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MASA 第1話 滝川健(たきがわけん)

あらすじ
 中学二年生の健は最近妹の康葉の様子がおかしいことに気がつき、意を決して後をつけてとんでもないものを見つける。それは空中に浮かぶ大きな首、平安時代に新皇と恐れられた武将平将門の首だった。
 同級生の大和に相談し、復活のために生命力を吸われているであろう康葉たちのために首退治を決意する。途中でスポーツ万能で外見の良い同級生の佳亜も加わる。
 一回は失敗するが、対策を練り体制を立て直して再度挑み、康葉たちの妨害にあいながらもにわか知恵と中学生の勇気と機転とチームワークで首に勝利する三人。
 普段の生活を取り戻すが、三人の心は次の冒険を求めているのだった。

 プロローグ

 世界は暗く、混沌としていた。何もわからない。けれど、何もわからないことがわかる、ということはわかった。
 そうして、そのことによって、それまでが完全な〝無〟だったことにも気がついた。そう、世界は無限の無。どこまでいっても黒く、どこまでいっても白い。その中にはすべてがあり、その中には何もない。
 だが今、彼は世界を〝暗い〟と感じることができた。
 意識がぼやけ、周囲がはっきりしない。彼は、体を動かそうとしてみた。彼の意識は、かつてそれができたことを覚えていた。しかしいくら欲しても、体は思うように動かなかった。
 彼は、かつての体がないことを知った。

 永い時間が流れた。彼はじっと、そこでそのまま、ただ在り続けた。
 彼は考えた。なぜ、意識は目覚めたのか。
 やがて彼は、かすかに闇が揺れるのを感じた。闇の向こうの端が揺らぎ、そこにかすかな、ぼやけた〝光〟が現われた。そこから、ざわざわとした〝音〟も聞こえた。
 突然現われた光と音の刺激に、彼は驚き、戸惑った。しかし乱されはしなかった。そしてそれを〝懐かしい〟と感じ、そういう感情を思い出した。


第一章 滝川健(たきがわけん)

 今、視界の端を掠めた後ろ姿は、もしかして妹の康葉(やすは)じゃないだろうか。
 健はそちらを向いた。田んぼの中ののどかな田舎道が、向こうへと続いている。そこをちょこちょこと遠ざかっていく小さな後ろ頭が見えた。左右に分けて束ねた髪が、ふぁさふぁさと揺れている。
「何やってんだ、あいつ。あんなとこで……」
 むっとする草いきれの中に立っていると、すぐに体がじっとりと汗ばんでくる季節。一年の中で一番、太陽と顔を合わせる時間が長いとき。といっても、こうして中学二年生の健が部活を終えて帰ってくる時間になると、さすがに辺りはもう薄暗い。薄墨を纏(まと)ったように、視界がはっきりとしない。
 健は迷った。声をかけようか、やめとこうか。迷っているのには、理由があった。康葉が向かっていく先には、あれがあるのだ。
 そのとき、そばの横道から、誰かが駆けてくるのが見えた。泰葉と同い年くらいの女の子で、胸にレジ袋を抱えている。康葉もその子に気がついたらしく、手を振っている。二人とも、遠くから健が見ているのには気がついていないらしく、二人で合流すると、そのまま向こうに行ってしまった。

 二人の姿が見えなくなっても、健はしばらくそこに立っていた。
どうしよう。追っていこうか。
 辺りを包む夕闇は、あっという間にその密度を増している。白っぽく浮かんでいるように見えた田舎道も、黒い影の中に埋まろうとしていた。重く湿気を含んだ風がざわざわと草木を揺らし、髪をかき上げながら吹き過ぎていった。
「……もうすぐ夜だし、すぐに帰ってくるだろ」
 自分に言い聞かせるようにそう言うと、健は再び足を家のほうに向けた。

