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134号線を西へ【短編小説】

Ⅰ 横浜

 年齢、二十歳そこそこ。
 金髪、前下がりのおかっぱのようなショートボブ、若さを武器にしたメイク。ダボダボのピンクのパーカーに、細身のスキニーパンツ。飲んでいるものはたぶん、ファジーネーブル。
 あ、ついでに備考、きゃらきゃらとした笑顔が眩しすぎて目にイタイ。
 ……万一訴訟になったときのために、浮気相手の特徴はよく覚えておいた方がいいと思った。

 見てしまった。見なくていいものを見てしまった。
 一緒に住んで半年、付き合ってからは早九年。
 親公認のお付き合い、もはやときめきも薄れかけた彼氏(二十七歳同い年)の、堂々たる浮気の現場を目撃してしまった。
 しかもあんな、ついこの前まで未成年でしたくらいのわっかい女の子をつかまえて。もうおっさんのくせに。
 ていうか、金曜の夜午後九時半、こちとら残業でボロボロだというのに!!

 おしゃれイタリアンのウインドウ越しに舌打ちをひとつして、私はその足で駅前のレンタカー屋に飛び込む。
 人の好さそうなおじさん店員に、最高級の笑顔を作って、こう言い放つ。

「明日朝イチ、かっこかわいい車を一台、二日間で」

***

 お酒に弱いせいで、飲んで帰ってきた翌日、ヤツはたいてい昼まで起きない。
 一方朝っぱらから完璧に髪まで巻いたわたしは、自分の持っている服のなかでいちばんかわいい服を身にまとって、布団でグウスカと眠りこけている男を一瞥した。
 なんてのんきな顔だろう。今日の昼ごろには、その顔は真っ青に変わっているというのに。それを想像するとちょっとおかしくて、わたしは不敵に笑って寝室を立ち去る。
 貴重品、チェック。明日の着替え、チェック。あの人への連絡、チェック。……テーブルの上の書置き、チェック。
 いろいろ迷ったけれど、結局、少しのお情けでちょっとわかりやすいやつにしてみた。本当はバスルームにルージュの伝言でもしたかったのだけれども、さすがに掃除のことを考えると面倒でやめた。
 わたしがこっそり大好きな、とあるアニメのとあるセリフ。伝わるかなんて五分五分だけど、この際、少しは迷え。どうぞ困ればいい。
『パターン青、使徒です!』。
 そう書いてみた紙切れを見やすいようにダイニングテーブルに置きなおして、わたしは、ヤツの実家・箱根へ向けて、ちょっとした冒険へ一歩足を踏み出した。

 会社のあるみなとみらいまで三駅という好立地。
 そんな彼の言葉に騙されて、内見に参加せずにアパートを決めた。
 それがまさか、こんなにも恐ろしい坂道の続く場所にあるとは。『コクリコ坂から』を見て、「ジブリってば大げさだな、横浜にこんな坂道あるわけないじゃん」と思っていた自分のぶちのめしたいくらい、横浜は坂道だらけの街だった。
 我々の想像する横浜は、海を埋め立てて作られたほんのわずかなエリアだというのは、つい最近知った。
 動きにくい服とかさばる荷物がわたしの体力を奪う。
 なにが「健康のためにいいじゃん」だ。半分引きこもりのオタクをなめるな、二階に上るだけで息があがるんだぞ。
 そんな行き場のない悪態を心の中で渦巻かせながら、なんとか昨日のレンタカーショップにたどり着いた。
 引き渡されたのは、ミントブルーのフィアット・チンクエチェント。「海岸線を若い女性が走るなら」と、昨日のおっさんはにこにこと話した。
 彼に裏切られたいま、このフィアットくんが、わたしの今日の浮気相手だ。
 いくよ、相棒。これからよろしくね。
 心の中でそう話しかけると、丸いボディに張り付いた彼の表情が、にこりと笑った気がした。

