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上海でホームレスになった話の詳細【新潟で起業する以前の話】

今では新潟にUターンをして起業して、株式会社サンゾウを経営をしているのだけれど、ここに至るまでには多くのエピソードがある。今回はその中のひとつである上海でホームレスになった時の詳細を書いておこうと思う。

基本的に恥だと思ってる話。誰かの参考になれば良いけど、再現性も低く参考にもならない話だとも思っている。

貧乏話は自慢にもならないけど

この話は、貧乏自慢のように思わそうで、皆んなが皆んな楽しんで聞いてくれるとは限らないので、普段は積極的に誰かに話さない。自分自身としては、実体験であり、自分の身体や脳、そして心に完全に刻まれているような話なので、それ以上この話に求めることなどはないよね。

それでも、株式会社サンゾウを創業した事で、自分を説明する機会が多くなった。自分の人となりを知ってもらうためには、欠かせないエピソードのひとつであることは間違いなく、会社概要を説明しながら、僕のホームレスエピソードも入れ込む時がある。嘘偽りない事実でもあるので。

毎回全部を面白おかしく最高のテンションで語るのは難しい。そのため、いつものnoteと同じように、書き留めておく事で、今後新しく出会う方やメンバーに向けて詳細を知りたい人には知れるようにと思っている。

中国で生活する日々

僕の初めての海外生活は、中国の北京だった。それから数年後の2011年から、いわゆる現地採用として上海で働いており、3年ほど住んだ。お金はないけど日々充実しながら生活をしていた。

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当時お世話になっていた上海人女性社長。一緒に働くきっかけは、スカウトされたから。言い訳に聞こえるかもしれないけど、“上海人、女性、60歳ぐらい”中国に精通している方ならイメージしやすいと思うけど、パワフルだけど、良くも悪くもケチで、大胆でもあり、非生産的とも言えるような言動。例えば会議が4時間ぐらいになったり、社長の息子との関係性の間に挟まれたり。僕が辞めることで迷惑をかけるのは百も承知だったが、さすがに付き合いきれないなと感じていた。正確にはそれほどバリューは出しきれてなかったので迷惑をかけるというより心配させてしまうのは申し訳なく今でも感じている。

伝えることを伝えて僕は会社を後にした。

しかしながら僕が当時住んでいたのは、その社長の不動産の一つ。こう書くと上海の綺麗な物件を想像するかもしれないけれど、そうではない。リアル老房子で、社長の両親が住んでいた家。日当たりも悪く狭くて汚いイメージをしてもらったほうが良い。勘違いしないように書いておくと、そこがダメだったとか文句がいたいわけではない。ちなみに一人暮らしではなく50歳ぐらいの日本人のおじさんと一緒に住んでいた。

1ヶ月ほどのホームレース生活

会社も家も出て、すぐに上海を離れて日本に戻らなかったのか。少しの間だけ上海に残った。なぜなら、僕の人生で影響を受けた一人の諸戸さんとの約束があったからだ。

1ヶ月後にクルーズ株式会社の小渕さんの誕生日会をやるから参加しなよとその諸戸さんに誘っていただき、参加する約束をしていたからだった。

さらに、中国で転職をする時には離職証明が必要だと分かっていたので、日本で出直すしか無いとも分かっていた。それでも上海社長のもとを離れようと決めた上での行動だった。

上海を離れるチケット

1ヶ月後の誕生日会。とりあえず、新潟までのチケットを確保した。残りのお金は日本円で7万円ほどだった。住む場所は無くなった。3日後には鍵を変えられた。

鍵は変えられるだろうなと思っていたから、必要な荷物をキャリーバックに詰め込んで、知り合いの飲食店に置かせてもらった。

1ヶ月間、さあどうしようか

上海では外国人が泊まれるホテルとそうでないホテルがある。格安ホテルには泊まれない。5,000円だとすると10日もすればendだ。1,000ぐらいだっただろうか、スーパー銭湯へ。深夜2時には閉店。朝まで時間もある。

時間だけはある生活

そういう時に人はどうするのか。歩くのだ。ただただ歩く。10月。

遠くの公園を目指して歩いた。それでも午前4時半ぐらいには公園に着いてしまって。ベンチで寝る。

その時に気づく。物乞いがいない。昼間は上海の街には、物乞いがいるのに。僕はその時に理解した。そうか彼らはプロも物乞いなんだと。公園で寝てるホームレスなんて僕しかいないじゃないか。そもそも上海でリアルホームレスって誰か体験したことはあるのだろうか。

