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死にたい気持ち「破壊衝動(死の欲動)」について少し語りたい

①私たちの心にある「破壊欲動」


タナトス

私たちに「外界や自己を破壊せしめたい
という破壊衝動が存在すると言われれば皆さんは
信じるだろうか?

「心が病み」世界や自分そのものが信じきれなくなった
時,私たちは生命を維持する方向と真反対の「死」へと
向かう本能
なるものが起動する。

現実世界においてこの「死の欲動」に飲み込まれる
事で、他者と関係性が病んでしまい
ひどい場合には孤独・自傷行為に至るのである。

これも無意識がなせる業であり
無意識が求めているものが行動を掻き立てるのか?
それは、分からないがただ言える事は
「死の欲動」の本質を「わかること」は
生きづらさを理解するためのヒントにはなるだろう。


具体的に
何故,私たちは破壊衝動に飲み込まれてしまうのか?

何故,自分自身の心が病むまで痛めつけてしまうのか?

※ここでは,物理的な自傷行為だけでなく,ワーカーホリック
 となり病むまで仕事を続けたり,不適切な人間関係を
 ダメだと分かっていても継続したりする人間の心理。

何故,人間の大きな争いは繰り返されるのであろうか?

これらのメカニズムを知るためには
「死の欲動」という概念を理解する事は大変有用である。

※なお、チャックが全開で講座を開催してしまった事に
 気づいた時に一瞬であるが「死にたい」という
 気持ちが去来した。

 これも「死の欲動」なのであろうか?

 もちろん、この一連の出来事が本記事を執筆するに至る
 強い動機ではないものの,日常でも見受けられる
 「死の欲動」として説明として扱わせて頂いた。
 そうでないと、思い出しただけで自己破壊衝動(恥)に
 飲み込まれそうになるからだ。

なお、ここまで「死の欲動」の負の側面ばかり説明
してきたが、決してそうではない事を事項で
説明したい。

②「生の欲動」と「死の欲動」の対比

そもそも「死の欲動」とはフロイトが
提唱した概念であるが「死の欲動」を理解する
ためには「生の欲動」と対比させる必要がある。

フロイトは人間というものは
本来,犬や猫と同じであると考えている。

人間は他の動物と同じで本来欲の塊であると捉える。
どの様な「欲」なのか、それは自己保存本能という
「欲」である
。(以下から「欲動」と記載)

生き残ろうとする本能,遺伝子後世に残すとする欲動。
いわゆる「性欲」と呼ばれるものは生易しいもの
ではなく良くも悪くも思考-行動ー感情に影響を及ぼす
強烈な本能
である。

というのが超ざっくりとしたフロイトの
提唱する「人間観」である。

(国分康孝,カウンセリング理論より引用一部改変)

そして、欲動(本能)には2種類存在する。
一つは「生の欲動(エロス)」である。
・自己保存本能,生殖本能,建設的傾向
・繋がろうとする力や愛
・知的創造に伴う喜び
・性的なものではなく幅広い生命エネルギー
・生命を維持し続けようとする力

2つ目は「死の欲動(タナトス)」である。
・自他を破壊して一切を無に帰せしめたいという傾向
・破壊衝動
・無機物・普遍性の中へ回帰しようとする傾向
※宇宙から見た生命の最も安定した状態は「死」
 宇宙から見た生命は「不安定」なのである。

「欲動」は遺伝子情報に組み込まれた基盤であり
OS(オペレーションシステム)の様なものだ。

私たちは犬や猫やシマウマと
本質的なものは何も変わらない。
(自律神経なんてまさにそう)
それぞれ欲動は互いにダイナミックの絡み合っている。

以下がその例である。

・学生時代の反抗期は家庭や社会の慣習の破壊衝動(死の欲動)
 18歳以降のアイデンティティの確立(生の欲動)
 
・自傷行為や自罰行為は
 「生きたい(生の欲動)」と「死にたい(死の欲動)」の葛藤

・細胞のアポトーシス(細胞の代謝)