Ⅱ 横浜~横須賀~三浦

 箱根にそのまま直接向かう気はさらさらない。箱根に向かいながらも、わたしは今日一日、自分のやりたいことを満喫していくんだ。だから電車はやめた。
 ざっくりと海岸線を走ることしか考えていなかったけど、さて、どこに行こうか。朝ごはんがまだだから、ひとまずなにか海鮮なんかを食べたい気分だ。
 携帯をいじると、三崎港の食堂が目に留まった。カーナビによれば、首都高と横横道路で一時間ちょっと。途中で大好きな134号線にも出られるし、ちょうどいいかも。
 カーナビの行先に追加して、ウォークマンをブルートゥース接続する。
 最高にイルなセットリスト、一曲目はもちろん、さっき実行しようかちょっと迷った、あのナンバーだ。
 ……あ、最後に、スマホの電源を切って連絡を絶つことを忘れずに。
 見ておれ、将基(まさき)のヤツ。あとでお母さんにしばき倒されて、完全に沈黙でもしたらいい。
 にやりと口角をあげてみると、フィアットくんはまるでわたしを勇気づけるかのように、ぶるんとエンジンを唸らせた。

 みなとみらいの風景を横目に見ながら、首都高に突撃する。しばらくこの景色ともお別れねなんて気取ってから、首都高および横浜横須賀道路をひたすらに走った。
 横須賀、そういえば久しく来てないな。そういえば一回、猿島で友だちみんなとバーベキューしたっけ。島の一部が旧日本軍の要塞になっていて、ちょうどいい朽ちた感じが絶妙にオタク心をくすぐられたなぁ。
 あの頃を懐かしみながら横横道路を下りると、次は三浦市に入る。
 だだっ広い畑の向こうにほんの少しだけ海が見えるのは、すこし不思議な光景だ。
 点在する無人販売の大根とキャベツに気を取られながらも、いよいよ三浦半島の先端へとたどり着く。
 十時過ぎの三崎港は、これからお昼に訪れるお客さんに備えて、なんだかうずうずしているような雰囲気が漂っていた。

 事務所のような建物に、なぜか食堂ののぼりが立っている。
 ネットで見たの、たしかあそこだったような。
 営業中と書いてあったので、少し遅い朝ごはんはここで食べることにした。
 三崎といえば、やっぱりマグロだ。
 マグロのお刺身定食を注文すると、つやつやと光るマグロの切り身が運ばれてくる。たまらず大トロを一口食べると、口の中でとろけていく脂に、つい顔がゆるんでしまった。そのままひょいひょいと食べ進めて、大満足のまま「ごちそうさまでした」と小声で呟いてみる。
 最後、お会計をするとき、愛想のよいおばちゃんが話しかけてくれた。
「どこから来たの?」
「横浜です。つい海鮮が食べたくなって、車を飛ばしてきちゃいました」
「あらそう、ご苦労様。日曜日は朝市もやってるから、またおいで」
 そっか、日曜ならそんなのもやっていたのか。
 せっかくだから、今度は誰かとおいしさを分かち合うためにまた来よう。
 ……まぁ、誰と、とは言わないけどさ。
 そんな風にちょっと強がりながら、市営駐車場で待つフィアットくんのもとへ戻った。

Ⅲ 鎌倉

 次の目的地は、もう決めてある。一応カーナビをセットして、いよいよ念願の134号線を飛ばす。
 ちょうど葉山にさしかかるころ、進行方向の左手には、海が一面に広がるようになっていた。
  この辺りにさしかかると、少しおしゃれなイタリアンなんかが目立つようになる。そんなお店を見かけるたび、昨日のヤツらもお楽しみでしたねぇと妙に腹が立ってきた。
 なぁにが、「弟の就活相談にのってくる」だ。お前の弟はイガグリ頭の野球少年だろうが。

