アンドリュー・ノリス『マイク Mike』小学館

この本は 進路選択に関する本、思春期を迎える子どもとの接し方を考える本、親の期待と自分の生き方について考える本、ヤングアダルトの本、海外小説 です。

【おことわり】

ストーリー展開に関する記述があります。結末は記載しませんが、小説なのでストーリー展開を知りたくない方は、【あらすじ】はお控えください。

教育・育児ジャーナリストのおおたとしまささんがあとがきと帯で推薦文を書いています。進路選択を考える10代のみなさんはもちろん、10代もしくは10代に差し掛かろうとする子を持つ親のみなさんにもオススメ(むしろ親の皆さんに絶賛オススメしたい?)と感じたので紹介します。

【著者紹介】

1947年スコットランド生まれ。ダブリン大学トリニティ・カレッジを卒業後、イングランドで10年間教職を務めた後、テレビの脚本家を経て児童文学作家となる。『秘密のマシン、アクイラ』(あすなろ書房)でウィットブレッド賞児童書部門を受賞。

【あらすじ】

元テニス選手の父の薫陶を受け、U-18王者を目指す15歳のフロイド。ある日の試合中、マイクという青年がコートに現れる。どうやらマイクは、他の人には見えないらしい。動揺するフロイドは両親と共に訪ねた精神科医と話をするうちにマイクの正体を知り、自分の心の奥底の「本当の気持ち」に気づいてしまう……。(出版社内容紹介より)

フロイドは将来を嘱望されているジュニアテニスプレイヤー。彼は両親の英才教育によってテニスの才能を開花させ、本人の努力と両親の献身的なサポートが歯車のようにガッチリ噛み合って結果を出してきました。

そんな中、マイクという人に見えない少年がフロイドの前に出現し、スポーツ専門の病院で精神科医のセッションを受けるところから、物語が始まります。通院を始めた当初、フロイドは目の前の試合に勝つことに闘志を燃やし、マイクの存在で自分の人生の計画が台無しになんてされるもんか。と意気込んでいます。

しかし、精神科医ピンナー医師とのセッションを重ねていくうち、「フロイド(のテニスプレイヤーとしてのキャリア)のために、アメリカに家族で移住する」という両親の計画に、フロイド自身が全面的に賛成しているわけではないことに自ら気づきます。そして、マイクの促しによって幼い頃、父親から「楽しくなくちゃいかん。(略)テニスが楽しくなくなったら、お父さんに教えてくれ。そうしたらテニスをやめるんだ。約束だ。いいね?」と言われていたことを思い出します。

ピンナー医師から、マイクはフロイドの投影で、自身の一部であることを気付かされます。

自分の投影であるマイクは、「あんまりテニスに興味がない。」と話しかけ、その事実を突きつけられたフロイドは悩みます。早くマイクの存在を消し、これまで通りテニスに打ち込んでほしいと願う両親と過ごしながら、フロイドは自分である結論を出しピンナー医師に伝えます。それは…

「僕はこれまで通りテニスを続けることにしました。(略)二人が計画してた通りにテニスを続けます。」

しかし、次なるテニスの大会中、再びマイクが現れてフロイドは試合を続行することができなくなってしまいます。ピンナー医師はフロイドの横で、両親に対してフロイドの気持ちを代弁します。驚き、いらだち、怒りを見せる父親と母親を目の当たりにしながらも、フロイドは自分の言葉で「テニスがもう楽しくない」ということを伝えます。最後の大会を華麗な勝利=優勝でしめくくり、両親の説得にも屈せずフロイドはテニスプレイヤーを引退します。

ここまでがPART1で全体の約半分を占めます。

PART2では、テニスを辞めたフロイドが夏休みを海辺の祖母宅で過ごし、再び出現し始めたマイクとの対話や、女の子との出会いによって、海辺の生物に幼い頃からとても心惹かれていたことを思い出します。その後夏休みを終え、地元に戻って高校生をしながら水族館で魚を紹介するアルバイトを始めるフロイド。好きなことで人を楽しませることができるアルバイトに充実感を得ているものの(大学には進学しないがではどうしたら?と)将来の進路が見えずぼんやりとした不安を抱えていいます。

そんな中、いまも第一線で活躍するテニスプレイヤー時代のライバルと再会し、テニスに打ち込んでいた頃と、辞めた決断について考える機会を得ます。内省したマイクとフロイドは、自らの決断を肯定するのでした。

テニスを辞めたあとの両親は、フロイドを無理やりテニスに連れ戻すことはしなかったものの、いつかテニスの世界に戻ってくるのではないかと期待を抱き続けていました。テニスをすっぱり辞めてしまったフロイドと両親は、大きな衝突はないものの何となくぎくしゃくとした関係でしたが、フロイドがお小遣い稼ぎのためにテニスのコーチを始めたことで、フロイドの心の中からは少しわだかまりが消えていきます。海辺で出会った少女の縁で得た海洋調査の雑用かかりのオファーを受け、フロイドは船に乗り込み出発します。ある日海に潜っているとき、海中でマイクが出現しフロイドを導きます。それは結果的に獰猛なサメからフロイドを守ったのでした。そしてその一件以降、マイクはフロイドの前に二度と姿を見せることはありませんでした。

PART3は短い章で、海洋生物学者としてのその後のフロイドが描かれています。

【編集の視点から】

PART1は緊迫感のあるやりとりでグイグイ引き込まれていきます。PART2以降は勢いがやや落ち着いていきますが、これは小説の善し悪しというよりも、才能と華やかな世界に心惹かれてしまう読み手の性なのかもしれません。