・生命の存在そのもの生きながら、死に向かう
 矛盾した性質を持っている。

・子供に対する愛情が「生の欲動」
 子供を傷つける他者に対する攻撃が「死の欲動」。

・愛(生の欲動)と憎しみ(死の欲動)は紙一重。
 

いかがだろうか?
イメージはある程度できたであろうか?
次にフロイトがどの様にして
「死の欲動」を見出したかについての背景を述べさせて頂く。

③やはりフロイトは天才だった。



「死の欲動」は1920年前後に書かれた快感原則の彼岸
という論文において初めて発表されたとされている。

「死の欲動」へ着想したきっかけは諸説ある。

例えば当時は世界大戦の真っただ中であり、おびただしい
死傷者や心の傷を抱えた帰還兵が絶えなかった時代。

今でいうPTSDは当時,戦争神経症と呼ばれ
過酷な体験記憶のフラッシュバック
悪夢等が見受けられたのである。

これは、「生きようとする力」とは真逆の
性質を有す傾向
で、その様な症例を目の当たり
にして着想に至った説もある。

フロイトがその論文の中で紹介している
孫のエルンストの糸巻き遊びが有名である。

1歳半のエルンストは母の留守番中ずっと一人遊びをしていた。
糸まきを放り投げてはたぐり寄せるということを繰り返していたのだ。


この様子を見ていたフロイトはこれは母親がいなくなる
状況を再現しているのだと直感。


普通に考えるなら エルエストは母親がいない
寂しさを紛らわすために他愛もない
遊びをしていると考えるであろう。


しかし、フロイトは糸巻きを使って母親がいない
苦痛な状況をあえて再現している
のであり
そこにこそ本質があると考えたのだ。


フロイトはその理由として 母の不在という受け身で
耐えるしかない不快な経験を能動的に表現することで
主体的に引き受けるという要素と
もう一つ 母の身代わりである糸巻きを遠くに
放り投げる行為で自分をほったらかしにした
母親の復讐を実現するという意味を見出した。


この一連の流れも不安が少ない「快」を求める
傾向とは真逆の反応であり、「快楽原則」では成り立たない
事を察するのである。


※なお、不快な体験や幼少期の不適切な両親との交流(虐待)を
 再演してしまう現象を「反復強迫」と呼ぶ。

また、当時の進化論である『個体発生は系統発生を繰り返す』
でお馴染みヘッケルの仮説からの影響もある。


※系統発生:広いスパンの成長過程
 個体発生:個人の動物の成長過程
      人間の成長は人類の変化の凝縮版である。


人間の胎児の形態は
受精卵⇒魚類⇒爬虫類⇒哺乳類⇒人という進化の過程を
たどり直すように変化するという仮説である。

また、進化には目的があり獲得された形質は遺伝する
としたラマルクの仮説からの影響も指摘されている。

フロイトは彼らの仮説を「人間の心」にも
当てはめ着想に至った説もある。


また、フロイト自身が苦境に立たされていた事も着想に
至った要因であるとされている。


具体的には,第一次世界大戦中であり
ウィーンの市民は寒さと上に苦しめられていた。
そんな中でフロイトは弟子の支援で何とか
診療と執筆を継続しているような状態であった。

また、愛弟子の死や離反があり、娘ゾフィー
とその息子との死別が相次いで起こった事。

晩年のフロイトを苦しめた上顎癌の前兆である
白板症に苦しんでいた時期。(30回以上手術を行った)
これらが起因したのであろう。


1930年頃に、アインシュタインとフロイトの
往復書簡「人は何故戦争をするのか?」
についても「死の欲動」について語られていた。


そこで語られたものをざっくり要約する以下の様になる。

・フロイトはアインシュタインに全面的に同意した上で
人間が相手を絶滅させようとする「本能的な欲求」
を「破壊欲動(タナトス)」という概念を用いて説明した。

・エロスとタナトスはどちらの「欲動」も人間になくて
 はならないものであり「善・悪」はない


・結論として「人間から攻撃的な欲動を取り除く事はできそうにない
 しかしこの「攻撃性」を戦争と言う形で発揮
 させなければ良いのであるとフロイトは指摘。

A-アインシュタイン,S-フロイト,ひとはなぜ戦争をするのか


④「死の欲動」に飲み込まれないために

フロイトは破壊衝動に飲み込まれないための
対処手段を以下に述べている。


・「死の欲動」を克服するためには
 「生の欲動(エロス:愛)を呼び覚ませばよい。


・「文化の発展」させる事で知性と身体の変化をもたらし、
 攻撃的本能をコントロールできる事につながる。

文化の発展については,斎藤環氏の解説が非常に
参考になったので以下を参照して欲しい。

・文化とは,対立を乗りう超える力であり,
 また「人間の個々の価値観」を規定するもの。
 (政治的対立はあるがその土地の文化は許容し合う国家間等々)