上海の公園から中国の田舎へ

上海ではホテルも高いから泊まれない。時間はある。しかもずっと公園にいるのも辛い。ピンチはチャンスと思い湖南省の鳳凰という街に行くことにした。思ったよりも観光地化していたけれど、毎日川を眺めながら生活費を抑えて生きた。

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近くに武陵源があった。絶景奇観の広がる観光地で、1992​年に世界自然遺産に登録された場所。映画『アバター』に出てくるハレルヤマウンテンのモデルになり有名になった。ここに行きたかったのだけれど、どうしても計算するとお金が無くなる可能性があり断念した。ただただ馬鹿な話なのだけれど、事実であり、悔しかった。ここへの訪問は絶対に叶えたいと思っている。

人生詰んだ

自分で決めてリスクをとって迷惑をかけてでも働いていた先を出て行ったのだ。それでも、人生詰んだと思った。泣けた。本当に人生が詰んだと何度も思った。チャレンジした結果がこれだった。現実を受け入れるしかなかった。未来を想像することも難しかった。

それでも1ヶ月後の誕生日会には元気に参加しようと思った。人間はやはりマイルストーンがあるとそこまで辿り着こうと思考が働くのかもしれない。MONKEY MAJIKのSAKURAを何度も何度もリピートして聴いていた。イントロがなるだけで、泣けた。悔しい思い、絶望する思い、なんの涙かも自分自身で理解さえできなかった。

誕生日会への参加

無事に誕生日会に参加させてもらった。久しぶりに人とちゃんと話した。1ヶ月の話もお土産話(?)的に話した。

ツインでベット空いてるから寝てもいいよと言われて、ホームレスがまさかのハイアットのベットで1日寝させてもらった。

日本に帰国するも...

帰国。実家に。今後どうしようか。今思えば、冷静に戦略的に考える余裕もなかった。中国生活の結果、スーツも持ってないし、買うお金も無い。就職活動で東京に行くにもお金もない。何なら新潟でバスに乗るのも躊躇うレベル。

とりあえずバイトしなきゃ、と思った。

ホームレスにまでなって地面に寝そべるってのはプライドが邪魔する。いやその時に、地面に寝そべることに抵抗感を自分自身感じて、僕はプライドがあるんだなと実感できた。でもそんなプライドはもう捨てた。今の状況を打破するためにはアクションするしかないのも理解できている。

白木からのメッセージ

上海で2年間ほどルームシェアをしていた白木。そもそも僕は、白木が上海で働くという話を聞いて、僕にも海外で働くことが出来るのかもと勘違いした結果、上海に飛び込んだのだ。白木は大学の先輩で、大学生の時から意識が高く、僕は一方的に意識していた。ある時白木に会ったら、上海で働く言うではないか。

上海で就職先を決めて渡航した後には、白木の優しさに甘えて、上海で白木が住んでいたアパートに住み始めた。ソファーを寝床にさせてもたった。その後は一緒に引っ越しをして住みながら日々刺激しあって高め合っていた。

言えなかった

白木には、会社を辞めた事も上海を離れる事も言えなかった。今まで3年間ずっと刺激しあってきたし、一方で迷惑もかけてきたから。

それでも上海を離れる直前には会って話した。その時には『お前そんなピンチだったら言えよー』と半分怒られた。でも僕はこれ以上は迷惑をかけたくなかったから。

そして最後の日には『また日本で力をためて戻ってくれば良いよ』とwechatの音声でメッセージをもらった。僕は空港で号泣した。そして僕の人生はまだ続く、絶対に上海に戻ってこようと決めた。

30歳で初めて派遣に登録をした

とにかくお金を稼がないといけないことだけははっきりと分かっていた。まとまったお金を貯めなければいけないから、短期といっても1日ではダメ。

1ヶ月ぐらいの派遣を探した。年末ということもあり、かまぼこ工場で働くことになった。慣れない派遣の仕組みや働き方。それでもアクションするしかなかったので、細かい事は考えないようにした。車もないので新潟駅で集まってタクシーに乗って向かう。勤務時間は一生懸命やった。スーパーおばちゃん的な人がたくさんいた。中卒の人もいた。そしてそこには、僕もいた。不思議な空間だった。事実を受け入れるしかなかった。

1ヶ月ほど経ち、お正月に手渡しで給料を受け取りに行った。10万円ちょっとぐらいだったかと思うが、再起のためのお金であり、貴重な体験で得たお金。絶対にこの体験も気持ちも忘れないようにしようと思った。

その後には、パチンコ工場で働いた。群馬まで朝6時ぐらいに新潟駅に集合。ラブワゴンみたいな車に乗せられて、工場まで向かった。着いた先にはブラジル人が7割、中国人2割、日本人1割ぐらい。1時間1回の休憩。いわゆるトヨタ式で、ネジの人はネジだけ。ベルトコンベアにパチンコ台が流れていく。時間を測る担当がいる。どこで遅れが出ているか計測している人。ヤクザ的な発注者もいる。各国の派遣者を集めているボスみたいな人たちもいた。

