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あの頃は、メイクをしていなかった。
しばらく子どもと離れて
1か月半も離れていた小学生の子どもたち二人が帰ってきた。
思いがけず長かった自分の時間は、遠い昔のことのように感じる。たった2日前なのに!
ひとりで過ごす日々は、もう心は常に感傷的な10代か20代くらいになっていて、何かをしていたい性格が明らさまに顔を出し、英語や国語の勉強のエンジンはかかるし、本は読むし、歩くし、書くし、歌うし、忙しかった。人に会ってはいけないという安心感がわたしの何かを開放させた気がする。
時々美容室の仕事があると、もう会わないかもしれない他人と短い雑談をすることの楽しさにテンションがあがる。黙々とイメージを形にしていく道筋に従って機械のように手を動かす気持ち良さも確認できた。
束の間夫婦の時間は美味しいモノさえ食べられればご機嫌で、それ以外はそれぞれ黙って好きなことをして過ごすという静かな満足度の高い空間となっていた。(夫婦やカップルは、当たり前だけど正解がなくて、”組み合わせ” に何かの課題か、試練か、ご褒美か、学びか、お役目がセットされているんだと思う。)
無防備な人がくれる温かさ
さて、子どもたちがいないことは全く寂しくなかったけれど、帰ってきてみると ”誰かがいることの温かさ” はとても感じた。そこにいる人の在り方にも依るはずで、今回は何も飾らない子どもたちの雰囲気が、わたしを温かくさせたのかもしれない。
子どもは、自分を良く見せようにも、肩書や服や持ち物やメイクでどうにかできる年齢ではない(お金もないし)。娘においては、せいぜい長時間鏡を見て髪の毛をいじるくらい。そういう点で不自由な生き物。
その一方で、基本的に本能に近く自由で、食べたい、遊びたい、見たい、やってみたいなどの気持がほとんど。成長しようと思わなくても成長する生き物。そして、無防備。無防備な生き物は、世界を見る眼も大人のそれとは違うはず。
帰ってきた子ども達を見ていて、なんかそこから見える世界って良いなって、しみじみ思った。
メイクをしていなかった自分
そしたら、自分の小・中・高くらいの記憶が蘇ってきた。
そういえば、あの頃はメイクってしてなかったよなぁ。
高校生の終わりくらいから少しずつ自分に ”何かを足す” ことが当たり前になってしまった。今じゃあノーメイクで誰かに会うなんてとても出来ない。実際の見た目の問題より、気持ちの上で事前に整えている。そして、明らかに何かを ”足して” いる。
あの頃はそういう意味でも無防備で、見た目やおしゃれかどうかもそこまで重要ではなく、もちろん肩書でもなく、感性丸裸で向き合って、心に忠実にぶつかって行ってた。会いたいってなったら、1分で家を飛び出してた。
とはいえ忘れているだけで、きっとその年代なりのヒエラルキーはしっかりあったはず。でも、大事なのは、”今の自分が振り返るあの頃の自分に憧れる気持ちがある” ということ。
メイクをしっかりしているかどうか?という事実の違いを通して、どんな変化が見えたのだろう。脱ぎ捨てたいものは何だろう?得たもの、失ったものは何だろう?
子どものように無知だから
子どもという不自由さ が故に 心に忠実 だったあの頃。
大人という自由さ と引き替えに 心を後回し にしている今。
わたしが発展途上国に惹かれる理由は、その辺にある気がしているけど、ただの自己投影かもしれないとも思っている。それくらい無知だ。
無知なのは子どもの特権でもあったはずだから、子どものつもりでこれからもまだまだ学んでいこう。
そして、どこに居たって実現できるはずの、在りたい自分を思うままに描いてみよう。
☆とりあえず、ふたりともお帰り!自然体の楽しい雰囲気で過ごさせてもらっていたことが良く分かる。素敵なファミリーに心からありがとう!!
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