家には誰もいなかった。まだ両親とも仕事から帰っていないのだろう。風呂場に行って追い炊きのスイッチを入れてから、キッチンに行って、冷蔵庫の中に総菜とサラダがあるのを確かめる。それから棚にあったクラッカーの箱から一枚取ってかじりながら、リビングに行ってテレビをつけた。
 途端に、自分のたてる音以外に物音一つしなかった家の中に、騒々しい声が満ちる。しばらくの間、スマホをチェックしつつぼうっとテレビを見てから、お風呂に入った。出てきても、まだ康葉は帰っていなかった。
 時計を見ると、もう二十時近かった。外はもう真っ暗だ。田舎のことで外灯の数もあまり多くない。夜になると、外では家々の窓から洩れる明かりだけが頼りになる。
 階段を上って自分の部屋に入ると、「あーあ。疲れたー」とわざと声を出しながら、ベッドに横になった。
 それからそばの漫画に手を伸ばした。仰向けになってページを繰っていたが、内容が頭に入ってこない。なんだか落ち着かなかった。

 ここⅠ県I市は、広大な関東平野の北の端にある。健に言わせれば、東北地方関東支部ということになるのだが。遠くには霞んだ山並みを望み、家や学校の周囲には、畑と田んぼが広がっている。
 そしてその中に、ところどころ、お椀をひっくり返したような小さな里山がある。そういうところは滅多に人が足を踏み入れることもないので、木や草が伸び放題に生い繁っている。
 そしてそういう小山の中には大抵、いつ誰が何のために作ったのかよくわからない道がある。そういう道は一歩足を踏み入れると、暗い。両側から差し伸べられた木々の枝が、空を隠してしまうのだ。
 そのまま回れ右をして帰りたくなる気持ちを抑えて、やわらかい土の上を一歩一歩踏みしめて歩くと、どこからか、何の生き物かわからない、クアアッという鳴き声が聞こえてくる。一声それが聞こえると、もうダメだ。ギャー、グエッグエッ、ゲゲゲゲ。いろいろな鳴き声が一斉に聞こえてくる。暗い森の中に、一人佇む子供を包み込むかのように。そうなると、今までの我慢もどこへやら、ほとんどの子は一目散に逃げ出してしまう。
それはこの辺の小学生なら誰でも経験している、秘密の冒険だった。
 だけど中学生にもなると、そういうことにもう興味と魅力をなくしてしまう。背の伸びた彼らにとって、結局、小山はただの小山なのだ。
さっき康葉が向かって行った先にも、そういう小山の一つがある。それもあそこにあるそれは特別だった。他の小山は、最終的に健は大体制覇したが、あそこだけは駄目だった。
「康葉のやつ、まさかあそこに行ったんじゃないだろうな……」
もう一回時計を見ると、二十時十八分だった。二十時半になったら考えようと思って、健は漫画に目を戻した。

「わあああああ」
 どさり、と音を立ててベッドから落ちた。夢の中で、すごく高いとこから落ちていった気がする。
「いたたた……」腰をさすりながら起き上がった。
 何かの音を聞いたような気がした。それで目を覚ましたのだ。健は耳を澄ました。階段を上がってくる、とんとんとんという音。続いて、ドアの閉まるばたんという音。
 康葉だ。
「あいつ、こんな遅く帰ってきてスルーかよ」
 健は廊下に出ると、わざとどすどすと音を立ててトイレに行った。妹が無事に帰ってきてほっとしているのだが、それを言うのは癪に障った。
ただ音を立てただけでは不自然なので、仕方なく本当にトイレに入ってから出てくると、思わず声を上げそうになった。暗がりの中に、康葉が立っている。
「何……」
 言いかけて途中で止まる。康葉の顔は、能面を貼り付けたみたいに無表情だった。妹にこんな顔ができたのか、と思った。それから、無言のまますっと自分の部屋に入ってしまった。
 閉じられた妹の部屋のドアを見ながら、健は、鼓動が胸を激しく叩くのを感じた。
 康葉の頬には、うっすらと泥がついていた。

