキャラクターがいたり、呪術的な意味で「名前を知られることは、相手に生殺与奪の権利を渡すことになる」ということがあるように、「名前=その人そのもの」という認識があると思われます。

そう考えると、子供の名前を考えられるのは、親としての責任であると同時に、特別な権利だと思えてきます。

子供に対して、物理的に命を与えるだけでなく、社会的な意味でも命を与えることができるのですから。

また、新元号含め「新しい名前」というのは使うほどに手に馴染む道具のような性質のものだと思います。

今はまだ、世間的にも新元号に慣れない部分もあるかと思いますが、何度も使ううちに自然と生活の一部になっていくはずです。

私個人の話をすると、私は小さい頃、自分の名前が嫌いでした。

「〜子」という名前がおばさん臭く感じられ、「〜子」じゃない名前が羨ましかった記憶があります。

しかし歳を重ねた今、ようやく名前に年齢が追いついてきたようで、やっと自分の名前が好きだと思えるようになりました。

命名は特別なことです。

これからもう少し、出産までのわずかな時間をかけて、自分の子供に名前をつけてあげられる幸せを噛み締めながら、良き名前を考えたいと思います。

そして、無事に生まれてきてくれたら、たくさんその名前を呼んであげたいです。


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