“設計とは誰がためにあるのか”|小川哲『地図と拳』感想
小川哲のデビュー作『ユートロニカのこちら側』(現ハヤカワ文庫JA)は、聴覚や視覚など個人の生活情報を企業に売り、その報酬で豊かな暮らしを送ることができるというアガスティアリゾートと呼ばれる実験区を舞台にした連作短篇のSF小説である。徹底したユートピアの先にあるものがディストピアとするならば、2015年当時に刊行された本作は最高のディストピア小説であった。
2015年に発売された当時、集団的自衛権の行使を可能とした安全保障関連法案が衆議院本会議で強行採決(参議院本会議で可決)、安倍晋三首相(当時)の無投票の三選などもあり、「民主主義とは?」が叫ばれるようになっていた。また故伊藤計劃原作の劇場アニメ『ハーモニー』が公開され、『虐殺器官』のアニメも公開予定となっていて、2015年はSFファンだけのディストピアという言葉が現実とシンクロしはじめた頃だったこともあり、本作は同時代性を帯びた作品となっていた。
『ユートロニカのこちら側』が文庫化された2017年には小川哲二冊目の単行本が発売になった。日本SF大賞と山本周五郎賞を受賞した『ゲームの王国(上・下)』(現ハヤカワ文庫JA)である。
クーデターによってカンボジアを手にしたポル・ポトが思い描いたカンボジアは、知識階級を排除し農村という共同体による原始共産主義の理想郷を目指した。結果、当時のカンボジアの人口の1/4にあたる約200万人を虐殺。それはまさにディストピアそのものであった。そんなカンボジアを小川哲はSFとして描いた。あの凄惨な世界を、ときにギャグをぶっこむ大胆さで。この作家は天才だと確信した。
2019年には短編集『嘘と正典』(現ハヤカワ文庫JA)で第162回直木賞候補になるなど、名実ともに注目の作家となっていた小川哲待望の最新刊が『地図と拳』(集英社)である。文芸雑誌『小説すばる』で連載4年、1年の休載を挟み刊行された本作は「満洲」を“主人公”に、日露戦争前夜から太平洋戦争後までの長きにわたる「日本の戦争」を描いた歴史小説である。
本作が特異なのは歴史小説での架空性にある。舞台は満洲であるものの、その舞台となる都市〈李家鎮のちに仙桃城〉は歴史上かの地には実在していない架空の都市である。ちいさな集落から始まり、中国人、ロシア人、そして日本人と主を変えていくこの架空都市の物語は、三者の思惑がときに重なり、ときに憎しみあいながら時代のうねりのなかで発展変化していく様を読者は定点で見つめ続ける。
そこには歴史上実在した人物である関東軍の石原莞爾や甘粕正彦、毛沢東や張学良、蒋介石、はたまた川島芳子といったこの時代を描くにあたって登場させたい誘惑に駆られる人物が目白押しなのだが、それらの登場は意識的に排除している。結果、架空の人物だけで物語を構築することで、満洲の複雑怪奇な模様を浮き彫りにしているのである。
タイトルの『地図と拳』の「地図」とは“国家”を示す。
国家が形となって視覚化されるのは地図だけなのである。戦前の大陸はロシア、日本だけでなく、ドイツや英国など列強によって軽々とカットされるケーキのように列強が侵出していた。国家はそれぞれの思惑で地図を描き、ときにそれは実際の土地と人間の思いを無視し「拳」が意味するところの“暴力”によって現状を変更する。そこで描かれた地図は国家の意志として“支配”の意味を持つのである。
そして本書のもうひとつの大きなテーマでもある“建築”も地図を表す。
“誰がために設計するのか?”。その意味するところは国家の描く地図とは対極にあり、建築の意味するところがこの時代への痛烈なアンチテーゼとなっているのである。
また、本作では憎悪を向けられる日本人が描かれる。この時代の大陸を描いた物語では読者はどこか居心地の悪さを感じながらも、日本人にとってはこの自国の戦争小説の“業”から避けることはできない。しかしそこで小川哲は意図的に極端な人物の思想を描くことで「優しい日本人」と「悪い日本人」を同居させた。貧しき人々を憂い、それを改善できないのは支配者である日本人の我々が非力だからというねじれた思想。『ユートロニカのこちら側』『ゲームの王国』でも見られたこのユートピアの先にあるディストピアの表裏の欠片は、それまでの“どこか”にあった居心地の悪さはから“収まりのいい”居心地の悪さとなった。これは日本の戦争小説としての発明ではないだろうか。
そしてSF作家小川哲の歴史小説としての仕掛けも見逃せない。
建築が専門である主人公・須野明男の父が所属し、物語のキーとなる細川を筆頭とする「戦争構造学研究所」である。将来の様々な選択肢を検討し10年後の未来を予測することを目的として設立された、今でいうシンクタンクである。未来予測という、現在から枝分かれする様々な選択肢からナラティブを作り上げるこの研究所の登場は、まさにSFの意味であり、過去を描く歴史小説に「SF」を内包した仕掛けには唸るしかない。
小川哲は『ユートロニカのこちら側』『ゲームの王国』から一貫して「都市や国家」をテーマにしてきたように思う。そして理想からこぼれ落ちた澱にいつか足をすくわれる盛衰に魅力を感じているのかもしれない。
そういう意味で、著者が満洲という刹那的な国家を題材にしたことは必然であっただろうと思うのである。
最後に。
小川作品はSFのほかにもうひとつの読みどころである“ギャク”を見逃してはいけない。
中でも強烈なインパクトを残したのは『ゲームの王国』で共産主義者のスウ・フオンがカンボジアの遊郭で事に及ぶくだりである。
フオンは娼婦を前にして「自分が娼婦であることに対する自己批判」をさせようとしたり、事に及んでは
と描写し、事が終わるとフオンは退廃したブルジョワ主義の打倒と、真のプロレタリア革命の重要性を娼婦に説き始めるのである。
『地図と拳』でも、楊日綱の神拳会の修行など、“真顔のままギャグを放つセンス”は個人的にツボである。最近ではアンソロジー『異常論文』(樋口恭介・編/ハヤカワ文庫JA)における小川哲の「SF作家の倒し方」は久々に活字を読んで声出して爆笑してしまったほど。ぜひ小川哲作品の「ギャグ」にも注目してほしい。
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