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会社なりゆき放浪記① これって産業スパイ? IT業界の覇権争い

手記概要

高校時代のヤスオには確固たる将来像はなく、とりあえず入れる大学に進学、4年を経てもなお明確な職業観を持てなかった。大手企業にひとしきり落ちたあとに、ブランド名だけで有名企業の子会社に入社。そこで平穏に安定したサラリーマン生活が始まり続いていくと漠然と予想していた。
しかし親会社への出向を機に、ヤスオの人生は予期せぬ方向に動き始める。    
IT企業入社⇒建設業界⇒シンクタンク系IT⇒金融機関へ出向
業界、企業ごとに全く異なる価値観、風土、世界があった・・・成功、挫折、降格、左遷そして恋愛の日々・・・50代で組織を離れフリーターの道を歩む。昭和から令和までの時代変遷と業界事情を描きます。

<目次>
第1幕 これって産業スパイ? IT業界の覇権争い
第2幕 ガラスの錦鯉御殿 建築業界の栄華
第3幕 シンクタンクで踏まれ沈む 銀行文化の洗礼
第4幕 リトル半沢直樹散る 金融機関の闇
第5幕 世界が集まるパウダーワールド 北海道でフリーターデビュー
第6幕 初めてのC、さよならC 50の手習い職業訓練校
第7幕 学校の光と影 ICT支援員の現実
第8幕 日雇いの悲哀 底辺の下があった
第9幕 天国はあったのか? 小さな仕事場で


第1幕 これって産業スパイ? IT業界の覇権争い



 大学を卒業したヤスオが入社したのは国産コンピュータメーカー系のソフトウェア会社。なぜ、コンピュータを選んだか?地味でおとなしいヤスオは、有名企業にことごとく落ちた。ぱっとしない若ものを拾ってくれたのはソフトウェア会社だった。昭和末期、コンピュータ業界は右肩上がりに伸びていて、ソフトウェア技術者は大変な人手不足だった。10月になってもどこからも内定がもらえなかったものの、国産コンピュータメーカ(A社とB社)の子会社からはあっさりと内定をもらった。
 最初にB系子会社から内定をもらい、A系子会社に辞退を申し入れたが、熱心に声をかけてくれたA系子会社に断りきれず入社した。A社とB社・・・その5年後に泥沼の闘いに自身が巻き込まれることは、そのときは予想もしていなかった。
 入社すると3ヶ月間は研修の日々。100人以上大量採用したその会社は、コンピュータの素人の学生をみっちりと教育しなけれなならない。昭和の時代はまだ産業界全体に余裕があり、何も生産しない新人を養うゆとりがあった。17時30分に研修が終わると数少ない女子社員に男子が群がって、夜の街に繰り出す毎日。学生時代の延長のような日々であった。
 
 研修が終わり配属されたのは大手流通業の大型コンピュータの運用サポート部隊。システムエンジニアとはプログラムを設計する仕事と認識していたが、大型コンピュータは環境設定にも人手がかかる。端末を追加したり、移設するだけでも、ネットワーク定義を書き換えて動作確認する必要がある。稼働中にはできないから、顧客業務が終わる21時過ぎから、ヤスオのチームの出番となる。24時頃に作業が終わる。大きな作業は徹夜。朝7時にシステムが無事に立ち上がると、近くのファミレスでモーニングを食べる。テスト結果の解析がある場合は、そのまま午前いっぱいデスクワークを行う。28時間労働。朝の太陽にめまいを感じた。
 チームは華のない10人足らずの男所帯。ストレスの溜まる仕事場だから皆タバコの煙を吐きまくり空気が淀んでいた。上司である主任はいつもイライラし怒鳴り散らしていた。おとなしいヤスオは特にお叱りの対象になった。重苦しい職場だった。
 これって思い描いていた創造性のあるシステムエンジニア像と全く違う。社会人生活の希望が破れ傷心のヤスオは、正月休みに夜行列車に乗り、あてもなく九州に向かった。九州を一周しながら、その大地のエネルギーに癒やされ、桜島の噴煙を眺めながら決意した。辞めよう。ただし、今辞めても何も残らない。3年がんばって技術を身につけて自信をもってから辞めよう。
 
 社会人3年目、新人2名を部下に持つようになり、半年に及ぶプロジェクトを無事完了させたヤスオは、仕事を成し遂げた充実感を覚えながらも、この職場には何の未練もなかった。入社以来、いつも怒鳴りちらしていた上司は、プロジェクトの成功に安堵しながら、猫なで声で、「ヤスオくん、次も頼むよ」と言ってきた。すかさず、ヤスオは「会社を辞めさせてもらいます」と彼に告げた。