 海と大きな石碑を横目に、『葉山牛』なんて看板にそそられながら車を飛ばせば、いつもの丁字路が現れるので流れにのって右折をする。混雑する大通りをそのまま進んでいけば、鎌倉・鶴岡八幡宮の大鳥居が、わたしを迎え入れてくれた。
 市役所に車を置いて、鎌倉駅の横を通り、小町通りへ突撃する。
 ここはいつ来てもにぎやかで、通りの両端には、店先でコロッケやソフトクリーム、団子などを立ち食いしている観光客があふれていた。
 三崎でおなかをいっぱいにしてからまだ一時間ほどしか経っていないけれど、車内カラオケで熱唱していると消費なんてあっという間だ。せっかくだから何か食べたい。ていうか、今日は食う。
 とはいえ二十代後半女性のキャパを念頭に置きながら、小町通りをぶらぶら進んでいく。
 途中雑貨屋を数件ひやかしていると、そのうち有名なクレープ屋さんにたどり着いた。
 よし、ここにしよう。
 いそいそとチョコバナナとブレンドコーヒーを頼んで、イートインスペースに腰かけた。大きな口を開けてチョコバナナを食らい、さらにコーヒーをふくむ。
 幸せな甘みと、なんとも言えない苦みが口いっぱいに広がって、ちょっとむせそうになった。

***

 小町通りを抜けると、そこはもう鶴岡八幡宮だ。やっぱり鎌倉に来たのなら、ここは欠かせない。
 お手水をして本殿の方に目を向けると、ちょうど階段の下で、結婚式を挙げている夫婦がいた。おごそかで凛とした雰囲気のなかにも、ふたりの幸せと、それを見守る家族たちのあたたかさが感じられる。
『結婚は幸せなゴールなんかじゃない、過酷な日々のスタートだから!』
 ふと、この前結婚式を挙げた友人さーちゃんが女子会で豪語していたことを思い出した。
 ……それでも、誰かに選んでもらえただけいいじゃないか。
 湧き出る感情になんだか居心地が悪くなって、わたしはそそくさと本殿へと続く階段を上った。
「人並みに、幸せになりたい」。
 そんな風に願いを込めながら参拝したあと、上ってきた階段を降りようとして、ふと、顔をあげた。

 参道である若宮大路がすうっと一直線にのびて、その向こうには、由比ガ浜の海が見える。
 ……知らなかった。ここから、こんなにきれいに海が見えるんだ。
 こんなちっぽけな発見に喜べる自分いたことに戸惑いつつも、なんだか、少し元気が出たような気もした。

***

 市役所に戻ってフィアットくんに乗り込む。
 なんとかまた観光客をかき分けて134号線に戻ってきた。
 天気がいいおかげで、海は濃いめの水色にきらきらと光っている。
 つい少し窓を開けて、海風を取り入れてみちゃったりして。
 そんな風に気取っていると、案の定、だんだんとフィアットくんの進むスピードが遅くなっていった。
 ……まぁ、こんな素敵な海岸線、みんなも通りたいもんね。
 そんな風に思いながら、渋滞も楽しんでいく。そのうち右手には江ノ電が並走するようになって、それから徐々に踏切と小さい駅が見えてくるようになった。
 かの有名な、鎌倉高校前だ。
 某バスケ漫画の影響で、この付近はいつ通ってもカメラを構えた観光客でごった返している。渋滞にはまっている最中、あまりにもこちらの海側にカメラを向ける人が多いものだから、つい一瞬だけピースサインを作ってしまった。
 家に帰って写真を見直したとき、「あれ、この人ピースしてる!」なんて気づいてくれたら、ちょっと面白いな。
 そんな風にちょっとしたいじわるごころを出しながら、わたしはのろのろと、海と江ノ電を楽しみながら134を進んでいった。

