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MASA 第3話 宗籐佳亜(そうとうよしあ)

第三章 宗籐佳亜(そうとうよしあ)

 夜遅くまで、雨滴が窓ガラスを叩くばらばらという音がしていた。朝になって雨は止んでいたが、空気の中に充満している湿気が、じっとりと肌にまとわりつく。上空には薄墨色の雲が、遥か遠くの山々の向こうまで続いている。
 すっきりしない天気だった。足元の地面は、昨日の雨でところどころぬかるんでいる。なるべく乾いていそうなところを選んで、健は足を運んだ。 
 小山が見えてきた。大和がすでに先に来ている。だが健の目は、その隣にいる人物に釘つけになった。
「何であいつがいるんだ?」
 その声が聞こえたかのように、そいつが大きな声で叫んだ。
「おーーい、健! 遅いぞーー。早く来いよー」
 健が二人のところまで来ると、何か言おうとして口を開いたのを制して、「遅いよ、健! 俺たち、けっこう待ったぜ」とそいつは言った。
「な……」
「それにしても、雨が降るんだか降らないんだか、わかんないな。あ、いいの持ってるじゃん」
 と言うと素早く手を伸ばして、健の腰のエアガンを取った。
「あ、それいいだろ……じゃなくって! 何でおまえがここにいるの!?」

 大和の横で笑っているそいつは、去年、健と大和と同じクラスだった、名前を宗藤佳亜(そうとうよしあ)という。
 佳亜なんて、明らかに「黒髪黒目の日本人なのに、うっかりキラキラネームつけられちゃった」みたいな名前なのだが、彼の場合はちょっと違う。
 驚くほど、あり得ないほど、その名前が似合っているのだ。一八〇センチ近い身長、整った容姿。切れ長の瞳に通った鼻筋。瞳は薄茶色、同じ色のさらさらの髪。均整の取れた体つき、すらりと長い手足。
 運動はできる。運動部に入っているわけではないが、スポーツは全部得意。頭も良い。本人曰く、「塾に行ったり家庭教師をつけたりはしていない」そうなのに、成績は常に上位。授業も、一度聞いたら大体理解して覚えてしまうらしい。楽器ができて、歌もうまい。絵も上手だし、技術科の作品もきれいに作る。
 これで性格が悪かったらすべてが帳消しになる(と思いたい)ところなのだが、そういうこともない。明るくて気さくで、誰にでも平等に接する。会話も豊富で、ギャグのセンスもある。
 要するに何でもできる男だった。いろんなことを自然体でこなしてしまう。
 当然、女子人気はすさまじい。同学年の女子はもちろん、一年、三年、他の中学の女の子や近くの高校生まで佳亜を見に来る。校門前に、知らない制服を着た女の子たちが出待ちしているのを見かけることもある。
 捉えようによっては、その他の男子にとっては煙たい存在であるはずなのだが、佳亜の人気は男女問わなかった。なぜならみんな、「こいつは自分とは違う、特別な存在」と認めているからだ。
 の彼がなぜ、目の前に大和といるのか。
 佳亜は学校から帰る途中なのか、制服だった。
「なんで、おまえがここにいるんだよ?」
「あの……」
「彼を責めないでくれ!」
 大和の声を吹き飛ばすかのように、佳亜が言った。
「責めてないよ、別に」
「そうか、なら良かった。いや実はさ、たまたまここを通りかかったら、偶然大和を見かけたもんで」
「偶然見かけて、何でそのまま一緒にいるんだよ」
「だって、こんなすごい出で立ちだから。これは何かあるのかなって」
 健は大和を見た。確かに、佳亜の言う通りすごい出で立ちだった。背中に大きなリュックを背負っているのは健と同じだが、そこから木刀が、小学生がランドセルに突っ込んだ縦笛のようににょっこり覗いている。シャツの胸ポケットにはナイフ。そして一番目を引くのが額に光る懐中電灯。まるで地下鉄工事に行く人みたいだ、と健は思った。
 そして実は、健も似たり寄ったりの格好なのだった。
「それで、ここで健と待ち合わせしてるっていうから、一緒に待たせてもらったんだ。何か、面白いことがあるんだろ? 何だかよくわかんないけど、俺も入れてよ。最近、退屈してたんだ」
 と言って、きれいな歯を見せて、佳亜はにっこり笑った。
「そんなこと言っても、これは遊びじゃ……」
「まあまあ」
 言いかけた途端、横にいた大和がずいっと二人の間に入り、そのまま強引に健を佳亜から引き離した。
「まあまあまあ」
「な、何だよ」
 話し声が聞こえないくらい離れると、大和が言った。
「佳亜を、連れて行かないか?」
「え」
「だってさ、いいと思うんだよ。彼は運動神経も良いしさ」
 健が佳亜のほうに視線を走らせると、二人が相談タイムに入っているのがわかるのか、離れたところで大人しく待っている。
「今から全部、話して?」
「いや、話は後でいいと思うんだ。とりあえず、穴の奥に悪いものがいて、俺たち退治に行くから手伝って、って」
「信じるかなあ、そんな話」
「信じなくたっていいよ。とにかくちょっと一緒に来てくれって。あの様子なら、詳しい話がわからなくても来るよ」
 やけに強く、大和は佳亜を連れて行くことを主張した。健は、はっとして理解した。
 そうか。怖いんだ。
「そっか……佳亜は運動もできるし、頭も良いし……いいかも」
「そうだよ! 一緒に行ってもらおう」
 二人は揃って佳亜を見た。今の声が聞こえたはずはないのだが、佳亜は親指を顔の前で立て、にやりと笑ってみせた。何だか様になっている。

