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不適切にもほどがある。

大好きになったドラマが、最終回を迎えた。
『不適切にもほどがある』

タイトルにまず興味がそそられたし、
私の大好きな吉田羊さんが出ているし、
クドカン脚本で期待値高いし、
初回から見ることに決めていたドラマだった。

案の定、
掴みはバッチリであの世界観に引き込まれた。
阿部サダヲが、好きになった。

そして金曜日の夜を楽しみに、日々を過ごした。
そんなドラマが、2日前に終わった。悲しい。
だから、色々と自分なりにあのドラマを考察し、解釈しようと試みていた。
ようやくまとまってきたからnoteに書いてみる。

このドラマを見ていて私が1番「これは大事」と思った要素は、お互いに時代を行き来している人がいる、ということだった。
しかも、ゴリゴリの昭和に生きる体育教師"地獄の小川"は令和へとタイムスリップした後、コンプラ至上主義の令和のテレビ局に行きメンタルヘルス部で働いている。
さらに、ジェンダー論ど真ん中を令和で唱え戦っていた"向坂サカエ"は自らの意思で昭和へとタイムスリップをする。そして、コンプラなんて関係ない世界の象徴でもある昭和の、教育現場や教育者に触れて感化されていく。
そんでもって最後に、2人が自分の住む世界へと戻って生活し始めたところで「寛容になりましょう」を連呼するデュエットソングを軽快なダンスとともに歌い上げる。

この一連の流れ。

これこそ『不適切にもほどがある』の主軸となるテーマだったんじゃないか、と私は思っている。

たしかに自分の最期を知った小川市郎と、楽しい未来が待ってることを信じて疑わない純子との親子関係の描き方もよかった。
この親子を取り巻く人間の葛藤から「生と死の捉え方」みたいなものを考えさせられた。
「過去はどうやっても変わらない」ってこととか、重要なメッセージはたくさんあるように思う。

でも、『不適切にもほどがある』というタイトルたらしめる理由は、最後の「かんよ〜うになりましょうっ♬」に込められているような気がした。
それがなんなのか、上手く言語化するのは難しいけれど。

昭和がすべて悪いわけでもなく、
令和での正義がぜんぶ正しいわけでもない。
人それぞれに、それぞれの立場や意思がある。
自分のことを大切に、自己主張をしながら、他人の自己主張も受け止めようよ。
そんなあったかいメッセージを私は受け取った。

何度反芻しても、あれはよかったなぁと思うドラマだった。ただ、こうやって考察を述べていて、ふと思うことがひとつ。
「平成はどこへいった?」

きっと、これは私たち同年代が感じている思いのような気がする。
最近のテレビは「昭和」と「令和」ばかりで、「平成」を蔑ろにしている。
今の時代を築いてくれたのは「昭和」だし、これから新しい時代を創っていくのは「令和」だけどさ。
「平成」は出来上がった社会の中で、よりよくしようと今、まさに奮闘中なんですよ!ということは主張しておきたい。

勝手に名付けられた「ゆとり」の看板は邪魔だったけど、考えようによっては「ゆとりのある人材」代表になれるかもしれない。
"ゆとり"がなければ、人生はつまらない。

自分たちが育てた世代なんだから、「平成」にも敬意を払って欲しい。

あ、クドカンは『ゆとりですがなにか』の脚本をしているんだっけ。すでに「平成世代」の救済はしてくれていたわけか。ありがたい。

『不適切にもほどがある』は本当に良いドラマだったから、「平成へのタイムスリップ」なんかも追加して、続編かスペシャルドラマをつくってくれないかな〜。
かわいい純子をまだ見ていたい🥺

そんな妄想を膨らませながら、明日も生きていくことにしよう。