Ⅳ 江の島

 腰越海岸を抜けると、もう江の島はすぐそこだ。
 まだ時間は二時前。江の島にいるあの子たちと遊んでいくには、ちょうどいい時間かも。
 そんなことを思いながら、わたしは、江の島へ向けて左に曲がるウインカーを出した。
 タイミングよく空いていたので、観光協会の駐車場に車を停める。
 お土産物屋を見ながら階段を上っていくと、お社のような建物が現れた。『エスカーのりば』と書いてあるそれは、屋外用の、日本一長いエスカレーターの出発地点だ。
 せっかくだから、これに乗って行こう。
 ……ちなみに、それは決して、目の前の階段に怖気ついたわけではないのだ。えぇ、断じて。

 長いエスカレーターでぐんぐんと進んでいくと、そこはあっと言う間に江島神社《えのしまじんじゃ》だ。辺津宮《へつみや》と書いてある社殿に参拝したあとで、ふと、観光客の女の子たちの会話を耳にする。
「この上、美人になれるお守りが売ってるらしいよ!」
「え、行かなきゃじゃん!」
 ……たしかに、それは、行かなきゃかもしれない。
 そう思うと、乗るつもりはなかったふたつめのエスカー乗り場に自然と足が向き、気づいたら彼女たちが話していた社務所の前で、どのお守りを買うか悩んでいる自分がいた。
 美肌、美髪、美形、美白、美笑……、どのお守りもデザインがとてもかわいらしい。とくにかわいいのは美肌かな、最近肌荒れもひどいし、これにしようかな、なんて考えていると、美笑のお守りの説明文がふと目に入った。『幸せにさせる魅力的な笑顔を願う御守』、……か。

 わたしは最近、誰かを幸せにしてあげられるような笑顔を、見せられていただろうか。
 仕事の愚痴や自分のしてもらいたいことばっかりこぼして、少しでも考えてあげられていただろうか……、彼のことを。
 ふとそんなことを思ってしまってから、思わず小さく首を振る。
 そして、美笑のおまもりを握り締めて、巫女さんに声をかけた。

***

 さらにこの上には、シーキャンドルという展望台と、恋人たちがこぞって鳴らす鐘があったはずだ。
 さすがにそんなガッツリ系の恋愛スポットに足を延ばすのは気が引けて、ゆっくりと参道を下りることにする。すると、ようやく目的の江の島名物に出くわした。
「あ、いた!」
 突然茂みの中から現れたのは、ハチワレで、手足が白くなっている猫だった。
 うちの近所の猫なんかは人間を見ると逃げ出してしまうけれど、江の島の猫は観光客慣れしているから、おとなしい子が多いんだよね。
 そんな彼(彼女かもしれないけれど)を勝手にクツシタと名付けて、そっと脅かさないように手を差し伸べる。
 するとクツシタは、わたしの手の匂いをくんくんと嗅いでから、すりすりと顔を右手にこすりつけてきた。
 ふふふ、愛いやつめ。
 つい写真を撮りたくなって、無意識に携帯を起動させてしまう。すると真っ先に飛び込んできたのは、通知のポップアップだった。

「栞里(しおり)、今どこ?」。ほか、着信数件。

 ……一応、探す気はあってくれるらしい。それでも返信なんてしない、わたしってやつは本当にかわいくない女だ。
 そんなことを思いながらスマホのカメラをクツシタに向けると、彼はすこし小首をかしげて、わたしの方をじっと見ていた。
「本当に、それでいいの?」。
 そんな猫の空耳が、少しだけ吹いた海風にのって消えていった。

Ⅴ 茅ヶ崎~二宮

 再びフィアットくんに乗り込んで江の島大橋を通り、134号線に戻ってくる。
 あんなにもかたくなだった気持ちも、ヤツからの連絡ひとつで揺らぐとは、わたしはまだまだ未熟者だ。
 そろそろ茅ヶ崎に入るだろうと、ここぞとばかりに入れてきたサザンオールスターズのセットリストが、計算通りに流れ始める。
『いとしのエリー』、『真夏の果実』、『TSUNAMI』……なんでよりによって、バラードばっかりなのよ。
 なんか切なくなるでしょ、わたしのばか。

