見出し画像

村上春樹的経営

村上春樹が好きだ。昔も好きだったし、今も好きだ。中学3年生で初めてノルウェイの森を読み大変な衝撃を受け、何度も読み返した。ワタナベトオル(ノルウェイの森の主人公の名前だ)のように生きたいと思い、人生の規範を村上春樹の小説に求めた。

今は、もちろん好きの中身は変わってきている。人生の規範を村上春樹の小説に求めるようなことはなくなり、それでも新刊が出れば欠かさず読む程度のファンである。

村上春樹的経営とは

そのような中、知人と今の会社をどう経営したいのか、などを話していた時、ふと「村上春樹の小説に出てくるような会社を経営したい」とつぶやいた。それから1か月くらい、何人かの村上春樹好きに話を聞き、考えを深めた。その時は、そうは言ってもメタファーとしての村上春樹的な会社経営がしたいのかな、自分が好きなように経営をしたいということか、くらいで落ち着いた。だがそれから数か月して、改めて自分の中で村上春樹と経営の共通性に関する思いが強くなってきた。むしろ、今会社が使命として追っている領域が、彼が小説で表現していることと不可分なのではないか、と感じられるようになってきたのだ。

そんなわけで今回はごく私的な、自分の会社をどうとらえるか、の話である。とはいえ、聞き上手/暗黙知と村上春樹の関係に言及するので、そのあたりに興味がある方には面白い内容になり得る。

結局のところ、自分は村上春樹が好きで、思春期の大部分を(より正確に言えば思春期の悩みの大部分を)彼と彼の小説に救われてなんとか生きてきて、今の自分として生きて会社を経営しているということなのだろう。そしてそれが、会社で提供したい付加価値そのものー「聞き上手」の提供と不可分だと気付いた。それは、一言で言うとこういうことだ。

「孤独を救う手段としての村上春樹」。

村上春樹の小説には自分が自分として生きていくうえで何をよりどころとし、どう世界と向き合うかの大きなヒントがある。そして今自分は、それを会社のコアとして展開したいと考えている。要素として、以下の3つがある。

デタッチメント

後述するコミットメントとあわせて、この用語自体が村上春樹自身が自分の小説を分析する際に使われる言葉である。特に初期の作品を表現する言葉であり、他者と自分を切り分け、自分の居場所を確立するー。そんな意味あいだ。

ノルウェイの森を含む初期の作品は、自分が周りに埋没せずに、主体性を持ち、それでよい、と思わせる、そんな作品が多い。ちょっと変わり者の主人公が自分の信念にしたがって行動する。特に思春期に他人との違いや理想とのギャップに苦しんでいたころに、当時の小説たちにかなり救われていたと、今思う。

分析的に表現すると、1960年代の全共闘の世代は、個の確立よりも全体主義的価値観や同調圧力が強く、そこに対するアンチテーゼとしての個を描いた作品だったと思われる。ある意味では、自我そのものを獲得する物語だったとも思える。そう考えると、現代においてアジアの若者に村上春樹が支持されているという事実もうなづける。

今の日本における同調圧力の強さを思うと、村上春樹の初期作品が持つ価値は全く失われていないと思う。登場人物がいささか煙草を吸いすぎるきらいはあるけれど。

いずれにせよ、その救いの声は、「今の自分でよい、自分の思う正しさにしたがって生きなさい」というメッセージとして、自己肯定感を生み出す根源的な力として助けになってくれたのだと思う。そしてそれは、「聞き上手」を通じて、自己肯定感を世の中に、目の前にいる人に提供したいという今の思いに、自分事としてつながっている。

コミットメント

その後、村上春樹の小説自体が、大きく変容していくことになる。具体的には「ねじまき鳥クロニクル」が一つの転機であり、地下鉄サリン事件を扱った「アンダーグラウンド」でインタビュー作品を作るなど、作者自身の社会に態度が変わっていく。小説の中でも、主人公が責任をもって他者に働きかける内容になる。今までは作品の中でも外でも、世間に対して一歩引いた立場をとっていたものが、より積極的に、能動的な行動をとることで社会とかかわるようになってきたのだ。

コミットメントとは、自分の価値観をベースに世の中と向き合い、価値を生み出す一員として活動していくこと。90年代後半ころのインタビューでこのコンセプトを語り始めている。10年ほど前にエルサレムの文学賞を受賞した際のスピーチでは「常に卵の側=弱い側に立つ自分でありたい」と語っている。

村上春樹エルサレム文学賞受賞スピーチ

このように、当初は自分と世界との間に距離をおいていた彼が、世の中に積極的に向き合い、そして世の中の変化、それもよい変化を起こすべく活動をしていること、そこに共感を覚え、またなにがしかの影響を与えたのだろう。特に、必ずしも日頃から賞賛され光を浴びている人だけではなく、市井の人々や、日々を一生懸命送っている人たちを祝福し、その側に立ち、同じ目線で世界を見たい。それは上から目線ではなく、好きだから。そんな考え方を持たせてくれたのだと思う。

井戸に降りていく

彼の作品、特に長編の特長として、どこかで非現実的な世界 ー彼の言葉を借りると、井戸の壁を抜けた、向こうの世界ーへ行くことが挙げられる。人によってはそうした世界観を受け付けられず、苦手意識を持つ人も多いと思われるが、これこそ村上春樹の村上春樹たるゆえんだろうと思う。表層的・現実の世界を超えて、精神的な、黙示的な領域にまで踏み込んで初めて人はその人そのものと向き合うことができる。そんな考えが彼の小説に反映されているのだ。

そしてこれこそが、小説という表現形態の芸術が持つ最大の強みなのだろう。ノンフィクションやビジネスの通常の世界では決して共有できない世界であり、見ることのできない深い魂の現れのようなもの。しかしながら、本当に人にとって価値があるのは、むしろそうした精神世界の方なのだ。

自分が自分の会社で行いたいのは、まさにそうした領域だ。つまり人が成し遂げた表面的な業績や成績、表彰ではなく、その奥にある魂の部分、精神の部分に潜り、共有をしたい。それをビジネスの言葉にすれば暗黙知であり、言語化されないノウハウであり、経験であり学びということになるのだろうが、そうした言葉にする以前に、井戸に一緒に潜る作業にこそ、価値があるだろう。

思い返してみれば、自分史を作るサービスでも、その人の表面的な業績や実績をたたえるものにしたいと思ったことはなかった。どのように悩み、苦しみ、今に至ったのか、その過程であり言葉にしきれない思いに寄り添いたいと思ってきた。それは企業支援として、ナレッジ共有や業務可視化支援まで範囲を広げた今でも全く変わっていない。

これからの社会で

ここまで、「自分がしたいこと」として3つの要素を並べてきたが、これらは社会的な要請でもあると感じている。自らを自らでよしとし、それを基軸に社会とつながり、かつそれは表面的なものではなく、もっと魂に近しい部分である。そのような活動を求める要求は、時代が進むにつれてより多くの人の欲求となっているのではないだろうか。

そのうえ、そのような要請に応えるためには、完全な自動化/仕組み化だけでは厳しい。必ず人が間に入り、人が価値を生み出すことが求められる。だからこそ、残りの人生をかける価値がそこにはあるし、やりがいもあるだろう。



神山晃男 株式会社こころみ 代表取締役社長 http://cocolomi.net/