どこまで行っても薄暗闇。確かなのは、一歩一歩踏みしめていく地面の堅さと、壁のひんやりした土肌の感触。
 歩きながら健と大和は、これまでの経緯を手短かに説明した。ただし、肝心の部分はぼかして。肝心の部分――怪物の正体については。
 この道が普通でないのは、勘の良い佳亜ならとっくに気がついているだろう。入るときは、「この中に入ってくの? うわ、すごい!」などと言って興奮していたが、段々口数が少なくなっていった。この洞穴に充満する、異様な気配を感じているのかもしれない。
 前方から、生ぬるい風が吹いてきた。じっとりとした濃密な重い風だ。足下では白い瘴気が現れる。
「なんとなく、おまえたちのその出で立ちの理由がわかってきた、ような気がする」
「だろ?」

正面から吹いてくる風が、少しずつ強くなる。足下では瘴気が渦を巻き、ねっとりと足に絡みつく。そして奥からは、ゴオオオオ、ゴオオオオ、という猛るような吼え声が聞こえてくる。
 行く手に、ぼんやりとした大きな光が見えてきた。三人は立ち止まった。
「何だ、あれ……」
 佳亜が呻くように言った。
「……ここまで来たら、もう知っておいたほうがいいよな。ここがおかしいのは、とっくに気がついてると思うし」
「気がついてるよ、ずっと。この穴の長さだっておかしいし。それに、この……、このいやな感じ。さっきからずっと、この穴、いや、この小山に入ったときからずっと続いてるそれが、奥に行くほど強くなってく」
 そこまで言うと、佳亜は、長い腕を伸ばして光を指差した。
「あそこに何かあって、それがこの嫌な感じを発しているんだと思う。怖いよ。でもなぜか、逃げ出すのも怖いんだ。あんまり嫌だから、逆にあそこに行ってみたいような……」
 健と大和が同時に頷いた。言わんとすることはよくわかる。
「あそこに何があるか、教えてよ」
「将門の首だよ」大和が言った。
「………首?」
「そう、平将門の首が甦って、あそこで宙に浮かんでいる」
 佳亜は何も言わなかった。三人は光の中へ足を踏み入れた。首の王の、玉座の間へと。

健は何か言おうとして口をパクパクさせたが、あんまり驚いて言葉がつっかえてしまい、出てこなかった。大和は、眼鏡の奥の瞳を大きく見開き、唇を震わせている。
 最初に口を開いたのは、佳亜だった。
「……将門って、たくさんいたの?」
 大和が返した。驚きのあまり声が裏返って、甲高い。
「そんなわけ、ないだろっ!」
「じゃあ、あれなに」
「……わかんない。こないだ来たときは、首は一個だった」健が言った。
 三人は、顔を見合わせると叫んだ。
「うわあああああっっ」トリオの声は、きれいに唱和した。
 目の前の中空に、将門の首が浮いている。それは前と同じだ。だけど今、健たちの前には、それが八個あった。同じ顔の八個の生首が、同じようにこっちを向いて浮かんでいる。ゴウウウウという凄まじいエネルギーを発しながら。
 どういうこと? 何で? こないだもその前も首は一個だったのに。何でいきなり、八個になるんだ? どれか一つが本物で、後は偽物なんだろうか? それとも全部本物なのか?
 それにもう一つ、健は気がついた。
 首が伸びている。最初に健一人でここに来たときは、首は顎までしかなかった。つまり首というより顔だったのだ。それが今、顔には首が付き、それが肩のあたりまで伸びている。
 成長しているのだ。
「け、け、健……首……伸びてるよ……」大和が震える声で言った。
「う、うん」
 首は、八つとも瞳が閉じられたままだった。十六の瞼が、静かに水平を保っている。
「で、どれから攻撃したらいいんだ?」