「将基のお母さんに怒ってもらおう」、「そうして反省したら、しょうがないから、また一緒に仲良くやってやろう」。
 そんな風にどこか無理やり考えていたけれど、やっぱり、ずっとくすぶり続けている思いは抑えられなかった。

 浮気じゃなくって、本気だったら、どうしよう。
 もし将基の気持ちが、とっくに、わたしから離れているとしたら……?
 もしそうだとしたら、わたしのこの行動は、この関係を決定的に終わらせてしまうことにつながるんじゃないか。
「終わり」を意識してしまうと、今まで見ないようにしてきた彼の面影が、いたるところに現れてきて、今日のわたしの足跡に重なっていく。

 よく、彼とドライブをした。
 みんなで猿島に行ったときも将基はいたし(熱中症になりかけて死んでいたけれど)、三崎港にも、江の島にも、なんなら鎌倉なんて初デートで行った(三崎ではわさびをつけすぎて涙目になって、江の島では猫がなついてくれずしょぼくれて、鎌倉では大凶をひいたあと結ぶのが下手すぎておみくじを破いていたけれど)。途中にあった葉山牛のお店もプリンのお店も、海辺のイタリアンも鎌倉高校前も、江の島水族館にだって行った。
 わたしがこんなにも道に迷わずここまで来られるのも、もともと出不精なわたしを、将基がいろんなところに連れ出してくれたおかげだ。

 車は、茅ヶ崎を抜けて平塚に入る。日が落ちかけた134号線は、ただ一直線に、夕日に向かってのびていた。

 ここを曲がると、たしか平塚八幡宮の近く。初詣に来て、ふたりで一緒にふうふうしながら、もらった甘酒を飲んだ。
 あ、そうそう、有名なラーメン屋さんに並んだときは、あまりにも普通のラーメンとは違いすぎて、ふたりでカルチャーショックを受けたこともあったっけ。

 大磯。大磯といえばやっぱりロングビーチかな。
 将基、ほんとは水が嫌いなくせに、わたしがあまりにも行きたい、やりたいって言うから、無理矢理ウォータースライダーに付き合ってくれた。
 てか、それ、猿島で言ってくれたらよかったのに。

 そして、二宮。
 吾妻山公園に上って見る菜の花が、すっごくきれいなんだよね。ただそこに行くまで階段がずっと続くから、運動不足なわたしはふらふらになって、将基は笑いながら背中を押してくれたんだった。

 ……あぁ、もう、やめてよ。
 どこに行っても、君ばっかりじゃないか。

Ⅵ 小田原~箱根

 いつの間にか134号線は終わっていて、西湘バイパスに入っていた。二宮の料金所を抜けると、そこは箱根の手前、わたしの地元、小田原だった。
 急に、将基のお母さんに会うのも及び腰になる。
「聞いて下さい、お宅の息子さんが!」「あらまあアンタなにしてんの!」「ごめんなさい!」。
 そんなちょっと軽めのやりとりになればなんて思ってここまで来たけれど、「いや母さん、実は栞里とは別れようと思ってるんだ」なんて話しだしたら、なんというか……、さすがに場違いな感じがすごい。

 自分の実家ならすぐそこだから、行先を変えるなら今だ。でも、今朝がた、「伺います!」なんて勢いよく連絡しちゃったしなぁ……。
 しかたない、腹をくくろう。そう思って、ふと、手土産を買い忘れていたことに気づいた。
 結局西湘バイパスを小田原でおりて、国道一号線に出る。どら焼きの美味しい和菓子屋に寄って、バター入りどら焼き五個入りを調達した。地元のお菓子になってしまって恐縮だけど、お母さんもお父さんも、たしか大好きだと言っていたから大丈夫だろう。
 小田原城を右隣に車を走らせると、そこはもう箱根口だ。かまぼこの博物館を過ぎると、いよいよ道路の端の看板も、箱根色が強くなってくる。
 ……あぁ、来てしまった。いったい、どこから話せばよいのやら。