・文化の理解は個人の擁護となり
 「自由」「権利」尊厳」に導かれる。

・価値観を文化として洗練していけば
 「生きてそこに存在する個人
  (自分が人生の主人公として生きる事)
」に繋がる

※文化とは「人間が学習によって社会から習得した生活の仕方の総称」
「風土の中で身に着けた立ち振る舞い」

ちなみに、文化を発展する事は「欲動」への直接
的影響も指摘されている。これはつまり、人口減少
が懸念される
事をフロイトは指摘しているのだ。

確かにそうであろうがこれは良くも悪くもである。
文化の発展を「個人の擁護」であるとすれば
選択肢が尊重されるという事だ。

よって、様々な異性の在り方が許容されるという
意味では人口減少もやむなしという事であろう。

⑤トラウマ時代と死の欲動

ここからが私の完全な私見である。


近年,引きこもりが増加傾向にある事や
他者との人間関係を築けず、会話をしない
若者も多いと聞く。

他者とのつながりを自ら断ち、自閉的となる状態が
最も「死の欲動」に飲み込まれた状態なのでは
ないかと推察する。

そこには様々な背景があると思う。
個の力があまりにも脆弱になってしまった事や
自己責任論というリスクの担い手となった事や
コロナによる関係性(他者との遊び)の喪失
「会話=リラックス」ではなく「会話=リスク」となった事
価値観の多様化(正解が分からない)

この様に何を失い、誰に「攻撃衝動」をぶつけて
いけば良いか分からない事が
事態をより悪化させているのではないだろうか?

つまり「死の欲動」が向かう矛先が分からないのだ。
「自己責任」という名の暴力により
自分に矛先が向かう結果、私たちは「凍り付いて」しまう。

外界を遮断し「凍り付いて」しまう力学が働くのだ。

「トラウマ」という言葉がある。
「生の脅威」としての出来事(ストレス)に遭遇した時
私たちの体は圧倒的な脅威を前に
神経系が最終防衛手段として
「凍り付き・シャットダウン」を起動する。

※「低覚醒」「気分の陰性化」「失神」もこれにあたる。

コンクリートジャングルである現代社会において
「生の脅威」とは「恥」であったり「孤立」
や「排他」がそうであろう。

持続的なストレス(孤独や恥)は徐々に体を蝕み
他者をリスクの対象とみなし
「トラウマ」に近い様相に至るのだ。

皆さんは他者を全く信用できず
常に攻撃されているかの様な錯覚に陥った
事はないだろうか?

自分が変わらなければならないと思っても
変わるできない自分に対し絶望し
挙句の果てに自閉傾向になる事は
誰しもあるのではないだろうか?

これらの氾濫が現代の病理なのだとすれば
今のこの時代を「トラウマ時代」と言えなくもない。

フロイトが述べたように「死の欲動」を
克服するためには「生の欲動」を用いらなければ
ならない。

ここでいう「生の欲動」とは
「つながり」である。

文化とは私たちの「つながりを」を時代を超えて
個々のつながりの橋渡しする、いわば「生の欲動」を
再起動する役割を担っているのだ。

※音楽・祭り・コミュニティ・伝統芸能等々

少しずつでも良いのだ。

同じ境遇の仲間と愚痴を言い合う事や
新しいコミュニティに参加してみたり等である。

何が起こるか分からない大海原(世界)
を一人佇むのは非常に忍びない。

私たちは誰かとつながり安心する事で
「生の欲動」の力が取り戻されるのだ。


人とつながる事。
これは「生物学的必須要因」であった。

⑥最後に・・

「ヘルシーアグレッション(健康な怒り)」
というものがある。

私たちは権威者から
「人のせいにしてはいけません」
「人を傷つけてはいけません」
という言葉を受けて、その言葉のメッセージの裏に
「操作主義」が内在していたのであれば
違和感を感じ「怒り」を蓄積していくのである。

本来この「怒り」は他者を通じて肩代わりされるものであるが
人間関係が希薄になってしまった昨今
「怒り」を外界へ発散する事ができなくなり
自身で「消化」する事を余儀なくされた。

うまく「消化」できれば良いが,人間はそこまで
強い生き物ではない。

結果的に「怒り」を消化できず。鬱屈したものが
心に残り蝕んでいくのだ。

そうだ、「死にたくなる」気持ちの正体は
結局のところ「怒り」なのだ。


誰かが、その思いや背景を察して「怒りに共感」
して思いの肩代わりしてあげる事が必要だろう。


また、当人もそれは「健全な怒り」である事も
受容しなければならない。(もちろん現実も)


そして、「つながりを発展」させる事で
「世界が私を攻撃している」という自己憐憫の世界観から
健康な精神の在り方へ回復していくのだ。

「健康な精神の在り方」とは何なのか?


中井久夫は以下に述べている。

「自分が世界の中心であると同時に世界の一部に過ぎない」
という一見矛盾した認識が両立している状態。

「死の欲動」に飲み込まれそうになった時は
ぜひ「つながる事」から始めて頂きたい。

ご拝読ありがとうございました。!!

P.S.
・自分を責めている事が心地よい時もある。
 そうやって自分を責める事が心を守る事に繋がる事も
 多々あるので症状がひどい場合は医師や専門家を頼って欲しい。

・「欲動論」に関する講座の受講を希望される方は下記を参照に
 ご連絡して頂ければと思う。


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