 彼は、光と音の刺激物を目指した。かつてのように手や足で動けるわけではなかったが、己が闇の中を移動できるのがわかった。
 光と音は気持ちが良かった。彼はそれを喜んだ。喜ぶことは、彼の意識をどんどん明確にしてくれるようだった。 
 やがて彼は、自分がひどく不快であることに気がついた。その感覚は体の奥底から込み上げてきて、彼を苛(さいな)んだ。
 それは〝飢え〟だった。彼は、その感覚に覚えがあった。だから、それを満たすことができることも知っていた。彼はそれを欲した。強力に欲した。
 
 同じようなことが、二、三度続いた。
 辺りが、夕暮れの残滓(ざんし)の紫と、夜の始まりの薄い青の混じり合った色に包まれる頃、部活を終えた健が空きっ腹を抱えて家路を急いでいると、前と同じところで、小山のほうへちょこちょこ駆けていく康葉ともう一人の女の子を見かける。
 健は、そんな日はなんとなく、帰ってきた康葉と顔を合わせる気がしなかった。だけどそれ以外は別におかしなところはなく、いたって妹は普通だった。
 きっとあの辺りで、何か新しい遊びでも見つけたのだろう。あのときの康葉のおかしな様子については、強いて考えないようにした。
 
 その日はたまたま、早く帰れることになった。先生が風邪を引いて休み、サッカー部の部活が休みになったのだ。
 家に着いたのは、いつもより大分早い時間だった。ゲームでもしようかな、と思いながら玄関を開けると、息が止まるほど驚いた。康葉がいた。妹からも、息を呑む気配が伝わってきた。
「……なんで、こんな早いの」 
「……何だっていいだろ」
「あ、そう。何だっていいけど」
「おまえこそ、どこ行くんだよ」
と言った後、健は康葉の持っているレジ袋に気がついた。健の視線に気づいて、体をずらして隠すようにする。
「どこだっていいでしょ」
 そういうと、横をすり抜けて出て行ってしまった。
「ははーん」
 健はにやりとした。そうかそうか、そうだったのか。いくら康葉が隠しても、上からのぞくことのできる健の目には、袋の中身が見えてしまった。中には、おにぎりやサンドイッチ、惣菜のパックやトマトまで入っていた。小学四年生の女の子が遊びに持っていくにしては、不自然だ。
健はピーンときた。と同時にほっとした。ここしばらくずっと、胸につっかえていた何かが取れたようだった。

夕飯の後、二階に上がってきた康葉を捕まえて健は言った。
「おまえ、犬かなんか飼ってるだろ」
 健の指摘に、妹はあからさまに動揺した。
「か、飼ってないよ」
 言いながらもぞもぞ体を動かしている。わかりやすい。
「嘘つけ」
「ほんとだもん。犬なんか、飼ってない」
「じゃあ、あの食べものは何だよ」
「早苗ちゃんちで食べたのっ。ほんとっ」
と一息に言うなり、自分の部屋に逃げ込んでしまった。その様子を見て、健は野良犬説に自信を持った。多分、あの小山の辺りにいるんだろう。それを友達と見つけて、こっそり餌を持っていっているのに違いない。
 健は康葉の部屋の前でこっそり様子を窺った。ぼそぼそと話し声が聞こえる。どうやら、携帯で誰かと話しているらしい。
「うん……うん……MASAくん、美味しいって言ってくれたね……。うん……良かったね。……最近、おっきくなってきたよね……」
MASAくん? もっとよく聞こうとして、耳を強くドアに押しつけたそのとき、階下から母親の声がした。
「健、お風呂入ったー?」
 ぎくっ。
 心臓が喉までせり上がり、飛び出そうになるほど驚いた。康葉の声が止まった。しまった。
 健はなんとか自分の部屋の前まで戻り、そーっとドアを開けてもぐりこんだ。康葉が廊下に出てこないよう、祈りながら。
「健ー?」
 部屋の中から「まだー。今、入るからー」と大声で言った。当然康葉も、健の声を自分の部屋から聞いているはずなのだ。気づいていませんように……。
 しばらく耳を済ませていたが、何の物音もしなかった。
 風呂の支度をしてから階段を降りるとき、康葉の部屋をちらりと見ると、ドアはぴったりと閉まっていた。もう、中で話している声も聞こえない。胸を撫で下ろすと同時に、いつにない妹の用心深さを感じて、不安を覚えた。

