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明日香 うたの旅 再続

 いつもお読みいただき、ありがたうございます。今回も読者の皆さんと明日香に万葉のうたを訪ねてみませう。

飛鳥坐神社

 水落遺跡を見て、自転車を東に走らすと飛鳥坐神社が見えてきます。さういへば、飛鳥には神社といふ神社があまりにも少ないことに気がつきます。地図で見ても、大きな神社はもちろんなく、目にとまるのは飛鳥坐神社以外にはありません(もしかしたらあるかも知れません)。むしろお寺の方が多いことがわかりませう。明日香は仏の都、すなはち仏都です。

飛鳥坐神社
飛鳥坐神社

 飛鳥坐神社の御祭神は、八重事代主神、高皇産霊神、飛鳥神奈備三日女神、大物主神の四柱です。いつ創建されたかなど、由緒についてはわからないことばかりださうです。

 ここにある會津八一の歌碑は、前回紹介した『万葉集』巻十三の歌です。

會津八一歌碑

 三諸は 人の守る山 本辺は 馬酔木花咲き 
 末辺は 椿花咲く うらぐはし 山そ 泣く子守る山 (巻十三・三二二二)
 (三諸は人々が大切にする山。ふもとには馬酔木の花を咲かせて、頂上には椿の花が咲く、美しく素敵な山よ、泣く子を守るやうに人々が大切にする山よ)

 もう一つ注目すべき歌碑があります。いしぶみに刻まれてゐるのは、反歌ですが、長歌が大切なので紹介しませう。

 葦原の 瑞穂の国に 手向けすと 天降りましけむ
 五百万 千万神の 神代より 言ひ継ぎ来る
 神なびの 三諸の山は 春されば 春霞立つ
 秋行けば 紅にほふ 神なびの みもろの神の
 帯ばせる 明日香の川の 水脈早み 生しためかたき
 石枕 苔生すまでに 新夜の 幸く通はむ
 事計り 夢に見せこそ 剣太刀 斎ひ祭れる 神にし坐せば (巻十三・三二二七)
 (この豊な我が瑞穂の国に、手向をすると天より降られた神々様の神代より語り継いできた三諸の山は、春になれば春霞が立ち、秋になれば黄葉の美しい。三諸の神が帯とする明日香川の流れが早いので、生えては育つことがない苔、その苔が生えるやうに長く、毎夜毎夜、夫が通つて来るやうな計画を夢に見せてください。剣太刀のやうに大事にして祀つてゐる神様なのですから)

 反歌
 神なびの 三諸の山に 斎ふ杉 思ひ過ぎめや 苔生すまでに (巻十三・三二二八)
 (三諸の山に幸せに願ふ、この杉。忘れ過ぎるやうなことがらあらうか、枕に苔が生えるまで)

 斎串立て みわ据ゑ奉る 神主部が うずの玉かげ 見ればともしも (巻十三・三二二九)
 (玉串を立てて、神酒を据ゑてお祀りする神職たちが、かざしにさした玉かづらを見ると心がひかれるものよ)

 二首目の反歌が歌碑に刻まれてゐます。歌碑では、原文のまま「神主部」となつてゐます。ここは、訓み方に議論があり、祝部(はふりべ)と訓む説などがありますが、『万葉集古義』の著者である鹿持雅澄は「部ノ字は書たれども、ここはたゞカムヌシとよむべし」と述べてゐます。私もそれに従つてゐます。
 この歌ですが、多くの研究者が「新婚を寿ぐ歌」といふやうに解釈してゐます。さうして見ると、何ともめでたく、素敵な歌でせう。また、当時は、夫が妻のもとに通ふ、いはゆる妻問婚でした。

