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【日常がつまらない方へ】詩エッセイ解決策(3)

この記事を読もう、と思っていただき、感謝してます。

この記事の文字数は、2900文字程度、となっています。

時間がない方もいるかもしれないので、この記事の大まかな内容を、載せておきますね↓

  1. 詩作品のタイトルは「木の葉のざわめきそれだけが今」

  2. 生きている。それは、奇跡。

  3. 木の葉の合間を風が駆け抜ける、ということは、多くの振動がそこにあり、いくつもの光が点滅している可能性がある。

  4. 詩を書く(行動する)のであれば、できたら幸せな状態で、書いた方がいいと思う。

  5. 日本に生きていれば、おもしろい日常にできる可能性はある。

細かな内容を知りたい、という方は、目次を活用してみてください。

「日常がつまらない」と思っているような方に、1つでも参考になる部分があれば、幸いだと思っています。

それでは、本編に、入っていきますね。


詩作品

「木の葉のざわめきそれだけが今」

遠くから
風がさらさら
やってきて
木の葉の合間
駆け抜けていく

ああこれが
生きていること
なんだろう
ただ風がそこ
ながれてるだけ

詩に関するエッセイ

生きている。

それは、奇跡である。

僕はよく、のほほんと平和に、周りから大切にされて生きてきた。

と、よく勘違いされている、と思う。

とんでもない。

絶望の底×無限の底から天国に舞い戻ったから、生きていることに喜びを覚えるのである。

幸せそうにしている僕の顔を見て、人は思う。

苦労なんて、今までしてきたことなさそうな顔だな、と。

詩解説

それでは、自分の詩を自分で解説する、という少し恥かもしれない見出しの中身に突入する。

さっそく、初めの自由律俳句から。

木の葉のざわめきそれだけが今

木の葉のざわめき、と言うのだから、聴覚に焦点を当てている。

そして、今という時にそれがある、と強調する。

ある意味、視界には木の葉一色で、ざわめきだけが聞こえる、というシンプルな詩である。

しかし、幸せとは、何気ない日常に存在する、と僕は考えている。

何気ない日常に幸せを感じられたら、どんなことにも幸せを感じられる力は増える、と思う。

それは、詩作の能力を高める上でも、大切なことかもしれない。


続いて、1つ目の短歌。

遠くから
風がさらさら
やってきて
木の葉の合間
駆け抜けていく

「遠くから」だから、遠い空間にも、主人公は意識を張り詰めている、と考えられる。

「風がさらさら」で、心地よい空気を想像できる、と思う。

「木の葉の合間駆け抜けていく」

これは、単純に読むと、気持ちいい言葉、となるかもしれない。

ただ、1つ追加で解説させてもらうと、木の葉の合間を風が駆け抜ける、ということは、多くの振動がそこにあり、いくつもの光が点滅している可能性がある。

僕は、自分の詩に対して、というおかしな言い方ではあるが、そう思っている。


最後に、2つ目の短歌。

ああこれが
生きていること
なんだろう
ただ風がそこ
ながれてるだけ

ただ風が、目の前を流れることに、感動する人はどれくらいいるのだろうか。

僕は、先ほどのエッセイでも少し述べたが、絶望の底をすでに味わった、と思っている。

絶望の底でも、生きていたら、人は意外と大丈夫だ。

すると、不思議なことだが、どんなことにも幸福感を覚えるのである。

そもそも、日本は、命に危害を加えられる、ということはほぼありえないし、幸せになるための家電やサブスク、外食店等色々あり、幸せを素直に感じやすい環境は整っている。

日常がつまらない、ということは、平和ということ。

それは、先人たちや今活躍している人等に守られている、ということ。

だから、あなたはすでに幸せだ、と僕は思っている。

問題は、幸せに気づけるかどうか。

そこだと思う。

詩から連想する詩論

今回の詩論のテーマは、「あたりまえ」として、話していく。

皆さんは、あたりまえを、どう思っていますか。

普段目の前にある日常。

普通の出来事。

家族と談笑すること。

いろいろあると思う。

詩、というのは、あたりまえの幸福を見逃さない眼力が必要である、とも言える。

なぜなら、あたりまえの幸せに気づけないなら、世界のすべてを愛せる、とは言えず、不幸な詩しか書けない、と思うからだ。

もちろん、不幸な詩で、人を救える、という可能性もある。

不幸な人の立場に立って、共感できる詩を、書ける可能性もある。

しかし、不幸の中から、幸せに向かっていく。それが人間であり、世界とは、そういうものである。

つまり、詩を書くのであれば、できたら幸せな状態で、書いた方がいいと思うよ、ということです。

そうすることによって、周りの世界も明るくなり、日常は少しワクワクしたものになる可能性もある、と思う。

問題は、普段自分が発する言葉。

あなたは、日頃「ありがとう」を、口癖にしていますか。

もし言っていないなら、ぜひ、少しでも感謝できることがあれば、「ありがとう」と言ってみてください。

僕は「ありがとう」を口癖にしていますが、そのおかげで、自分の周りにはありがたいことが多い、と思うことが多くなった、と思っています。

詩から得られる有益情報

この詩、というか、この記事で言いたいことは、たった1つかもしれない。

それは、あたりまえはあたりまえじゃなく、幸せそのものであり、日本にいるなら、そのことは容易に感じられやすい、ということである。

そうはいっても、日常はつまらないことだらけよ? と思う人もいるかもしれない。

たしかに、生きていれば、いろいろなイヤなことはある。

それは、おそらく、どの人もそう。

しかし、いいこともたくさんあるのである。

例えば、3つの事例を、紹介してみますね。

  1. 生きていたら、未来で何か行動を起こせる可能性があり、希望が消えることはない。

  2. 日本には、おいしい食べものや飲みものが豊富にある(だから、多少粗末に扱ったとしても、また確保できるからいいや、という安心感を用意されている)。

  3. どこに行っても自販機があり、どこにでも安全に行けるようなインフラが、日本には整っている(例えば、使ったことはないので恐縮ではあるが、「青春18きっぷ」というものすらある)。

他にも挙げようと思えば、おそらく最低100個くらいある気がするが、時間の都合上、やめておく。

だから、日常がつまらないのではない、と思う。

日常のおもしろさに目を向けたり、適切な考え方を先人から学んだりすれば、日常はおもしろくなる、と思う。

例えば、良書を読んでみれば、普段自分が注意を向けないよいことに注意が向く。そうなると、よいものが脳内に入るので、幸せになる、という考え方もある。

あるいは、適切な考え方を適切に理解することによって、イヤなことがあっても、少しは苦痛を緩和できる可能性もある。

もし、ここまで読んでみて、やっぱり日常はつまらないさ、となる人は、多少いるかもしれない。

そういう人は、そのままでいい、と思う。

ただ、僕が言いたいことは、何気ない日常が幸せに感じられる。

それこそが幸せであり、幸せはいつも、目の前から見つけられる、ということです。



ここまで、記事を読んでくれた皆さま、ご苦労様です(笑)。

そして、ほんとうに、ありがとうございました。

それでは、また機会があれば、お会いしましょう。



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