 フィアットくんはとうとう、箱根湯本駅へと到着した。観光客たちをかき分けながら、記憶をたどりに右に左に曲がっていく。
 あ、そうそう、最後にここを左に曲がって坂をのぼると……、緑のなかに見える、赤い屋根の一軒家。
 ちょうど玄関の近くに見える人影は……。
 ……え、金髪……?
 思わずブレーキを踏む。
 そのブレーキに反応して、彼女はこちらを振り向いた。

 ……間違いない。
 昨日、将基とイタリアンをたしなんでいた、浮気相手の少女だ。

 どうしよう。来てはいけなかった。
 息の仕方を忘れそうなほど動揺しているわたしを、彼女の目がとらえる。
 そしてその子は、とつぜん、腕がちぎれんばかりの勢いでわたしに手を振ってきた。

「あ、栞里ちゃん来た! 栞里ちゃーん!」

 ……は?

 戸惑うわたしに、彼女は駆け寄ってきてガラスをノックしてくる。
 つい開けてしまうと、元気な男の子の声が車内に飛び込んできた。
「車で来たんだね、おれの車の前に置いていいよぉ! 待ってて、いま兄ちゃん呼んでくるからー!」
 ……おれ? ……兄ちゃん?
 なんだか嫌な予感を覚えながら車を停める。
 外に出ると、家からは、今朝がた横浜に置いてきたアイツが、ちょうど飛び出してきたところだった。
 その姿についホッとしてしまうけれど……、あれ、おかしいな、目が合わせられないぞぉ……?
「……栞里? なんでわざわざ、急にうちまで……?」
 ……あ、うん、はい。
 いま、わたし自身も猛烈にそう思っております。
 相変わらず視線をまともに合わせられないまま、「あはは……」なんてごまかしていると、目の前の将基がくしゃりと表情を崩す。
「……ま、無事でよかった」
 ……まったく、そういうやつだよな、君は。
 そんな将基の優しさにとうとういたたまれなくなって、すこしの沈黙ののち、とうとうわたしは顔を手で覆いながら、
「ごめんなさいぃ~……!」
 と言うのが精一杯だった。

***

「あらまあ、なに、こーくんのこと女の子だと思って、まーくんが浮気したと思って来たの!? やだぁ、しーちゃんったら!」
 夕食中、ことの顛末をわかりやすくまとめながらけらけらと笑うお母さんに、もはやわたしはなにも言えなかった。穴があったら入りたいっ……!
 てか、耕基(こうき)くん、ちょっと前までイガグリ野球少年やってたじゃん! ジェンダーレス男子にジョブチェンジなんて、大学デビューにもほどがあるぞ!?
 そんな視線を感じ取ったのか、将基の弟・耕基くんは顔の前でゴメンのポーズを作る。
「いやぁ、ごめんごめん! 久しぶりだと変わりすぎててわかんないよね! だから昨日、栞里ちゃんもつれてきたらいいじゃんって言ったのにさぁー」「栞里、最近仕事遅いから、耕のテンションだと絶対疲れさせると思って。でもまさか、こんなことになろうとは……」
 将基もこらえ切れず肩を震わせる。
「朝起きたら、謎の書置きだけ残していなくなってるんだもん。連絡も全然つかないし」
「……その節は、大変ご迷惑をおかけしました」
 もはや、謝ることしかできない。
 つい縮こまるわたしに、将基のお父さんはにこにこと口を開く。
「まぁまぁ。せっかくだから栞里ちゃん、今日はゆっくりしていきなよ。母さん、お客さん用の布団はすぐに出せるよな」
「もちろん! 朝から干してあるからふっかふかよ! まーくん、あとで客間に敷いてあげて。自分のもね」
「はぁい」
「あ、ありがとうゴザイマス……」
 あたたかい人々の優しさに触れて、嬉しいやら恥ずかしいやらで、なんだか泣きそうになった。