康葉がだんだん痩せていく。
 健はそれとなく妹の様子を観察していたが、特に変わった様子は見られない。健に見られていたことを知ったためか、もう小山の辺りで見かけることもなくなった。多分、もっと早い時間に行っているのだろう。
 何もおかしな様子はない。なのに、痩せていっている。ただ痩せていくというだけなら、まだいい。だけど、痩せるというより「やつれていく」ように、健には思えるのだ。頬が落ち込み、顔色が悪い。親といるときは、笑顔と元気なおしゃべりでごまかしているけど。
 やっぱりおかしい。たまらず、健はまた問い正した。
「おまえ、やっぱ犬飼ってんだろ、こっそり」
飼ってないよ! と、少し怒ったような声で言い返してくる。という健の予想に反して、康葉は黙ったままだった。ますます不安が募った。
「犬じゃなきゃ、猫?」
「猫じゃない……」
「どっちだって、そのままにはできないだろ。犬じゃなくて猫じゃなくて何だか知らないけど、生き物なんだろ? それで、成長してきてるんだろ?」
「……あ、宿題、まだやってなかった」
とわざとらしい口調で言うと、康葉は体を翻して行ってしまった。
 結局よくわからなかった。だけど、ちゃんと話ができたことにほっとした。
それにしても、犬でも猫でもないその生き物って何だろう。康葉はMASAくんと呼んでいた。MASAくんの食べ物は、康葉と友達の二人で、一体どうやって賄っているんだろう。
 健は、足を組んで机の上に投げ出した。その角度に合わせて椅子を斜めに傾ける。椅子の一本足を軸にして、上半身と下半身でVの字を作り、ゆらゆら揺らしてバランスを取る。この姿勢は落ち着いた。
 机の上には白紙のプリントが置いてある。社会の宿題で、「街の郷土史に関するもの」というテーマでレポートを出さなければいけないのだが、やる気が起きない。
「面倒くさいもの、気軽に出してくれるよ……」 
 I市の歴史は古い。広がる湿地と豊かな地味とで、遥か昔の時代から、近隣の中心として栄えてきた土地だった。歴史の教科書に載っているような有名人も輩出していて、町のいたるところに、神社や寺やよくわからない史跡がある。だから探せば、「郷土史に関するもの」なんてすぐに見つかる。なのでぎりぎりにやればいいやと思い、レポート用紙は美しいままなのだった。
 頭の中は、すぐに康葉に向いた。
 第一、お金だ。餌代をどうしているんだろう。
『美味しい』
 そう言っていた。何か引っかかる。何を「美味しい」と言っているのだろう。
『大きくなっている』
 美味しいものを食べて、MASAくんは大きくなっている。胸の中がざわざわする。
「あの痩せ方は、普通じゃない」健は呟いた。
 そう。犬だか何だかを飼って、どうしてあんな風に痩せていくのか。自分の食事を分けている様子はない。
 足元から寒気が立ち昇ってきた。何を怖がっているんだろう、自分は。

自分の部屋に戻って後ろ手にドアを閉めると、ようやく表情を崩すことができた。兄の前では見せられない笑いが込み上げてくる。
くっくっくっ。
 康葉は声を押し殺して笑った。しゃがれた声だった。

