自分という言葉はどこから来た?

もう伸び伸びとやろうと思った田神です。
気まぐれ更新になってしまい、反省しかしてません。
冒頭を、もっと明るくやりたいですね。

さて、前回は自分のフィルターに関しての話をしました。

今回は、私が自分、自分と言ってますが、自分という言葉を皆さんは、どう認識されてつかわれていますでしょうか?

このnoteはYou Tubeと連動して更新しておりますため、もし良かったら、ご覧になってから読むとよりわかりやすいと思います。

この動画でつかっている自分とは私、つまりは自覚している自己という定義でつかっております。

そして、この動画では、内的感情からでの自己認識ではなく、

外的要因からの自己認識

について話させてもらっております。

この定義をふまえたうえで、動画内では、自分なんて言葉は本来はないと話させて頂いております。

誤解を招くのでnoteでは触れますが、827年に中国の経国集にて、一人称を指す言葉として、つかわれています。

しかし、私たちのよくつかう自分とは、

本来の私

という意味でつかわれている方がほとんどではないでしょうか?

私はそこにメスをいれようということで今回の話をしております。

本来の自分なんていうのはないのです。

産まれてから今まで生きてきて、

その時々で選んできた選択

が今の私なのです。

ではなぜ、自分という言葉が、本来一人称を指す言葉であったにも関わらず、いつのまにか本来の私という意味に変わってしまったのでしょうか?

それは、マスコミから出てきた

自分探し

という言葉からです。

そして、これは平成の時代からでてきたそうです。
この歴史に関しては、皆様で実際に調べてみてください。

自分が自分をみつけようとしても、自分というものが、その時その時の積み重ねなわけですから、不毛であることは、察しのいい方なら気づくはずです。

なので、探すのはやめましょう。

自分を探すのではなく、セルフイメージをもつことを考えることの方が余程いいでしょう。

私も本当の自分ということを考えて頭がいたくなった時期がありました。

そんな中でいきついたのは、楽な状態の時の私のメカニズムを知ることでした。

これがわかってから、私の得手不得手、輝いているときというのを把握できるようになりました。

とどのつまり、自分という言葉は昔からもあるが、現代の私たちがつかっている自分という意味とは異なっていたということです。

次回は、外的要因からの自己認識について掘り下げたいと思います。

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