 佳亜が指をポキッと鳴らした。健ははっとした。
 そうだ、とにかくそのために来たんだから。予想とちょっと違うものを見て固まってしまったけど、目的は変わらないんだ。
「多分、あの中のどれかが本物なんだと思う。でもどれがそうなのかわかんないし、みんな同じに見える。だから……」
「だから、やってみるしかないってことか」
 大和が頷いた。
「何か、作戦とかあるの?」
 佳亜の言葉に、健と大和が顔を見合わせて、それから一緒に首を振った。作戦なんかない。木刀とエアガンとナイフと、初詣に行ったときの破魔矢。家にあった武器らしいものありったけで、とりあえず攻撃してみる。その中で効果のある武器が見つかったら、それでひたすらやる。
「首に反撃されるとしたら、どんな風にくるんだろうな……」佳亜が言った。
「目からビーム。口から火炎」健が言った。
「それはないだろう」
 冷静に否定された。
「多分首が反撃するときは、飛んできてこっちに噛みつくとかだと思うんだ。実際中国に、そういう妖怪がいるんだよ。飛頭蛮っていう、夜中に首が飛び回るの」
 眼鏡の位置を直しながら、大和がとんでもないことを言った。自由に飛び回ってこっちに齧りつく生首なんて、絶対、夜道で会いたくないタイプだ。
「それとか髪の毛が伸びて、俺たちの首を絞めたりしてね。ははは」
「あはは。それが八人分だったら、髪の量もすごいだろうね」
 しーん。三人は、思わずぞっとして顔を見合わせた。それから三人揃って首を見た。首たちが、今にも自分たちに喰らいつこうとしているところだったらどうしよう、と思いながら。
 しかし八つの将門はさっきと同じように、まるでこちらの存在を無視しているかのように、ただ浮かんでいる。
 健は腰のフォルダーからエアガンを抜いた。かちゃりと音を鳴らして、弾が装填されているのを確認する。
「かっこいい」
 佳亜が言った。
「かっこいい?」
 まともに褒められて、ちょっと嬉しい。
「じゃ僕は、とりあえずこれを……」
 大和が背中のリュックから、白木の矢を取り出した。
「そのナイフじゃないの。胸ポケットの」
「だって、ナイフだと近寄らないといけないもん。投げたら勿体無いし。お父さんのドイツ土産なんだよ」
「……そうか」

「俺は、この木刀を借りるよ」と言って、佳亜が健の木刀を取った。
「あれ、手じゃないの。空手やってるって噂だけど」
「だって、あれ殴るの気持ち悪いもん。しかもたくさんあるし」
 言ってることはわかる。あれを素手で殴るのは、殴打という行為に慣れている人間でも気持ち悪いだろう。
「でも、いざとなったらやるけど」
 と佳亜は、整った顔で面白くもなさそうに言った。
「よしっ、いこう‼」覚悟を決めて、健が叫んだ。
「うわああああっっ」
 佳亜と大和が同時に雄叫びを上げる。と同時に、首たちの周囲から凄まじい豪風が吹きつけてきて、激しく身体を打ち据えた。まるで生きているかのような風の猛攻を正面で受けながら、健は見た。見てしまった。
 首の瞼が、ゆっくり開かれていくのを。
「わああああっ」
「ひるむなっ! そのままいけ!!」
 佳亜の声が聞こえなかったら、逃げ出していたかもしれない。見えない何かに引っ張られるようにして健はエアガンを構え、一番近い首を撃った。
射撃の腕には自信があった。玉も通販で威力のあるものを購入しておいた。玉は額に命中、のはずだった、が。
「嘘だろ……」
 やった! と思ったのも束の間、弾は首のすぐ鼻先で、首を包むオーラに弾き飛ばされてしまった。
 大和は、手に持った白木の矢を…………持て余し、立っていた。考えてみれば、矢はあるけど弓はない。武器っぽいから持ってきたけど、一体これでどうしたらいいのか。
「止まるな、大和っ! 力いっぱい投げろ!」佳亜が叫んだ。
「わ、わあああっ」
 大和は、手の中の白木の矢を、首の一つを目がけて放った。たとえ大和がソフトボール投げが不得意で、女子の失笑を買うものだったとしても、この至近距離でこの的の大きさ。矢は少なくとも顔のどこかには命中するはず、だったが。
 ポキという音を、吹き荒れる豪風の中で確かに聞いた。
「うわああぁ………」
 細く美しい白木の矢は、首の手前でぽっきり折れた。大和には一瞬、首が矢をボリボリと噛み砕いたように見えた。
 矢を砕いた首は、放ったものの正体を見極めようとするかのように、瞼を開くスピードを速めた。
 二人を鼓舞しながら、佳亜は木刀を握り締めた。前方から凄まじい勢いで吹きつけてくる風を睨んで受け止め、その風を切り裂くかのように、刀を正面に向けた。
「おおおおっ」
 叫びながらジャンプすると、落下する勢いを利用して、真正面から叩きつけるように打ち下ろす。
「てっぺん真ん中、大当たりっ!!」
 木刀は、額のど真ん中に当たり、首は血しぶきを上げながら真っ二つになる、とはいかないまでも、見事に額を割って怪物は苦悶の叫びをあげる、はずだった。
 バギィッと不快な音がして、割れたのは木刀のほうだった。
「マジか……」
 渾身の一撃はボサボサ頭を打ち据えるどころか、首を包むオーラに遮断されてしまい、吹き飛ばされてしまった。