もっと喰いたい。もっと、もっと。
 それらは、彼の欲するままに、彼の飢えを満たすものを持ってきてくれた。彼はそれを喰った。喰うのは素晴らしいことだった。喰うほどに、彼は自分が〝強く〟〝大きく〟なるのを感じた。 
 きっかけは、それらが、彼の要求を満たすほど喰うものを持ってこなかったことだった。彼は腹を立てた。怒り、暴れた。あんまりお腹が空いたので、それら自身に喰らいついてしまった。するとそれらの体は、それらが今まで持ってきたどんな喰いものよりも、美味かった。 
 もっと喰いたい。もっと、もっと。

 たったの数日で、陽は一段と長くなった。健が部活を終えて帰る頃でも、まだ辺りは明るい。
 健はまた二人を見かけた。今日は、MASAくんのところへ行ってきた帰りなのか、いつもとは反対に向こうから歩いてきた。
 康葉のほうも健に気づいたようで、手を振る。健もを上げて応じた。だが二人が近づくにつれ、健はぎょっとした。
 康葉の隣にいる早苗が、ひどく痩せている。康葉よりずっとひどい。普通の小学生に考えられる痩せ方ではなかった。頬がこけ、頬骨がくっきりと出ている。大きな目は落ち窪み、周りが黒ずんでいる。唇は青紫で、変に歪んで見えた。
 生気……そう、生気がない。 
「こんにちは」と、早苗が言った。
「あ、こ、こんにちは……」
 健は気圧(けお)されていた。小学生の女の子に見つめられ、びくびくしている。部活と湿気でかいた汗が冷えていく。
 健は、「じゃ、……あんま遅くなんないようにな」と言うと、二人に背を向けた。駆け出しそうになる足を押さえて、わざとゆっくり歩いた。
 歩いている間中、二人の視線が背中に注がれているのを感じた。緊張して背筋が伸びる。駆け出したらだめだ、と思った。
 二人の視線が届かないところまでくると、ようやく息をつくことができた。振り向く勇気はなかった。

一念発起した。あそこに行ってみよう。あそこに、あの小山に。
あれは尋常じゃない。あの二人の痩せ方は。表情、仕草、雰囲気、健を見上げる目は。
 MASAくんとは何なのか、康葉と佳苗があそこで何をしているのか、突き止めよう。

 翌日。健は部活を休み、例の小山への道を歩いていた。
 陽はまだ高く、すっきり晴れている。周りには、畑が広がっている7。首を巡らすと、遥か空の下には、遠く霞んだ山々の影が見える。
 山はそこにあった。幼い頃の記憶のままに、黒々とした威容を見せて健の前に聳(そび)えていた。
 ごくり、と音を立てて唾を飲み込んだ。その音がやけにはっきり聞こえて、思わず辺りを見回した。
 誰かがいるような気がしたのだ。でも誰もいない。
 木々が両側から梢を差し伸べ、入り口を作っている。意を決して、健は足を踏み出した。
 道は薄暗く、視界が慣れるまでに時間がかかった。外から見た以上に、中は光が入ってこないのだ。緩やかな上りとなっている道は、ときどき木の根がぼこんと突き出ていて、気をつけないと足を取られる。頭上では、幾重にも覆っている枝葉が、下を行くものから光を奪ってしまう。
 ホウ、ホウ。チィーチチチチ。どこからか、何かの声が聞こえてくる。 
 健は肩に食い込むカバンの太い紐を、しっかりと手で抑えた。その重みに頼るように。 
 すでに中に入って二十分は経っているように感じたが、今だそれらしいものは見当たらなかった。もっとも、それらしいものといっても、それが何なのかはわからないのだが。
 道なりに、奥へ奥へと進んでいく。周囲はどんどん鬱蒼としてきて、道の両側がせり上がるようになっていく。そこを歩いていると、まるで自分が山の割れ目に落ちてしまったかのような気分になる。
 山の秘密を覗いてしまったみたいで、いよいよ本気で引き返したくなる頃、それは姿を現す。
 それは大きな横穴だった。土壁に突然現れ、高さは大人の背よりやや高いくらい、幅は学校の廊下ほどだろうか。人が何人か入っていける大きさだ。穴を覗き込んでも、暗い。この穴があるゆえに、この山は特別なのだった。
 何の穴なのかについて、子どもたちの間でいろいろな憶測がとんだ。ただの抜け道だとか、実はこの奥は別世界に通じているとか。やがて「これは戦争中に掘られた防空壕だ」という説が有力になった。健も、きっとそれが正解だろうと思った。けれどそう思っても、この穴に近づく気にはなれなかった。