 そこから、ヤスオの人生は変わり始めた。転機という言葉があるが、振り返ればまさにそうであった。退職を申し出たヤスオに親会社A社から出向してきた部長は、ヤスオを料理屋に誘い、「A社で仕事してみないか?」と予想しない提案をしてきた。A社は昭和時代においてコンピュータ、通信機、半導体で日本を牽引するハイテク企業の雄であった。理系大学生の就職希望のトップで、ヤスオが卒業した大学からの就職は難しい高嶺の花と思われていた。驚くことに推められた仕事の内容は営業であった。地味で人見知りで消極的なヤスオに営業の仕事ができるのか?不安と恐怖でためらわれた。一方で、これまでの地味でぱっとしない人生を変えてみたい、という気持ちもあった。興奮で眠れず、一晩考えた翌日、部長にA社への出向を受け入れることを申し入れた。自分の人生を変えよう、挑戦しようという気持ちがその決断につながった。
 昭和天皇が崩御し、時代も昭和から平成に移るその年、ヤスオは新しい世界に一歩踏み出した。

 A社のシステム部門の営業に出向したヤスオは、高層ビルのフロアいっぱいに拡がる大所帯を見て、足が震える気持ちで挨拶を行った。第一印象は事業部長が迫力があって怖そう、社員はみんな賢そう、そして女子が華やかということだった。高校が男子校、大学が理系、最初の職場が男所帯だったヤスオにとって、各チームごとに配置されたアシスタントの女子は、まばゆい存在だった。バブルが始まった平成初期、ワンレングスにボディコンの女子社員の姿は目を引いた。

 担当した顧客は新興のアパレル企業。アパレル業は時流に乗ると、一気に大化けする。その企業は中年女性をターゲットに体型補正するデザインがヒットし急成長していた。データ量が増えればシステムを拡張する必要がある。着任早々に次期システムの提案プロジェクトがスタートした。競合は国産B社、そして外資C社である。B社は因縁の関係であった。当アパレル企業は創業時はB社のコンピュータを使用していた。しかし、会社成長に伴う3年前のバージョンアップの際、A社の敏腕営業マンのカミムラ氏の活躍でB社からA社にリプレースとなった経緯がある。該当企業はコンピュータ業界誌にモデルケースとして記載されるなどA社の重要ユーザとして位置付けてられていた。ヤスオはカミムラ氏のサポート役に就いた。
 当アパレル企業のシステムは安定性に欠けていた。処理が追いつかないだけではなく、全国の得意先向けに構築した受注システムにてトラブルが頻発していた。B社は安定性が高いノンストップコンピュータを開発し、虎視眈々とユーザ奪還を目指していた。また外資のC社は圧倒的な実績で信頼性をアピールしていた。A社はモデルユーザを維持できるのか、厳しい状況に追い込まれていた。
 担当営業のカミムラ氏は顧客との人間関係構築に優れ、キーマンを接待攻勢でがんじがらめにしており、次期商談にも悲観はしていなかった。しかし、システムエンジニア出身のヤスオは当企業をサポートするA社販売店のシステムエンジニアの技量に問題があり、顧客の信頼を失っていることに気付いた。概況レポートを作成すると上司のタバタ部長に直接報告を上げた。サポート体制が弱く、次期システムの商談は危ういと。
 本来であれば、直属の主任、課長に報告するべきところ、まだ組織のルールを知らない無知なヤスオは部長に直訴してしまった。しかし、タバタ部長はヤスオの報告に耳を傾け、体制のテコ入れに乗り出した。カミムラ氏の寝技に頼る姿勢に一抹の不信を感じていたのだろう。
 こうして、部長が陣頭指揮を執る重要プロジェクトに格上げされ、かつ販売店体制も強化させるというミッションがスタートした。一年半続く泥沼商談の始まりであった。