今や八個の首の瞼は、すべて開かれていた。十六の瞳からは紫の雷のような光が発せられ、玉座の間は禍々しい光に満ちていく。その光の中に三人は照らし出された。十六の眼球が健たちを捉える。
首たちの長い髪や髭は、地上の摂理に逆らい、天井に向って逆立っている。まるで黒い炎のように。
 吹きつけてくる風が勢いを増し、健たちを薙ぎ倒そうとする。轟音が耳朶(じだ)を撃ち、音で耳が壊れそうだ。
 八つの首が目を覚ました。
 おおおおお、おおおおおおおお。
 地獄の底から響いてくる亡者の声。聞いたものを地獄に引き摺(ず)り込む、呪詛の呻きだ。
 三人は足を地に植えつけられてしまったかのように、動けなくなった。
 気のせいか、叫びと同時に首が大きくなった気がした。
 おお、おおおお。
 気のせいじゃない! 首たちが近づいてきてるんだ!
「逃げろーーっっ‼」
 佳亜が叫んだ。その声が健の足を絡み取っていた縛(いまし)めを破ったかのように、足がふっと軽くなった。三人は揃ってくるりと身を翻すと、全速力で逃げ出した。
 走り出す瞬間、妙な声を聞いた気がした。
「ほほ、ほほほほ」
 風の音と、将門の呻きと、自分自身の息遣いが交差する中、どこからか響いてくる高らかな女の笑い声。逃げ去りざま、健は後ろを見た。
首たちの横に、痩せこけた康葉と早苗が立っているのを。土気色の顔で、唇にはぞっとするような笑みを浮かべながら。健は彼女たちから目を逸らすと、無我夢中で駆け出した。
 走って、走って、走った。あの首から、あの間から、そして最後に見たものから。

三人は暗闇の迷路を走り抜け、どうにか出口まで辿り着いた。どかっと地面に身体を投げ出す。

 しばらくの間、誰も口を利かなかった。心臓が胸を破って突き出そうだ。
どのくらいの間、そこにそうしていたのか。ようやく佳亜が口を開いた。
「失敗……かな」
 応えるものはいなかった。

ガラガラガラ、ぐつぐつぐつ。
 大笑いだ。心底楽しい。彼は、込み上げてくる愉悦に身を委ねた。
食の喜びではなく、勝利の快感だ。覚えてるぞ、覚えてる。この喜びを覚えている。
 ガラガラガラ、ぐつぐつぐつ。
 彼の笑いとともに、影たちも笑った。
 おうよ。笑え笑え、みんな、笑え。
 無駄な殺戮は好まない。己の快楽のためにだけ、そんなことをする気はない。けれど彼は、やつらがもう一度やってくることを望んだ。性懲りもなく、またここへ。そうすれば、やつらを殺す大義名分ができる。
 今度は、八つ裂きにしてくれよう。