その前に立った。心臓が早鐘を打っている。いつの間にか生き物たちの声は消え、聞こえるのは自分の息と、胸の中でダクダクいっている心臓の音だけになった。
 健は穴の奥を見つめた。暗い。全身全霊を鼓舞し、その中へ足を踏み入れた。

闇だった。右も左も上も下も前も後も、どっちを向いても闇が広がっている。 
「懐中電灯、持ってくればよかった……」
 闇の中をどのくらい歩いたか。時計がないのでわからないが、あの横穴をずっと歩いているのなら、もう小山を突き出てしまっているのではないだろうか。それくらいの距離は歩いているはず。なのに、出口はちっとも見えてこない。
 自分は、一体どこを歩いているんだろう。
 天井から冷たいものが落ちてきて、背中を滑り落ちていった気がした。
「引き返そうかな……」
 健は後ろを振り向いた。たった今自分が歩いてきたばかりのところが、もう闇に呑まれていて見えない。
「見るんじゃなかった……」
 どうやら、何かを見つけるまでは、帰れないことになっているらしい。
ゴウウウウという、風の唸りとも何かの息遣いともわからない低い音が、行く手から聞こえた。ぞくりとした。それは禍々しかった。
「えーいっ」
 音の瘴気を振り払うように、頭をブンブン振った。何かが聞こえるということは、何かがあるということだ。
 目標ができたのを無理やり喜んで、足を進めた。前方の闇の中にぼんやりとした光が見えた。音はそこから聞こえる。足を速めた。光はだんだん大きくなっていく。 
 すると、光の中から白い霧のようなものが出てきた。霧は、黒一色だった世界を白くぼやかしながら、這うように進んでくる。
「うわわっ」
 慌てて足をバタつかせた。まるで、白い無数の蜘蛛の子が這い登ってくるような気がした。
 足下の霧を払いながら、ついに光の中へ足を踏み入れた。

そこはまるで、地下に作った巨大なドーム空間のようだった。光源がないにも関わらず、なぜかぼんやりとした光に包まれている。 
 ゴウウウウと不気味な音を立てるものの正体が、そこにあった。
 首だ。大きな首が浮いている。体はない。
 首は生々しかった。控え目にみても健の顔の三倍ほどの大きさのあるその首は、赤黒く、顔中に深い皺が刻まれている。髪と髭はぼうぼうに伸びていて、長い眉の下の瞼は、閉じていた。
にも関わらず、そこから激しい思念の波が押し寄せてくるようだった。
 首からは、何かとてつもないパワーが発せられていた。

 その声が首を呼び覚ましたかのように、瞼がゆっくりと開き出した。首から発せられるパワーがぐんと増したのがわかった。
「うわああああああっ」

 どこをどう走ったのか、わからない。気がついたら自分の部屋にいた。はっと外を見ると、すでに真っ暗だった。
 無事に帰ってきたんだという実感でどっと力が抜けた。そのまま布団の上に倒れこんだ。

第2話 大和田大和(おおわだやまと)
第3話 宗籐佳亜(そうとうよしあ)
第4話 決戦
第5話 エピローグ

#創作大賞2023 #ミステリー小説部門


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