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君が生きてる街の海

 雨が降った訳でもないのに、水を含んだ風が涼しかった。この町が海辺にあることを再認識させられる。傾き始めた太陽の色はまだ変わっていないのに、周りの風景は加工フィルターをかけたみたいに褪せて見えた。太陽の色が変わって沈み、暗くなるまではまだ時間がある。ひとつ小さく呼吸して、風の吹く方へと歩き出した。まだ、排気ガスの匂いしかしない。
 向こうの駐車場に、ドームの方向を示す大きな看板があった。雨と潮風のせいか、一部が錆びている。まだついていない街灯には、選手たちの姿が印刷されたフラッグがたなびいていた。側の工事現場の壁に地元の幼稚園児が描いたらしい、応援イラストが貼られていた。ドームのある町、球団の町、野球という興業と共にある町を感じる。来た時には場の雰囲気を高めていたが、デイゲームも終わった今、それも今日みたいな日には、空虚で寂しい風景の一部になってしまっていた。
 ドームの脇道を進む頃には、海の匂いも風に乗り始めていた。道はほとんど木陰で覆われていてさらに涼しくなる。温かみを増してきた太陽の光を細かく反射しながら、川が穏やかに揺らいでいた。真緑の木の葉も揺れて、太陽を覗かせ、さえぎる。生きている、と感じる。犬を連れて散歩をする人とすれ違って、ジョギングをする人に抜かされた。寂しくならない程度の人影が、今はひどく有難かった。
 不意に強い光を感じて顔を上げると、少し広く開いた木の隙間からドームが見えた。夕日に照らされ、照り返しが強く輝き、黄金のように見えた。美しい。その大きさに改めて息を飲んでしまった。堂々とした存在感が勇ましく、それでいてどこか感傷的な気持ちにさせられた。
 道を抜けると夕日が真っ直ぐに当たって、眩しさに目を閉じた。そっと開けて海の方を見ると、金網越しに見える砂浜には人っ子一人いなかった。金網には工事中の文字。せっかくなら海沿いを歩きたかったけど仕方ない。できる限り海の側にいたいと思って、金網に沿って歩いていく。遠くにまたジョギングをしている人が見えた。生活の一部に海があるなんて羨ましいと思う。遠くても海はとっても綺麗で、特に光の通り道が太陽になったみたいに輝いていた。波打ち際は水色、奥は深い青、遠くの島さえ青みがかって見えるのは、海の色が溶けだしてしまったからかもしれない、なんて思った。くっきりと切れ目を描く水平線で区切られた空は、白みの強い黄色に始まり、頭の上の青空までグラデーションを作っている。そっと耳をすます。

 なみの、おとが、ゆった、りとき、こえる。

 心が静かになっていく。距離があっても聞こえる波の音、風の音、遠くでかすかに聞こえる車の音。歩みを止め、目をつぶって聴き入る。風が少し強く吹いた。涼しい。目を開けると、心なしかさっきより景色がワントーン暗くなった気がした。夕方の海がこんなに優しくて、熱くないのはなぜだろう。冷たい海と近くなって、熱を奪われたんだろうか。たぶんそうだと思う。現に今、自分がそうだった。海を見つめて、海の風を受けて、海の光を浴びて、熱が静まっていくのを感じていた。自分の中で青く静かに渦巻いていた怒りの炎が、小さく小さくなっていき、やがて消え、その正体がはっきりとした。

 火種は悔しさだった。それと怖さ、歯がゆさ、苦しさ。また目をつぶった。

 火種になった景色が見える。音や空気感まで思い出せた。恐ろしいまでに響いた破裂音と同時に、悲鳴と歓声が短くあがった。白球の方向を一瞬確認してから、レフトを守っていた彼に視線を移した。一生懸命に走っていった彼の目の前には、すでに高い高いフェンスがあった。彼が振り返って、現実を見て、足を緩め、止まったとき、彼の頭のずっとっずっと上を白球が飛んで、外野席に突き刺さった。少しの歓声と、大きな落胆がドームを満たした。彼はフェンスを見上げたまま、しばらく動かなかった。背中から、やり場のない悔しさが伝わってきた。
 それだけなら良かった。良くある話。こんな日もある。そう思えていたはずだった。
 ――「あぁ、こりゃあ負けたな」「正直今日はきつかった」「向こうエースだったし」「続投のタイミングが遅かったよな」「負けるような気がしてたもん」――
 耳を疑った。信じられなかった。彼と、自分と、同じユニフォームを着ている人たちが、口々にそんなことを言い出した。 

 ――「レフトの奴、二番の癖に全然打たんよな。今日も打ってないし」――

 息が詰まるかと思った。顔を上げて彼を見る。すでに守備位置に戻っていて、センターに向かって送球をしているところだった。怖かった。彼は、彼らは、こんな奴らとも戦っているのか? 同じユニフォームを着た敵と?
 自分の斜め前の二人組が荷物を持って席を立った。隣の人はタオルを畳みだした。メガホンを握りしめる。試合は終わってない。まだ終わってない。彼らはまだ戦っている。なのになんでそんなこと言うんだ? 目の前で諦めずに相手と対峙する彼らを見て、なんでそんなこと言えるんだ? 見てなかったのか? 懸命に投げていたピッチャーを。全力で追いかけたレフトを。見えていないのか? 何とかして抑えて、取り返しに行こうとする彼らが。
 高い音が響いて、三遊間を低い打球が抜けていった。
 ――「ほら、また打たれた」――
 手が痛くなってきた。何もできないのが歯がゆかった。彼らがいつも浴びているであろう、歪んだ好意が、悪意のない刃物が、胸に刺さって苦しかった。

 目を開けると、ただただ静かな海があった。ビジターの鳴り物も、心無い言葉もない、静かな海。痛みは残っているものの、不思議と癒えてきている気がした。彼らの生きる街に、海があって良かったと思った。
 ふと思い立ってスマホのカメラを起動した。金網があるのは惜しいものの、この海をどうしても収めたかった。沈みかけている太陽にピントを合わせると、金網がボケて、海がはっきり見えた。シャッターチャンスと思った瞬間、通知が入った。あっと思った時にはタップしていた。何を押したのかわからなくて読み込みを待つ。彼のSNSだった。輝く夕日と波打つ海の写真。
『うみ、ちょーきれい』
 心臓が止まりそうになって、思わず辺りを見渡した。もちろん彼はいない。違う場所だ。だけど、彼も海の見える場所にいるみたいだった。見ている海は繋がっていて、見ている太陽は同じだ。スマホから海に視線を移す。夕日はもう半分ほど沈んでいた。彼ももしかしたら見ているのかも知れない。癒えていれば良いと思う。色んなものが。いいねを押して、少し迷って『いつでも応援してます』とだけ送った。コメントしたのは初めてだった。彼らに届く声が、熱く温かいものばかりになるように。心無い冷たいものを少しでも遠ざけられるように。
 画面をカメラに戻して、今度こそ写真を撮った。加工はせずに、SNSに投稿する。ひとつ深呼吸をした。温かく包み込んで癒してくれる、海の匂いだった。

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