PART2の後半からはストーリー展開を追うような進行になっており、やや「こなしている」感があります。全体的にライバルや彼女などの脇役の存在が魅力的で、あとがきでおおたとしまささんも述べていますが彼らのサイドストーリーに思いを寄せるのも、楽しいです。一点、PART1でフロイドと向き合った両親が、PART1では主要な人物で多くの登場機会がありながら、その後ほとんど描かれていない点が残念です。著者はフロイド、そしてマイクのストーリーとして、若い人たちを中心に据えた小説を書きたかったのだと思います。

【わたしのひとりごと】

おおたとしまささんの「あとがき」は必読です。彼の言葉を借りるとこの小説は

本当は「さかなクン」なのに自分の正体に気づかぬまま、小さなころからテニスの英才教育を受けて「錦織選手」になってしまった少年が、周囲の期待を裏切ってでもやっぱり「さかなクン」として生きるということを選んだという話

です。言い得て妙、その通りの小説です。

これを書いている私はフロイドと同じ15歳の少年の子育てに1年以上悩んで、いまも悩みが継続中です。若者たちの視点を離れ、親の視点から読むと実に切ない本です。

フロイドが自分の心の声に従って、自分で生きる道を選んだことに、誰も異論はないでしょう。フロイドはよくやった。なぜ両親は自分の夢を子供に押し付けてしまったのか。結果子どもを苦しませることになり、これは教育虐待ではないだろうか。この本を読めば、多くの人がこのように思うのでしょう。

PART1の中のフロイドの言葉は親の心にグサグサと刺さります。

「父はすごいです」「お父さんのためなら僕、なんだってやるんだ」「両親に、二人は人生の十年間を棒に振ったんだなんて僕には絶対、言えないから。」

一方で、真実を医師から聞き、混乱を極めた両親の言葉も胸に刺さります。「我々の責任だというんですか?」「私は一度だってフロイドになにかを強制したことはない!一度もだ。」「フロイドはゲームが好きだからああいうプレーをするんです(略)好きじゃなかったらあんなに素晴らしいプレーができるわけがない」

親子がいる前でそのやり取りの後に発せられるピンナー医師の「彼のプレーが素晴らしいのは、親を大事に思っているからです。」という言葉が静かに深く沈んでいきます。

ここに、親に突きつけられた課題の深さと重さを感じてしまいます。

あとがきでおおたとしまささんは、「意識的には完璧な親として振る舞えても、無意識のなかではどうしても親としてのエゴが捨てきれない場合は多い。それが親の性というものであり、それを責めることはできない。」とし、「親とはそれだけ切ないものであるが、その切なさを引き受けるのが親としての宿命である。それはあくまでも親にとっての課題であり、課題の解決を子どもに求めるのは筋違いというものだ」と述べています。

「課題の解決を子どもに求めるのは筋違いだ」という点について、そのとおりと思う一方で、子育てに悩む親として、なにか引っかかるところがあります。親のエゴとは、誰がどのように判断して線引きをするのか、という点です。

親主導で幼いころから英才教育を施した子どもがトッププレイヤーとして成果を挙げ、子ども本人がそれに満足していたら親の行動はエゴではなく称賛になるでしょう。

フロイドの両親のように、子どもの才能を見出し、つまらなければ辞めてもいいと(表面的には)親が強制することなく二人三脚で才能を開花させても、子どもや周囲がエゴだと言えば親の行動は「エゴ」とバッサリ切り捨てられてしまうことでしょう。

子どもの成果や感じ方によって、親の子育ては簡単に白黒がひっくり返る。そんなもろさと危うさと危険さが、子育てには常に付きまといます。

親は誰しも子どもの幸せを願わずにはいられない、でも、子どもの幸せってなんだろう?、愛情とエゴの境界線はどこに?と思わされます。

それはきっと個別具体的に異なるもので、正解はないのだと思います。同じ育て方をしても、「子どもがすくすくと育ち、子ども自身がこの親のもとで愛情をたくさん受けて育ててもらったと感謝するケース」もあれば、「私はやらされていた、自分はそんなことをしたくもなかった、これは教育虐待である、と一生子どもに恨まれるケース」もあるでしょう。

一方、親の視点に立ってみても、「子育ての時間はずっと幸せだった」と振り返ることができる親もいれば、「ある期間は辛くて辛くて仕方なかった」と思う親もいるのでしょう。

話が少しずれましたが、このお話は「錦織選手」を辞して「さかなクン」になれたから成り立つものです。華麗なる進路変更ができ、結果的に別の世界で成功したというストーリーは「意欲的に人生を選び取ることができた勝者の物語」であり、ここにこの物語の限界があるように感じます。

親の援助によって「錦織選手」になれそうだった子どもが、親が敷いたレールを降り、しかし結果的になににもなることができず、両親の年金を食いつぶしてもなお家に引きこもって精神的・経済的に自立できない何十年を過ごす話、ではないのです。今回紹介した『マイク』の物語から離れ、上記の前提で、親のエゴについて考えたとき、人はフロイドとマイク、そしてその両親に対するものと同じ判断となるのでしょうか。

親子の距離感の難しさ、愛情とエゴ、子どものために親が支援できることはなにか、子どものために親がしないほうがよいことはどんなことか。

思春期に差し掛かる子どもたちはもちろん、その親や、子育てを終えつつある親にもオススメの1冊です。

最後までお読み下さりありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?