***

 お風呂をいただいてから、廊下で、耕基くんと鉢合わせる。
 おやすみなんて言おうとしたわたしに、耕基くんは、にやりと笑って小声で話しかけてくる。
「それにしても、面白ったよぉ。昨日あんな話を聞かされたとたん、まさか、兄ちゃんが血相変えてうちにすっ飛んでくることになるなんて思わなかったから!」
 ……ほう、そんな感じだったのか。
 ちょっと嬉しくなるのと同時に、耕基くんの言葉に、ちょっとひっかかる部分があることに気づいた。
「あんな話? 耕基くんの就活の話じゃなくって?」
「え?」
 そう言って、きょとんとした顔で彼は固まる。
 それからしばらくして、含みを持った顔でにやりと笑った。
「え、あー、うん、えっとねぇ……」
「耕、なんか余計なこと言おうとしてない?」
 そこで声をかけてきた将基に、ふたりしてびくっと体を震わす。
「あ、あはは……。栞里ちゃん、この話はまた今度ってことでぇ……。じゃあ、おやすみぃ~!」
 ……そう言ってすたこらと二階に上っていく耕基くん。なんか、逃げられた気がする……。
 もやもやする気持ちを将基に視線でぶつければ、彼は「気にしなくていーの」と言って客間へと消えていった。
「気にするよ! なに、あんな話って!」
 彼に続いてわたしも客間に入る。
 並んで敷いてあるお布団は、たしかにふかふかでおひさまの匂いがするようだ。
 将基は「さ、寝よ。明日も早い」なんてぶつぶつ言って、そんな布団に入る。
 こいつ、答えない気だな。
 耕基くんのあの口ぶりだと、わたしのことを話してたみたいだけど……!
 腑に落ちず口を尖らせたわたしを見て、彼はぼそりと口を開いた。
「ところで栞里さん、明日、なんの日か忘れてるでしょ」
「明日……?」
 明日、明日……、あ、明日!
「誕生日だ、わたし」
 そうだ、この騒動ですっかり忘れていた!
 膝を打つわたしに、彼はあきれた様子でため息をついた。
「まったく、いろいろ考えてたのに、なんでおれ実家にいるんだか……」
 ……いろいろ?
「さては、そんなに気合い入れて祝おうとしてくれてたの!?」
「……まぁ、そんなとこ。せっかくだから、行きたいとこ、ある? よかったらごちそうとかしますけど」
 そんな言葉に、わくわくが止まらない。
 いつもなあなあに過ごす誕生日を、そんなに気にしてくれていたなんて。
 わたしは腕を組んで、この辺りの行きたいところを考える。……あ!
「じゃあ、ラリック美術館かな! あのガラス細工とかジュエリーは、いつ見ても素敵だよね。あと、オリエント急行の展示の中でお茶もできるし。ちょっとお高いけど……」
「オッケー。お安い御用ですよ、お嬢さん」
 そう言って、将基はにっと笑う。
 そんな彼の返事に、わたしは「うしっ!」と小さくガッツポーズをした。

 こんな騒動を引き起こした。将基のこと、信じてあげられなかった。
 はた迷惑極まりないわたしだけど、彼は、まだまだこんなわたしと向き合ってくれるみたいだ。
 ごめんね。そして、ありがとう、将基。
 よかったら、これからも変わらずどうぞよろしく。
 ……ま、それはまた、明日にでも、伝えてやることにするか。
 そんな風に考えながら、わたしはふわふわと、眠りに落ちていったのだった。

 ……翌日、ラリック美術館のどんなジュエリーよりも輝くダイヤモンドの指輪を将基から差し出されて、腰を抜かすことになるなんてことも、知らずに。

おしまい。

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