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救いの大雨 SS0026

梅雨入り 2019/6/1

 大雨の日は、心が落ち着く。

 ただの小雨では駄目だ。大雨、それに嵐や台風であればなお素晴らしい。

 俺は、手にしたスパナを放り出し、乾いた地面に座り込む。無造作にあぐらをかき、胸元の物入れからタバコを取り出して、大きなため息をついた。

 今年の梅雨は、まだ明けない。例年になく長くなるらしいが、ここ数日はいまいましいことに中休みだ。
 空を見る。木々の隙間からのぞく暮れなずむ蒼い空には、夕焼けの朱が混ざり始めている。明日はいい天気になりそうだ。

 ──くそったれ。自然に悪態がこぼれる。

 先ほど雑に整備をする部下を怒鳴りつけてしまった。日々、あれだけ整備の大切さを説いているのに、伝わらないもどかしさが胸のうちでくすぶる。
 いや、奴らだってこんな整備は本当はしたくないのだろう。俺は苛立たしくタバコに火を点けた。
 力任せに吸い、大きく煙を吐く。苦い味が身体中を駆け巡る。

 目の前には、俺たち整備員が精魂込めて手入れをした機体が見える。煙を何度も吐き、その美しい姿を惜しむように見つめた。

 夕暮れの掩体壕の中は、奇妙なほどに静かだった。

「美しい飛行機だと思いませんか──」
 昨晩、ここで少尉に呟いた言葉を思い出す。
 少尉の右手には、工具箱が握られていた。彼は慌ててそれを隠したが、俺の言ったことを理解してくれただろうか。

 目の前の一式(いちしき)戦闘機──隼(はやぶさ)は、相変わらず美しい姿でたたずんでいる。
 だが、両翼下にぶら下がっている暗灰色の二百五十キロ爆弾は、似つかわしくない。

 明日この隼は、ここ知覧(ちらん)から飛び立つ。
 大雨の日以外は、何かに取り憑かれたかのように続いていた特攻作戦の最後を飾るのだ。

 大雨や嵐であれば、目標確認が困難になるので航空作戦は中止になるが、明日は晴れだ。

 整備責任者である機付長の俺が、手塩に掛けて準備したこの機に乗るのは、朝鮮人の若い伍長だった。
 まだあどけない顔をしたその伍長は、何度もよろしくお願いしますと、我々整備中隊の整備員に頭を下げた。

 その覚悟を決めた凜々しい笑顔を思い出すと、胸のうちにやるせない思いが渦巻く。

 タバコを投げ捨てると、地面に置いたスパナを握り締め、頭上に振りかぶった。
 このまま隼に投げつけ、機体をいじり、飛び立てないようにしたくなる。

 だが、だが──。

 スパナを持つ右手が震える。奥歯を激しくかみ締め、目を強く閉じる。

 あの少尉だって同じ気持ちのはずだ。誰だって誰かが無駄に死ぬための手助けなんてしたくない。
 陸軍と海軍を合わせて三千名以上の特攻隊員が、沖縄の空と海に散った。沖縄戦の大勢は決まったのに、あの伍長は何のために飛び、何のために死ぬのだろうか──。

 口中に血の味が広がる。それを飲み込むと、ゆっくりと息を吐き、右手を下ろした。

 目を開けると隼が、朱に染まり始めていた。

 その美しい姿が、徐々ににじみ始める。

 俺は両手で地面を何度も叩くと、体を折り曲げ、全身を震わせた。


 大雨の日は、心が落ち着く。
 誰も死ぬことがないからだ──。

第13回『このミステリーがすごい!』大賞優秀賞を受賞して自衛隊ミステリー『深山の桜』で作家デビューしました。 プロフィールはウェブサイトにてご確認ください。 https://kamiya-masanari.com/Profile.html 皆様のご声援が何よりも励みになります!