 システムトラブルが続くなか、当アパレル会社は次期システム商談を一時凍結する。A社にはペナルティとして担当者以外の役職者の出入りを禁止した。A社の部長や課長が訪問できない状況で、ヤスオは情報システム部員に接触しては、次期システムにおける競合他社の動向を聞き出した。
 ライバルの国産B社はデモンストレーションでコンピュータ稼働中にハードディスクを交換し、データは維持されるというマジックのような芸当を見せたという。アパレル会社の情報システム部はB社の採用に大きく傾いていた。
 この情報はA社の東京の開発部門に報告されたが、A社はノンストップ運用という機能に関し、全く手が打てていなかった。ここで寝業師のカミムラ氏はその地下能力を発揮する。B社ショールーム帰りの情報システムのアワジ部長を待ち伏せし、夕暮れ時のネオン街に強引に連れ出す。美女揃いの高級クラブでアワジ部長がほろ酔い気分になっていると、カミムラ氏はヤスオにA3数十ページの資料を手渡し、これを大至急コピーしろと低い声で命じた。資料のタイトルをみると「◯◯アパレル株式会社御中 ご提案機器仕様 B通信株式会社」とある。なんとカミムラ氏、クラブに預けられたアワジ部長のカバンからB社の資料を抜き出していたのだ。
 これって産業スパイだよね。でも、ヤスオには抵抗する勇気も正義感もなかった。汗をかいた手で資料を握りしめ、コピー屋に向けて走り出した。
 翌日、コピーされた20枚ほどのB社資料はA社開発本部に届けられた。「覇権を争うライバル企業にマシンスペックで劣るわけにいかない、同等仕様の機器を10ヶ月でリリースしろ」とA社役員から開発本部に厳命が下った。

 B社資料をA社開発部に送ってから半年が経過し、季節は冬から夏に移っていた。アパレル企業のシステム稼働も安定し、次期システム検討が再開されることになった。
 A社のアドバンテージは現状システムを把握していること、情報システム部員と人間関係があること、、、それだけであった。提案機器のスペックは競合B社、C社に見劣りする。かつサポートするシステムエンジニアの技量にも問題があった。
 このままではモデルユーザを失うことになる。それは単に一つの顧客を失うだけではなく、B社の新型マシンの後塵を拝すことを公にすることを意味する。
 A社は会社として大胆な手を打った。ひとつは、次期システムの開発がスタートするまでに、B社同等のノンストップ機能を実装すること。次期システムの商談が半年間凍結されたことは、結果的にA社の新機種開発の猶予期間になっていた。二つ目は販売店を実績ある大手に切り替えることであった。勝つためには販売店を切るという非情な手段も容赦なく打った。
 こうして巻き返しを図ったA社は、B社、C社と闘える土俵に乗った。このアパレル企業の将来像を描き、現状システムの課題を明確化し、その解決のための新しい仕組み、ハードウェア、ネットワーク構成を提案書に描いた。ホストコンピュータだけではなく、全国の取引先に設置する発注端末も独自仕様に特注することも約束した。機器構成、ソフトウェア機能一覧、金額算出、、、提案書作成は連日深夜まで続いた。書いてはレビュー、書き直しの繰り返し。システム開発期間は約1年、金額も10億円に近づく規模に膨れ上がっていた。次期システム提案書をアパレル企業に提出することができたのは年の瀬、当初の商談開始から一年半が経過していた。

 A社、B社そしてC社によるプレゼンが実施された。若手のヤスオは立ち会っていない。「勇気と自信を持って行こう!」と自らを鼓舞するシバタ部長とシステム課長を祈る気持ちで見送った。

 仕事納めまであと数日となった年の暮れ、アワジ部長からA社に採用の連絡が入った。B社、C社と同等レベルの機能を約束しつつも、まだ姿形のない紙のみの提案で本当に勝てたのか?ヤスオは半信半疑であった。    
 実は、裏ではA社の水面下の必死の工作があった。急成長のアパレル企業は株式公開を計画していた。A社は株式を買い受けることを約束した。そして、プレゼン当日の朝、A社の社長がアパレル会社の社長に直接挨拶の電話を入れていた。後の経団連会長候補にもなる大物社長からの直々の依頼を新興企業社長が無下にできるわけもない。世の中は、表舞台ではなく裏で動いていく。そういうことだった。敗れたB社の営業マンはアワジ部長の前で涙したという。
 この経験はヤスオの人生観を根底から変え、そのことにより、その後のヤスオが進む方向に影響を与えることになった。それまで、消極的な性格で、負け犬根性が染み付いていたヤスオは、勝負に勝つということの重みと快感を肌で知った。タバタ部長がプレゼンの前に言ったように、勇気と自信を持って挑んでいくという精神を学んだ。