一生懸命やっていたら、オマエ良い感じだから、あそこの難しい工程やってと。ネジではなく、配線を埋め込む工程。指が擦れて痛いのだけれど、僕は、今頑張れなかったら一生頑張れない、今頑張れたら一生頑張れるかもしれないからと自分に言い聞かせて目の前の工程に集中して働いた。1ヶ月ぐらい、とにかく働ける日は群馬まで行って働いた。

派遣で働きながら次のステージを探す

ある日、東京まで面接に行った。営業ならできるしなーと応募したら、結果的には、地方の高齢者を騙すようなビジネスだった。もちろん入社する気はないのだけれど、結果は不合格....たぶん洗脳できないし使いづらいと思ったのだろう。僕もなぜそんな会社を受けたのか謎だけれど、とにかく再起するために就職しないといけないと必死でアクションすることだけを意識していた。そうでないと、めんどくさいし嫌になって引きこもりになってしまいそうな自分がいた。

新潟の転職エージェントにも登録してみた。希望は中国関連の企業。新潟の企業で中国に駐在できるような仕事があった。深圳の工場長みたいな仕事だった。工場の経験はないけど、役に立てるかもと思って応募。面接もしてくれると言う。

結果的には面接でお互い違うかもしれないですねということになった。価値観が違った。先方からすると、僕のようなキャリア形成は理解できないし信用できなかっただろう。

ちなみにこの時に起業する道はまったく想像できなかった。逆に言えば、今起業したのは、この後に多くの経験を積み重ねられたからだと言える。経験するということはそれだけ成長につながることだと理解できる。

ホームレスからの転職

六本木ヒルズで働くことになった。

ん!??そう思うかもしれないけど紛れもなく事実。

当時クルーズは中国進出を視野に入れていた。それを機に誘っていただいた。

これは僕のキャリアのターニングポイント、いや人生のターニングポイントだと言える。どん底の中のどん底にいた僕。九死に一生を得るかのごとくだった。

小渕さんと会食させてもらい、じゃあ3日後の来週月曜から来れる?と聞かれた。僕は東京に家もないし、上海の公園より東京の公園の方が良さそうだし、できない理由を探すのはやめようと思って、大丈夫ですと答えて東京で働くことになった。

月曜日に行くと人事の人には、規格外だからパソコンも用意できてないと言われ、本でも読んでなよとマーケティングの役員の方に言ってもらった。そんな初日だった。

結局スーツなんて、まったく必要なかったのだけれど、クルーズに入社した。いやクルーズに助けてもらった。生かされたのだ。小渕さん、諸戸さんには本当に今でも感謝している。若いからこそできたという言葉は、よく聞いてきた言葉ではあるければ、今回書いたこのエピソードもそうだなと思う。

今では家族をもつ身になった

僕はホームレスになったりの経験で、自分の人生のミニマムな金銭などを体感した。怖いものがなくなるようなもので、一般的な人よりは動じなくなったのかもしれない。

しかしながら、今では僕は一人ではない。妻も娘もいる。流石に僕もプライドとして家族を守り切りたいと思っている。一方で僕のことを理解してくれて応援してくれる妻には非常に感謝している。

夢の続き

前職のカプセルで、上海オフィスも作らせてもらった。上海メンバーは非常に心強くカプセル全体の売り上げも引き伸ばしてくれた。僕も夢の続きを見ているかのようだった。

サンゾウを創業したわけだけれど、上海のマーケットとは向き合っていく。僕とはもう切り離せない場所でも、これからも夢の続きがある場所だから。

人生を積み重ねると多くのエピソードがある

僕の人生の一部分を書いているため、これだけを読んでも不明確な部分もあるとは思う。興味があったら会う機会があればぜひお気軽に聞いてください。

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無料相談会実施します。ぜひ遊びに来てください。また、訪問は時間も取られるしなという方のために、こちらもオンラインでも可能にしてますのでお気軽にご相談ください。

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亀貝 康明(KAMEGAI YASUAKI)
株式会社サンゾウ 代表取締役

新潟で株式会社サンゾウを創業して、地方発ベンチャー企業として日々拡大中。元CAPSULE Inc.取締役。上海、台湾在住歴あり。中華圏やアジアを中心とした海外生活や海外ビジネスに関しても発信中。

Twitter→https://twitter.com/kamegai_sanzo

YouTubeもやってます。今後は新潟関連の動画も制作していくので、協力していただける企業を募集中です。


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