飛鳥坐神社 万葉歌碑

飛鳥寺

 飛鳥坐神社から少し西に行き、南へ下ると、安居院が見えてきます。ここは、かつての飛鳥寺であり、鞍作止利の作つた飛鳥大仏があります。蘇我馬子により開かれた、蘇我氏の氏寺です。現在は真言宗の寺院です。飛鳥大仏は建久七年(1196)の落雷による火事で焼けてしまひ、修繕が施され現在に伝はつてゐます。その顔に、当時の雰囲気が残されてゐるさうです。
 大伴坂上郎女が、元興寺の里を回想して詠んだ、

 故郷の 明日香はあれど あをによし ならの明日香を 見らくしよしも (巻六・九九二)
 (古京の明日香も良いのですが、奈良の明日香を見るのも良いものです)

が『万葉集』に残されてゐます。元興寺は飛鳥寺の別名(法興寺とも)で、奈良遷都にともなひ移されました。

 境内から南を望むと真神の原が広がります。『万葉集』には、

 大口の 真神の原に 降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに (巻八・一六三六)
 (真神の原に降る雪は、たくさん降らないでおくれ。家もないのに)

があります。舎人郎女の歌です。「大口」は枕詞で、「真神」は狼のことを指してゐます。寺の外には蘇我入鹿の首塚があります。

飛鳥寺
飛鳥寺
飛鳥大仏
真神の原
真神の原

みやこの跡

 飛鳥寺を南に進めば、かつての都の所在地になります。さう、板蓋宮と浄御原宮がここにありました。すなはち、皇極天皇(重祚されて斉明天皇)及び天武天皇の宮跡です。国史上、大きな事件の舞台でもありました。前者は乙巳の変がありました。聖徳太子の御子である山背大兄皇子を弑し、権勢を恣にした蘇我入鹿が誅殺されました。ここに、国体の危機を乗り切りました。
 後者について、特に注意したいのが大化の改新です。この点について、先師である平泉澄先生の「歴史の回顧と革新の力」に耳を傾けてみませう。

 推古天皇の御代摂政聖徳太子高くその理想を掲げて改革の準備に着手せられてより、孝徳天皇の御代皇太子中大兄皇子中心となつて改新を断行せられ、文武天皇大宝律令の制定にいたつて大成するまで、その間約百年に亘るが、この百年間こそは我国の歴史に於て比類稀なる大改革の時代であつたのである。(中略)
 彼の偉大なる改革者は、一面大陸文明を十分に研究してその精髄を採用すると共に、一面深く我が国の歴史に沈潜し、国家原理を歴史の泉に汲み、外国文明の取捨を国史の標準によつて決定せられたのであつた。聖徳太子が国史の研究は天皇記、国記、臣連伴造国造百八十部並公民等本記の選述によつて知られる。これは我国に於て修史事業の殆ど成功した最初のものであつた。惜い哉、これらは太子の薨後蘇我家に保管せられた為に、蘇我蝦夷誅に伏する時火に罹り、焼失して了つた。しかるに船史恵尺が火中よりその一部分である国記を取出して中大兄皇子に奉つた。(中略)
 その皇弟は即ち天武天皇であつて、詔して編纂委員を定めて帝紀等を撰録せしめ、偽を削り実を定め、正しき歴史を後世に伝へようとされた。而してこの精神及び努力は、絶えず後に継承せられて、やがて古事記の記録となり、日本書紀の編纂となつたのである。
平泉澄先生『先哲を仰ぐ』錦正社 所収「歴史の回顧と革新の力」

 平泉先生によれば、大化の改新実現の源泉は、歴史の回顧にありました。聖徳太子の理想を中大兄皇子、すなはち天智天皇が受け継がれ、さらに天武天皇により具体化されて行つた。さうした昔を思ふと、わが国の歴史の重みを痛感します。
 しかし、その『古事記』『日本書紀』を今は亡き支那史の泰斗といはれる人物はまるで偽書のやうに述べてゐました。まことに惜しいことです。彼の支那史研究は見事でありましたが、国史への昏さは残念でありました。

