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社会構造から女性のエンパワメントを考える

はじめに

昨今、女性のエンパワメントは言葉なりとも社会の中で浸透してきていて、人々の意識の中に男女の平等やそれに向けた社会改革は段々と高まっている。ただ、女性のエンパワメントに関する発言や行動をとると、逆差別だとか、被害者意識が過ぎるといった、耳を塞ぎたい意見が出てくることも事実ある。

これらの主張に関して、端的に問いたいことがある。
男女平等の問題を「ゼロサムゲーム」だと捉えてはいないだろうか。

男女平等を主張する者たちが目指すものは、ある特定の性別の優越や特権を支持するのではなく、現在の社会的・経済的制度の下で形成されているジェンダーに基づく不平等を解消することだ。決して、男女の分断を生むつもりも、自分だけがこんなに苦しいのだという被害者意識をただ主張したいわけではない。

経済的、社会的不平等が未だ存在している事実、そしてその負に直面せざるを得ない存在がいる事実は、決して無視できるものではないし、個人間で瞬時に解決できるものでもない。それは、男性と女性が異なる社会的・経済的な役割を果たすことを期待する現在の社会構造によって、これらの様々な課題が生み出されてしまっているからである。

こうした構造的欠陥が生まれている以上、私たちは永遠に男女平等に至れないし、これを逆差別だと主張することは全く見当違いであると思う。さらにこの主張は、男女平等が実現すれば、男性も女性も、そして他のすべての性別の人々も、自分たちの能力と才能を最大限に活用できる社会が形成されることになるという帰結点に至ろうとしない。それよりも、自分の優位性が脅かされる恐怖や危機感に、意識的にも無意識的にも駆られているように思う。

上野千鶴子氏の著書、『家父長制と資本制ーマルクス主義フェミニズムの地平ー』は非常に示唆深く、今まで持ち得なかった新しい視点を得ることができた。ここでは、当著で述べられている男女不平等の構造の具体とその理由をサマリーで再整理/要約しながら、これを踏まえ私たちが取り組めることについて述べてみようと思う。

サマリー

氏は女性の生きづらさについて、人権や解放というキーワードだけでは説明できない「構造的欠陥」があるとして、マルクス主義的論理展開をもとに、近代社会構造からその理由を紐解いている。

近代社会において、市場と家族は完全に分断されることになった。女性は市場(資本制・生産)の抑圧と、家族(家父長制・再生産)の抑圧を二重で受けることになる。この生産と再生産はトレードオフの関係となり、生産が上位概念として存在し社会が機能するようになったのである。

この結果、女性は市場から排除された<外部>である「家」の中に閉じ込められることになった。「家」は主に、長老かつ男性という属性を持った存在が権力を持つ家父長制がシステムとして採用されていたため、ここで女性は抑圧の対象となったのである。女性は家事を行なっているが、それは抽象労働として一般的に見做されない。つまり、市場に流通せず交換価値を持たないものとみなされ、「非労働」のような扱いを受けることになる。
さらに、妊娠・出産・育児などが一段落すると養育費、生活費などを稼ぐために、再度、生産市場へ出ていくことになるのだが、家事負担は相変わらず女性にのしかかり、生産市場での労働と家庭内での労働の二重の負担が生まれてしまう。
パートタイム労働は、女性に対してより柔軟に働ける環境を整備することになったが、これは、女性が複数の「悪条件」を持っているがために生まれた制度であるために、本質的に女性の雇用条件や働く環境を向上させるものにはなっていない。

一方生産市場では、近代における産業革命によってもたらされた産業構造の変化が、働き方とそれに対する価値定義を変革させた。交換可能な抽象的労働が生まれ商品として出回るにつれて、市場での「個人」は画一化され、年齢や性別などの変数は「ノイズ」となった。女性や外国人労働者といった存在は、一般成人男性とは違う複数の変数を持つとして、安価な労働力として流通されることになる。こうして、女性の地位に限界が生まれてしまうのである。

このように産業革命以後、「市場」と「家」は完全に切り離され、女性は「家」の中に閉じ込められるようになるが、忘れてはいけないのは「家」の存在、女性の家事労働なしに「市場」が機能することは不可能であるという点である。氏は本書の中で、「家族」と「自然」はパラレリズムを成していると指摘する。市場で使われる資源の多くが自然から調達される。市場で商品が交換されるためにはそれを構成する資源が必要不可欠である。それと同様、労働力が滞りなく流通されるためには、市場<外>でそれらを支える労働(家庭を支える家事/育児など)が必要なのである。

