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ぐじぐじ雑記成仏系其のニ

※ひどくネガティブ神降臨中に書き留めたものを成仏させます、そのニ※

児童館ではお疲れ気味のママ達と子ども達にまみれ、スーパーではジジババにまみれる日々、もっとキラキラした場所に行きたい、おしゃれを楽しみたい、叶うなら褒められたいと思ってしまう。30代も半ばに差し掛かり気づいた、わたしは享楽的な一面がある。

夫が配慮してくれて、年に数回、ひとりで街中に遊びに行かせてもらうことがある。お化粧もきちんとして、繁華街の空気を吸って気分転換、少し自信を持てる気もする。その反面、現代の感性に全くついていけず、文化の中心はもっともっと若い世代、ここはお前の来る場所じゃない、自分は世の中からはじかれた年増だと突きつけられる気がして、もうどうしようもなく虚しくなる。勿論、とても楽しいんだけどね!

自分の居場所はどこなのだろうと模索しても、結局目の前の娘たちを生かすことに精一杯だ。
保護者としての責任を全うしている限り、ノルマも責められることも叩かれることもないが、認められることも感謝されることも達成感もない。何かに誰かに承認されたいとただただ自分本意の虚無感が増す。

よし気持ちだけでも明るくいこう、ちゃんと化粧して洋服を選ぶ。
数ある子育て支援センターの中でも、ある施設を選ぶ。ここの先生たちは、いつもわたしの服装や髪型を褒めてくれる。子どもだけじゃなく、わたしのことを見てくれる。だからここの先生たちがすきだ。案の定、褒めてくれた、申し訳ないくらい。

たまに自分の写真をSNSにあげる、いいねが来たり来なかったりする。

それだけで満足できる自分のちっぽけさが猛烈に恥ずかしい、情けない。馬鹿だなぁ、と思う。
くだらない承認欲求が満たされるならそれで良いんだろうという自分へのフォローを入れるものの、これも他人からは痛々しく見えるのだろな、とまた恥ずかしさで消えたくなる。

夏休み、子どもを遊ばせなきゃという使命感だけはあって、ダラダラと時間を使い毎日毎日あらゆる児童館に行き、なぜか自己肯定感がどんどん下がっている。

わたしがこんなくだらないことを人様の見える場所に垂れ流している間も、夫は馬車馬のように働いている。我々が寝静まった深夜帰宅し、翌早朝、ゾンビのような顔で出社している。娘たちは寝ているので、結局お休みの週に一度しか会えない。

ますます申し訳なさと情けなさで泣きたくなる。
わたしがこんな建設的でない自己分析に明け暮れているのも、家族全員、心身共に健康で衣食住問題の無い日々のおかげである。ますますアホらしい。

子どもと向き合う時間というのは、自分自身と向き合う時間でもある。

見栄と驕りの塊だ。かつてはそこに、若さがあった。社会の一員として役に立っている、認められているという自負もあった。ささやかな誇りもあった。それを失ったとき、何も持たない自分と向き合うことを、わたし自身が拒否している。

とにかく全てにおいて自信がない、それなのに見栄は増す一方だ。

こうやって思い悩んだ日々が、財産となることはあるのだろうか。思春期ならまだしも、いつまでこんなことやってんだか。

大昔、上司に
「自分が子育てしているイメージがわかない」ともらすと、
「お前は自分に興味がある人間だから、子育てに熱中するタイプじゃないだろうな」
と返された言葉が、呪いのように何度も思い出される。

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