板蓋宮跡
板蓋宮跡

飛鳥の寺院 

 さて、上に明日香は仏都だと記しました。他にも仏教寺院は多くあります。『万葉集』を中心にたどつてみませう。まづは、聖徳太子の橘寺。ここには次の歌にゆかりがあります。

橘寺
橘寺歌碑

 橘の 寺の長屋に わがい寝し 童女放髪は 髪上げつらむか (巻十六・三八二二)
 (橘寺の長屋に連れて来て寝た、童女放髪のをとめは、もう髪を上げてしまつたろうか=結婚してしまつただらうか)

 実は聖徳太子の御歌も、『万葉集』に一首だけ残されてゐます。

 家にあれば 妹が手まかむ 草枕 旅にこやせる この旅人あはれ (巻三・四一五)
 (家にゐれば妻の手を枕にして眠れたものを、旅の途中に倒れてしまつたこの旅人よ)

龍田山に、旅の途中で亡くなつたであらう屍を見て詠まれた御歌です。『日本書紀』にも同じやうな記述が、歌の詞を改めて載つてゐます。

 余談ですが、「聖徳太子没後1400年」の観光キャンペーンなる企画が奈良や大阪で行はれてゐました。企画についてとやかく言ふつもりもありませんし、太子顕彰の思ひは理解できますが、「没」の字は如何なものでせう。ここは「薨」とすべきところであつて、「没」と書くところに価値基準と国語の混乱が見られます(学者と呼ばれる者がかうした区別をしない、またはできないので仕方がないのかも知れません)。悲しいことです。

 橘寺は聖徳太子が開いたとされてゐます。太子誕生の地といはれてゐます。その橘寺の道路を挟んだ対面には、飛鳥四大寺の一つであつた川原寺があります。今は当時を偲ぶ礎石が残されてゐます。ここにも『万葉集』にちなむ歌が残つてゐます。

 生き死にの 二つの海を いとはしみ 潮干の山を しのひつるかも (巻十六・三八四九)
 (生と死との二つの海がいとはしいから、潮のない山が慕はしいことよ)

 世の中の しげき仮廬に 住み住みて 至らむ国の たづき知らずも (巻十六・三八五〇)
 (世間の煩しい仮の宿りに住んでゐて、住みたいと思ふ国へ行く方法もわからないことよ)

 この二首は、川原寺の仏堂の中にあつた倭琴の面に書いてあつたさうです。

川原寺跡

 『万葉集』に残された歌にちなむ寺院を見てきましたが、他にも犬養万葉記念館からさらに東に進み、山を登つたところにある岡寺。仏頭で知られる山田寺(跡)。今では田んぼの真ん中にある大官大寺(跡)など、かつての隆盛を偲ばせてくれます。なほ、山田寺の仏頭は、教科書でお馴染みでせう。興福寺の宝物館に展示されてますが、多くの人は阿修羅像を見たいばかりに素通りされるのではないでせうか。

山田寺跡
山田寺跡
大官大寺跡

 飛鳥に残された寺には今でも続くものもあれば、当時の繁栄に比べたら衰へてしまつたものもあります。仏教といふ海外の文物を積極的に取り入れ、発展した当時の様子を今なほ察することができませう。しかし、海外の文物を導入しても、決して本質は失ひませんでした。そこにいにしへびとの見識を見ます。

 また、私どもは古代史を学ぶにあたり、『日本書紀』をもつと尊重しなくてはならないと考へてをります。稲荷山古墳や江田船山古墳の鉄刀などを見てもさうですが、『日本書紀』を裏付けることができる遺物はありますし、いにしへびとをもつと信じて良いと思ひます。しかし、学界でそのことをいへば村八分にされるのも事実です。悲しいことです。

 さて、自転車をかつての都の跡から、橘寺、そして川原寺跡と走らせてきました。次は、島庄へと向かひませう。
 最後までお読みいただき、ありがたうございました。(続)

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