「うわあ……噂では聞いたことあったけど」
「ほんとに金持ちなんだな……」
 健と大和は、ぽかんと口を開いて、見上げた。翌日の日曜日、三人は佳亜の家で相談することにしたのだった。
 大きくておしゃれという噂は本当だった。シンプルな白壁に黒い柵門。全体的に硬質な感じのする建物。スタイリッシュという言葉がぴったりくる。
「家って感じじゃないな……」健は言った。
「うん……」
 恐る恐る大和がインターフォンを鳴らすと、「はい?」という軽やかな女性の声が聞こえてきた。
「あ、あの、佳亜くんの、友達、なんですけど……」
「あら、はーい。今開けるから、そのまま入ってね」
 蝶がひらひらと舞うような声だ。どこかからカチリという音が聞こえて、黒い柵の門が静かに横に開いていく。
「自動だ」
「すご」
 健と大和は感嘆の声を上げた。
「実は、うちにも自動ドアあるんだ」
 健は声を潜めて大和に言った。
「どうせ、締りの悪いドアが、勝手に開いたりするんでしょ」
「……」

二人はぎこちない動きでカメラの下を通過すると、中に入った。同じ制服を着て、同じ学校に行って、同じように授業を受けていても、一歩学校を離れるとこんなに違うんだ、と健は改めて思った。
 玄関の前まで来ると、何とはなしに服をはたいて埃を落とす。ばたんという音がして扉が開いた。
「こ、こんにちは!」
 二人揃って、ギクシャクとお辞儀をした。だが聞こえたのは、ブフォッという咳とくしゃみの混じったような音と、ハッハッという妙に荒い息の音だ。
 二人が恐る恐る顔を上げると、そこには白いふさふさの大きな犬が、羽箒みたいな尻尾を振っていた。
 犬は、人懐こそうな目と、締まりのない口に笑みのようなものを浮かべて近寄ってきた。そのまま後足で立ち上がり、大和にのしかかって眼鏡をべろんと舐めた。
「うわわっ。わっ、やめろ」
 やめろと言われて、犬は嬉しそうにべろべろと長い舌を動かした。
「くっくっくっ」笑い声がした。
「佳亜、これ、何とかしてよ」
 大和が、心底から情けなさそうな声で言った。佳亜がピィッと口笛を鳴らすと、犬は大和からさっと離れて、佳亜の元へ戻る。
「まあまあ、嬉しいわあ。この子のお友達が来てくれることなんて、めずらしいのよ。ゆっくりしていってね」
 佳亜のお母さんが言った。佳亜とよく似た薄茶色の瞳と髪をしている。ふうわりとした雰囲気で、どこか夢の中を漂っているような感じがした。この馴染みのない建物と同じように、自分の日常とはひどく違うところにいる人だ、と健は思った。
「何だか、お母さんっていうより女の子みたいだね」
 大和が言った。
「今日は、家族の他の人はいないの?」
 健は聞いてみた。
「うん。お父さんは、今は東京のほうに行ってる」
「兄弟は? いないの?」
「兄と姉がいるけど、どっちも普段、家にはいない。兄はアメリカ、姉はフランスの大学に行ってる」
「佳亜って末っ子なの?」
「うん、そう」
 末っ子だったのか、と健は思った。佳亜のこの、とらえどころのなさというか、ところどころで発揮される驚くほど身勝手な行動力というか、掴めない言動は、その辺からきているのだろうか。

 佳亜の部屋は、まるで雑誌の写真から抜け出てきたような部屋だった。机も椅子もモノトーンで統一され、フローリングの部屋の真ん中にはガラスのテーブル。窓にはカーテンではなく、ブラインド。本棚やタンスの類はなく、本や雑貨は、すべてスチールのパイプ棚に収納されていた。
 各々が適当に落ち着くと、佳亜が言った。
「では、作戦会議といきますか」
「昨日の敗因は、やっぱ首がいきなり八個もあったことだと思うんだよね。あれが予想外だった」健が言った。
「問題は、あの首の正体だよな」
「そうなんだよ。全部本物なのか。それとも本物は一つで、あとは偽物なのか」
「後のほうだよ」
 大和がきっぱりと言った。健と佳亜が大和を見る。
「一つが本物で、あとは偽物だよ。ちょっと調べたんだ」
 と言って、ごそごそとクリアーファイルを取り出すと、二人に見えるようにテーブルに置いた。
「ネットで見つけて、プリントしてきた」
 紙には一枚の絵が印刷されていた。乳白色の霧がかかったような中に、八つの顔が描かれている。顔はすべて同じ、平将門だった。一番手前の将門だけが、勇ましい鎧を着込んだ身体までちゃんとある。その後ろに、縦一列に並んだように、同じ将門の顔が七つ連なっている。後ろにいくほど色が薄れ、背景の霧と同化していくようだ。
「七人将門・影武者伝説っていうのがあるんだよ」
「……マジ?」
 犬のマルテスも覗き込んで、ワフワフと鼻を鳴らしている。
「だけどどうやら、それは後の時代に脚色された話らしくって。実際は、七人将門は側近の七人を指しているっていう説が有力。名前はこれ」
 といって大和が取り出したメモには、人の名前らしきものが七つ並んでいる。
「はっきり言って、読めない」
「成績の良い、俺でさえも」
 健と佳亜が口を揃えて言った。

