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最終話「戦争から復員(帰国)した父を待ち受けた苦しみ」


一話「私の父は戦争に行った」二話「父の軍歴を取り寄せてみた」の続編。三話目にして、最終話です。

父は28歳で1946年に帰国し、東京で官僚の仕事に就いた。翌年母と結婚し、すぐに青森に転勤になった。

ところが、その青森で勤務中に吐血して倒れた。
すぐに病院に運ばれ、入院となった。

結核だった。

まだ若い母は主治医に呼ばれ、

旦那さんの余命は、あと3ヶ月です。
 覚悟してください」

と告げられたそうだ。当時、父は30歳だった。1948年のことだ。

どうやら戦地中国にいた頃から、結核菌は父の身体を蝕んでいたようだ。元々辛抱強い父は、多少の体調不良は我慢してしまうので、結核を相当悪化させてしまったのだ。

困った母は自分の両親(私の祖父母)に相談し、東京の慶應義塾大学病院に父を転院させた。
しかし、慶應病院でも告げられたのは辛い事実だった。

「日本にはまだストレプトマイシンはありません。当院でも、有りません。
ですが、もしアメリカから入手できたのならば、当院で投与しましょう」 

当時の結核の特効薬は、ストレプトマイシンだが、これはアメリカで1944年に開発されたばかりだった。アメリカ国内では1945年から臨床で使われ始めたが、日本にはまだ存在しなかった。日本で、ストレプトマイシンの製造許可が下りたのは1949年である(島尾忠男、2008年)。

当時の多くの日本の結核患者は、サナトリウムという療養所に長期間入院して治療していた。しかし、ここは薬がある訳でもなく単なる「患者の隔離」、今でいう「終末医療」に等しいものだったようだ(一般社団法人安佐医師会のHP、結核のぺージより)。

それを聞いた祖父母と母は、大変困ったそうだが、結局祖父が何とかストレプトマイシン入手に動いた。
母方の祖父は、歯医者で渋谷駅前で開業する他に、読売新聞社で歯科部長を務めていた。
当時は金歯ブームで、大変儲かったそうだ。

祖父は無口で、社交的な人では無かったので、接待は苦手だったらしい。それでもGHQの人を接待し、ストレプトマイシン入手に成功した。その時、祖父は51歳だ。

父の病状は深刻で、それを投与されただけでは足りず、片方の肺は全摘出した。父の背中には大きな手術痕があった。

結局、父は3年かけて全快し、職場に戻った。その後は片肺のまま、79歳まで生きた。つまり、片肺になってから、その後約50年間も生きた訳だ。余命3ヵ月と言われたのに、、、
その後の生き様は第一話に書いたとおりだ。

ストレプトマイシン入手に、いかほどの金額がかかったか誰も知らないが、高額だったに違いない。しかも、祖父は日本が敗れた敵国に頭を下げ、高額な金を払って娘婿の為に薬を買った。
戦争で負けた上に、医療面でもアメリカに負けを認めざるを得なかった訳だ。

それがどれほど、悔しいことだっただろうと思うと、涙が出てくる。しかも祖父は、自らはその話は決してしなかった。私は父や母から聞いた。祖父の偉大さ、男らしさに、ただただ尊敬する。

祖父はどうやって、GHQに頼み込んだのだろう?そこは私は知らない。私の推測は一応あるのだが、もし分かれば知りたいところだ。

父の実家は裕福ではなかった。だから結核罹患時に独身だったら、ストレプトマイシンを入手出来ずに亡くなっていたかもしれない。経済的にも、コネ的にも入手は不可能だったろう。

その意味では、父は幸運な人だ。妻の実家に命を助けてもらったのだから。父は生涯母方の祖父母(父からみたら、義両親)に感謝していたし、ちょくちょく訪れていた。

私は父に生前、その時の事を訊いたことがある。

30歳で、余命3ヵ月と言われた時はどう思ったの?」

すると父は、居間から庭を見据えたまま、答えた。

「生きたい。と思った」
しばらく沈黙し、
ただ、ただ、生きたいと思った」

静かな落ち着いた声で、そう答えた。 
それが本心だろう。

いつもだったら、饒舌な父は講釈を付け加えるのだが、その時はそんな事を私に質問させない凄みがあった。

「そうだったんだ、、、」

と私は答えると、後は自分で父の心中を慮った。

そりゃあ、そうだろう。兵庫県で教育熱心な祖父に厳しく育てられて、貧乏ながらも東大法学部に入って、卒業したら日本は開戦だ。徴兵されて仕方なく4年間も、中国戦線にいたのだ。終戦を迎えてようやく復員(帰国)し、仕事に就き、結婚した。これから頑張るぞと意欲満々の時に、奈落の底に突き落とされたのだから。

父は人生で2度、命を救われた訳だ
一度目の上官と、2度目の母方の祖父が父を救ってくれなかったら、私はこの世に存在しないのだ。何という奇跡だ。感謝しかない。ありがとうございます。

ところで、なぜ、祖父は養子でもない娘の夫を救ったのだろうか?
おそらく父の姿に自分を重ね合わせて、同情したのではないだろうか?
祖父も父も地方から上京し、実家の後ろ盾もコネもなく、自分の実力だけで頑張って東京で生きようとしていた。

しかも、祖父も30歳頃腎臓を酷く患い、一つを摘出したそうだ。そんな事は、明治生まれの祖父はおくびにも出さなかった。私はその事を母や親戚から聞いた。
祖父は確か85歳くらいまで生きたから、片腎臓だけで、55年間も生きたのだ。それ以外にも、祖父は恵まれない生い立ちを克服し、懸命に生きた。何一つ不満を言わずに。

祖父と父は、「人間は体の一部を失っても、大切に使えば充分生きていけるのだ」という、私にとっての生き証人になった。

父の言葉は沢山記憶に残っているが、中でも
終戦記念日が近くなると思い出すのは下記だ。

「世の中には、生きたくてもそれが出来なかった人が、沢山いるんだぞ。戦争や病気などで命を落とした人が。その人達のことを考えてみろ!」

「そうしたら、そんな我儘は言えないはずだ」
とか、
「そんな馬鹿な事は言えないはずだ」
「しっかりしろ!」

などと叱られたものだ。

「では、幸運な事に健康な身体を持ったお前がすべきことは何だ?」

「平和や健康に感謝して、その時その時で、一生懸命に真面目に生きることじゃないのか?社会に対して、家族に対して」


父の言葉は、いつも私の中で生きている。

【参考文献】
島尾忠男(2008年)「わが国の結核対策の現状と課題(2)結核対策のフレームワーク」『日本公衛誌』第55巻 10号。

※事実につき、無断での転載はお控え下さい。

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