ヨンは優男にぼうっと見とれる医仙の袖を引っ張った。 「患者はいないようだな、帰りましょう」 「あなたの先生はどうするの」 「どうとでもなります」 「遠く都こらお越しになったとか。曾祖父の書庫をご覧になられては」
軽やかな男の声がした。 土手の向こうは川になっており、草原の中の小道を洗濯物を抱えてやってきた男は、にこにこと愛想よく笑い、頭を下げた。 「曾祖父はわたしが幼いとき山に入り、仙人になったそうです。姿は見えませんが、たしかに今もあなたがたのそばにおりますよ」
「なぜって。医者が必要だからって王様がおっしゃったのよ。あなたの先生になるはずのおじいさんでしょ」 「死んだのでは。ソ軍師は百年前の戦で名を立てたのが始めですよ。それから嘘か真かわからぬ伽話の主人公じみたじいさまです。生きている」ほうがおかしい」 「聞き捨てなりませんな」
「じゃあ、あなたの先生はどこにいるの。わたしの患者は?」 「さあ」 「あなた、やる気があるの?」 そんなものはちっともない。 医仙はヨンのそばにきて、袖を引いた。ぐいっと引き返すと、さらに引っ張る。 「離してくれ。文句を言いたいのはこちらのほうです。なぜあなたはついてきたんだ」
「こんにちは! どなたかいらっしゃいますかぁ」 戸口に下がっていた筵をめくって、医仙が声をかけた。ヨンはあたりを一回りし、もうこのまま帰りたい気持ちになりながら、つぶやいた。 「イムジャ、ここには誰もいないでしょう。竈にはクモの巣がはっているし、甕の水は腐っています」
すてきな山荘というならば、清い滝のふもと、青々とした屋根を葺いたこざっぱりとしたものではないか? 目の前の庵は、壊れた荷車や腐った筵、しなびた野菜が軒にぶらさがっているような、軍師の住まいにはいささかふさわしくない、しずが屋であった。
歴代の王に仕えてきた軍師のソ・カジョクは仙人のような人物で、都を離れ黒山に庵を結び魚を釣って暮らしているという。 「すてきな山荘ね、チェ・ヨン」 輿から降りた女人は、背伸びをしながら言った。ヨンはためいきをこらえながら、自らの馬を降りた。
兵を操るのに戦術は必須である。 五十の小隊と千の軍では動きが異なる。小波は敵の足元をすくうが、大きな波はすべてを飲み込む大きな力を持っている。使い方を誤れば溺れ死ぬ。 小隊あがりで軍の使い方を知らぬのは、胸を張れることではない。 将軍となった今、師をもとめ軍を学ぶことになった。
ただそばにいるというのも、大変なことだ。 「おつかれさまでした」 ウンスの言葉に、目を丸くするのをみると、なんだかおかしくなってきた。 冷徹なサイコパスのはずが、だんだん、人間らしくみえてくる。 【サイコパス】
「おれを厭うておいでなのは承知です。身勝手でついてきたのです」 こわいし、にがてなだけだ。 「嫌いじゃないわよ。そんなに」 悪夢も見るけど、昼間は忘れている。昨日は眠る暇も無くて、少しほっとしている。昼寝の時まで悪夢は追ってこない。 あくびが出た。
それもそうだ。 ウンスにつきあい、一晩中立ち通しだったのだから。 「ありがとう」 信じがたい言葉を耳にした、という表情をする。 「護衛なんて、あなたがすることなかったのよ。部下にやらせてもいいのに。そうでしょ、テジャン」 男の顔が赤くなる、朝日があたったせいなのか。
最後にもうひとりいたらしい。 「どこが悪いの? 傷が痛むんですか?」 下を向いた彼は、顔を上げたとき、なんと笑っていた。 「あなたが治してくれたでしょう。おれは平気です」 「なら、どうしてそこに座るの。そこは話を聞いて欲しい人の席です」 「聞いてください。おれも、くたびれました」
一人ずつ、話を聞かないと。 できることはしてあげたいし、返すものは返すべきだ。 これは、長くなりそうだ。 さいごの一人を見送ったとき、もう空は明るくなっていた。 目をぎゅっとつむって、ウンスはつぶやいた。 「終わった」 「医仙」 チェ・ヨンがむかいに座った。
ごく基本的な医学の質問に、まったく答えられないのはどういうわけか? ミーヨーン-。 医仙として表に出るときは、絶対に直接口を開いたらだめって、約束したのに。 おでこに手を当てて、ウンスは考えた。この場を乗り切るには。 「あの」 「はい」 チェ・ヨンがすっと顔を寄せてくる。
なんだなんだ。 「まことにあなたさまは天の医員であられるか」 おじさんの言い分はこうである。 医仙の言うとおりにしても、全く病はよくならない。それどころか、悪くなった。高額な金銭を支払ったのに、一度も会えないのはどういうわけか。
半笑いでついていくと、広間には大勢のおじさん。お酒などない。ざわつきが、いっせいに静まった。 ウンスは扇で顔を隠したまま、御簾のうちに座った。 うーん。この雰囲気、いやな感じだ。 ミヨンは何か知ってたのかもしれない。それならそうと、言うはずだけど。 「医仙殿にお聞きしたい!」