「興世王(おきよおう)、藤原玄茂(ふじわらのはるしげ)、多治経明(たじのつねあきら)、坂上遂高(さかのうえのなりたか)、藤原玄明(ふじわらのはるあき)、平将頼(たいらのまさより)、平将武(たいらのまさたけ)。みんな、将門の右腕となって活躍した人や、将門の血縁者」
「すごいっ!!」「さすが!!」
 二人で大和を誉めると、もしかして照れ隠しなのか、大和は眼鏡を外して拭き始めた。頬がほんのり赤い。
「であの八個の首は、この七人+本物、に間違いないと思うんだ」
 大和の言葉に、健と佳亜とマルテスは揃って首を縦に振った。
「この七人には、将門ほどの強力な怨念や力はないと思う。だから多分偽物たちは、本物の将門のパワーに引きずられているような形じゃないかな。推測だけど」
「……そうだよな。とにかく、最初はいなかったんだし」
 そう言って、健は改めてその絵を見た。まったく同じ顔が、縦に八個並んでいる。顔に邪悪な笑みを浮かべながら。それは異様な光景だった。
「で、本物と偽物を見分けるには、どうしたらいい?」
 マルテスの顎を撫でながら、佳亜が言った。
「うん。将門を倒したという藤原秀郷(ふじわらのひでさと)こと俵籐太(たわらのとうた)の伝記によると、本物以外の七人には影がないんだって。秀郷と通じた将門の家の者が、教えたらしい」
「影?」
「そう。それに他の言い伝えでは、こめかみが動くものが本物だ、っていう説もある」
「こめかみ?」
「そう。伝記のほうにも、『将門の身体は黄金でできていて、唯一こめかみだけが生身だから、そこが弱点だ』とあるんだ」
「じゃあ両方を総合すると、影ができてこめかみが動くのが本物ってことか」
「だね」
「なんだ」
 佳亜がにやりとした。そうすると、元が整っているだけに凄みを増す。
「簡単じゃないか」
「懐中電灯、たくさん持っていこう。で影を作ろう」
「了解」

決行は次の土曜日と決めて、二人は帰っていった。二人が帰ると、佳亜は部屋で一人、笑っていた。マルテスが、めずらしい主人の様子を眺めている。 
 佳亜は、自分という人間のことを正確に理解していた。自分は、何に対しても興味が持てないのだ。

 努力しなくても何でもできた。運動も勉強も遊びも。だけどやりたいことは何もない。だから何をやっても長続きしなかった。
 困ったことに、それは人に対してもそうだった。友達はいる。だけど親しい友達はいない。異性にモテる。だけど真剣に女の子とつき合いたいとは思わない。誰かに対して本気になれない。すべて上っ面(うわっつら)だ。誰であれ、何であれ、真剣に関わることができない。
 今はまだそれでもいいのかもしれない、と思う。まだ中学生の今は。何をやっても上手な佳亜は、みんなの憧れの的だ。だけどすぐにみんな、自分の大切な何かを見つけていくだろう。それをもっと大切にして、何かのプロになっていくのだろう。そのとき自分は、どうなるのか。
「自分の何か」を見つけたい。周りに氾濫するたくさんのことの中から、自分だけの何かを見つけたい。
 佳亜はずっと焦っていた。だが今、かつて感じたことのないような感覚を覚えていた。
 身体中を熱いものが流れている。血が踊っているみたいだ。あの首、いや、あの洞穴を歩いたときから、ずっとこんな感じだった。自分の中にこんな熱いものがあったなんて。
 だから感謝している、二人に。今日あの道を歩いていた偶然に。 
 きっとやってやる。俺が。


#創作大賞2023

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