ここで補足までに、近代以前の社会生活についても触れておきたい。
狩猟採集時代にまで遡ると、そこに生産と再生産の間の壁はないに等しかった。彼らは資源を最小限節約し、最大限に有効活用しながら生活していたので、必要最低限の労働(一日4時間ほど)を行うことで生活できた。そのため、女性男性それぞれ適した労働を共に平等に行いながらも、それ以外の再生産労働(家を維持するための労働)は残りの余暇時間で問題なく協力し合いながら行えたのである。
封建制の時代の日本では、主婦が担っていた役割は「家政」という指揮監督労働であった。たくさんの家事を行なってくれる人々を雇い家事を行なっていた社会では、妻は手を動かす必要はなかったし、「女の国」において、「女王」としての地位を得られていた。
一方、ヨーロッパでも同じく貴族的社会生活が理想系とされ、「家にいる妻」はステータスシンボルであった。しかし、近代化によって産業構造が変化し、家庭の中で家政婦を雇うことが次第に無くなるにつれて、妻がその労働を代わりに行うようになり、今ある社会構造とそれに付随する課題が定着していったのである。

こうしてみてみると、現代社会において感じている女性の不自由さや不条理さ、社会進出におけるハードルは近代以降の産業構造の産物だと言える。長い人類の歴史の中で見ると、ほんの最近の出来事が、このように大きなインパクトを持って女性の生きにくさを醸成しているのである。

より良い社会に向けて

私は、今まで女性に関するあらゆる課題、例えば、

・女性官僚の少なさ
・女性のキャリアの限界性(出世を諦めるなど)
・女性の家事負担
・男女の賃金格差

といった問題について、事実を断片的に知っていたり自分自身が強くその課題に向き合ってきたりといったことがあったが、マルクス主義的な観点から資本主義を眺め、その中で女性に関する課題がどのように構造的に生まれているのか、そして未だ解決していないのかという点について、当著を通して明確になった。

その上で、最後に、私たち自身がこれらの現代社会をよりよく変革していくために、どのような改革が必要であるかを検討していきたい。

まず、取り組むべきは、家父長制下での女性の抑圧からの解放だと考える。大きな産業構造を変えることよりも、小さな単位のグループにおける意識改革、構造改革に取り組むことの方が容易である。パートナーあるいは家族同士が共に支え合い、働きやすく生活しやすい環境を作っていく必要がある。
特に、生産と再生産労働、つまり仕事と家事/育児がトレードオフにならないようにするべきだ。パートナー同士が役割を均等に二分する、周りの関係家族/共同体と共に子育てを行う、といったことをすることで、完全ではないにしても、ある程度の業務負担を平等にすることはできよう。もちろん、家庭差に応じて、本業の負担量や身体的負担量も細かく話し合いながら決められたら良いと思う。

次に、柔軟な職場環境の構築も必須だ。
リモートワーク/フレックス制シフトの推進や育休制度の充実、労働時間の短縮(業務無効率化改善)といった取り組みは今後の社会においては必須ではないだろうか。
不測の事態に対応できる体制を作り、普段から体調が不安定になりがちな女性が引け目を感じることなく働ける環境を整えていくべきである。もちろんこれは女性に限った話ではない。この世にはブルシットジョブと言われる類の仕事が有象無象に存在すると聞いているが、そのような仕事を直ちに辞め、AIを活用して労働効率を高めることで、本当に必要である仕事に取り組み、生産価値を最大化できるのではないだろうか。
産業構造の変化によって、現在の男女不平等の構造が生み出されている以上、私たちが労働市場/資本市場において、いかに女性の地位を向上させていくかという観点や行動は必要不可欠であると思う。

狩猟採集時代においては、4時間の労働で十分生活できていたのだ。もちろんそんな昔と今では全くもって生活環境が違うけれども、持続可能な社会を築いていく意識は忘れてはならない。環境破壊が顕著になる昨今、サステナビリティに関する課題は喫緊のイシューであるが、それは環境問題だけでなく、女性や家庭の負担をも圧迫し侵食しうるものであるということを忘れてはいけない。人類が生きる地球上で、人々の幸せを人々自らの手ではぎ取ってしまうような社会は、決して作られるべきではない。

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