 ヤスオが駆け出しの20代を過ごしたA社はどのような会社だったか?ハイテク企業の雄として、優秀な人材、個性的な人材の宝庫でもあった。
 難関大学の理系出身者が”営業”で顧客まわりをしている。成長著しいA社には外資系企業からも多くの人材がキャリア採用で流入していた。彼らは旧来の枠にとらわれない実力本位の仕事師であった。仕事でも麻のジャケットを着こなし、予算を達成すると、早々に長期休暇をとって優雅に過ごす。肌は健康的に焼け、ベンツやBMWに乗る。地味で真面目な典型的日本企業のサラリーマンとは違う世界の人種だった。外資キャリア組のなかには、後にA社を出て、多様な業界業種で横断的に利用できる革命的なポイントカードを創設する人物もいた。ビジョンと構想力が卓越していて、部下だけではなく上司や顧客までも動かす強力なリーダーシップの持ち主であった。
 アパレル会社の商談で暗躍したカミムラ氏もクセの強い人物だった。分厚い紳士録を開け、おもむろに、「これ俺の一家」と指さした。そこには一高⇒東大⇒都市銀行役員の祖父、東大⇒大蔵省の父の名があった。カミムラ氏自身は東大ではなくW大であり、やんちゃな男であった。仕事で実績をあげる一方、社内の女子社員との火遊びを自慢気にヤスオに聞かせた。私生活ではBMWのみならずクルーザまで所有し派手に遊んでいた。資産家のお坊ちゃんと思っていたら、そうではなかった。顧客に納入する数百台のパソコンや機器を自分が手懐けた販売店を通し、そこから現金を受け取っていたのだ。それを事務アシスタントの女性社員が告発した。業務上横領ではあったが、A社は問題を公表せず、カミムラ氏を解雇もせず、全ての業務を取り上げ、席に監禁して晒し者にするという精神的な懲罰を課した。
 名門A社にはお嬢さまもいた。某銀行頭取の娘は、モデルのような美人であった。何人かの男子社員がアプローチしてスマートなK大出身者が射止めた。男子8:女子2ぐらいの割合の職場だったから、女子は大事にされ社内結婚も多い時代だった。スキーブームの時代、バス貸し切り、宿貸し切りで大勢の男女で盛り上がったものだ。

 優秀な人材、やりがいある刺激的な仕事、A社への勤務は内気で消極的だったヤスオを前向きで意欲的な人間に変えた一方、長時間労働に疲れ果てていた。流通業担当のヤスオは格安量販店も担当したが、土日の繁忙時に頻繁にPOSが故障した。POSでは後発のA社は実績が少なく信頼性は低かった。携帯電話がない時代、ヤスオのポケットベルは度々呼び出し音が鳴った。店に電話して状況を聴き、システムエンジニアの自宅に電話を掛ける。精神的な休暇はなかった。

 ”経営課題の解決”というITの仕事は、やり甲斐と充実感に支えられ、新興宗教のような熱狂の中で、営業マンたちは毎晩最終電車まで仕事に熱中していた。基本給と残業代がほぼ同じというくらい残業漬けの日々であった。
 日々の激務の中、ヤスオは会議中に貧血で倒れるという騒ぎをおこしていた。疲労困憊の状態で自身の結婚式を迎えたヤスオは寝坊して結婚式に遅刻するという失態も犯している。子どもが産まれたとき、この業界にいては家庭生活が成り立たないと思った。退職の意識が少しずつ芽生えた。
 ちなみに、女子が少なく残業だらけの毎日でヤスオはどのように結婚相手と出会ったのか?スマホもアプリも無い時代の男女の出会いの場は合コンだった。残業が多いヤスオは必ず退社できる徹夜明けに合コンの予定をねじ込んでいたのだ。「24時間戦えますか!」というCMを地で行く熱狂と喧騒の日々だった。

第一幕 IT業界 A社 まとめ

時代背景:昭和から平成へ バブル期  
業種:ソフトウェア会社⇒コンピュータメーカー
職種:システムエンジニア⇒システム営業
仕事の特徴:
   システム営業は顧客企業の将来像を描く構想力と
   社内外の関係者への調整と統率力が求められる。
   システムエンジニアは折衝力やマネジメント力が必要。
   残業と休日出勤が当たり前の泥臭い激務であるが、
   やり甲斐や達成感も大きくプライドの持てる仕事である。
作業環境:
   PC価格が自動車くらいの時代。コンピュータメーカーでありながら、
   PCはチーム共用。手書き文書とワープロ、表計算利用が半々。
   電子メール開始前は、データ連携はフロッピーディスクを使用。   
社風:
   コンピュータメーカは優秀で品格のある社員が多い。
   オープンフラットな雰囲気。若くても実力者が組織を動かす。 
   貴重な女子は社内結婚が多かった。
得たこと:
   ギラギラした熱狂、充実感
   残業で稼いだカネ
失ったこと:
   平穏な時間
   謙虚な心


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