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コジ 第1話

あらすじ
 
薫は自宅に妻の奈美里の死体を見つけ茫然としていた。そこへ謎の男が現れ、無理やり闇の世界へ連れていかれる。ナキという男は「この世界のどこかに奈美里がいるから、見つけだして連れ戻せば生き返る」と言って消えた。わけがわからないまま闇の世界をさ迷い始めた薫。一方、死んだはずの奈美里も闇の中で謎の女ナミと出会っていた。奈美里は気がついた、ここは黄泉の国でナキとナミは伊邪那岐命と伊邪那美命だと。襲い来る敵をなんとかすべて撃破した薫は天岩戸を隔てて奈美里と再会する。だがそこで薫は奈美里にある嘘をついてしまう。
 奈美里は生き返り二人はマンションに戻るが奈美里は別れを選択する。
 
第一章 マンション
 
1

 駅から自宅へと、夜の商店街の中を急ぎ足で歩いていく。右、左、次は右、と機械的に足を動かしながら、必死に頭は働いていた。
 家に到着する頃には、この動揺をなんとか静め、平静を装って玄関を開けられるようにしていなければならない。
 薫は今、この道を三十分ほど前に辿ったであろう、妻の後を追っているところだった。そしてその間に、考えておかなくてはならない。不倫の言い訳を。
 今日はたまたま仕事が早く終わったので、すぐには帰らずリエの部屋へ向かった。
 リエは会社の後輩で、数か月前からそういう関係にある。
 彼女の部屋が薫の二駅隣だったのは好都合だった。仕事が早く終わった日はリエの部屋に寄り、一緒に夕飯を食べたり、コトを済ませたりして、その後妻の待つ自宅に帰る。それがパターンとなった。
 一ヶ月に三、四回のそれは、日々通勤電車に揺られて会社と自宅を往復するだけの薫のささやかな楽しみだった。もちろん遊びと割り切っていて、家庭を壊す気はない。それはリエもわかっているはずだ。お互い割り切った、体の関係だ。 
 薫は、今日は長居しないで、やることだけやって帰ろうと思っていた。まだ月半ばなのに、今月リエの部屋に来るのはもう四回目だ。これまでのペースに比べると、やや多い。妻に不自然に思われてしまうかもしれない。
 なので部屋に入るなり、黒いワンピース姿のリエをいきなりソファーに押し倒し、その上に覆い被さった。顔のすぐ下で、リエが肉厚な唇を歪めて、嫣然(えんぜん)と笑った。薫の影で暗くなったリエの顔の中で、ポインセチアみたいな色の唇だけが、鮮やかに浮かび上がり、そこから、ふふふという囁きが洩れた。
 そのときだった。背中でガチャという音を聞いた。
 デザイナーズマンションのリエの部屋は、玄関を入るとすぐリビングがある。もし誰かが入ってきたら、薫とリエがミルフィーユのように重なり合っているのが丸見えになる。
 その音の意味を正確に理解した薫は、玄関の方に向けた足の先からリエの髪と絡んでいる自分の髪の先まで、全身が凍りついたように固まった。そして頭の中では、これから起こることを予測していた。
 妻がわめきながら入ってきて、うつ伏せの薫をものすごい力で突き飛ばす。それから薫の真下で寝ていた女に、殴りかかる。頬をバシーンと引っぱたくか、バッグを振り回してぶつけるかするだろう。リエの方も、黙ってやられてはいない。「何すんのよ!」と言ってやり返す。
 二人の女の戦いに入ることもできず、薫はおろおろと横で見守っている。
やがて女たちが果し合いに疲れ、今度は三人での話し合いが始まる。
 修羅場だ。本物の修羅場だ。
 まず第一幕。泣き喚く妻が、部屋の中に入ってくる。その瞬間を、薫はギュッと目をつむって待った。首にかけられた、しなやかで冷たいリエの指に、心無しか力が込められた気がした。
 永遠の一瞬。
 それを過ぎると、背後から再び音が聞こえた。バタンと扉の閉じる音。
 薫は最初その音を、玄関扉が自然に閉じたのかと思った。だがいくら待っても、その後何も聞こえてこない。誰かがそばに近寄ってくる気配がしない。感じるのは、依然真下にいるリエの細い体と、首にかけられた指の氷のような冷たさと、しっかり閉じた瞼を貫いて突き刺さるリエの視線だけだった。
 おそるおそる目を開けて、すぐ下のリエの顔は強いて見ないようにしながら、首だけを動かして後ろを見てみる。
 辺りは、何事もなかったかのように静まり返っていた。
 薫は一瞬、今の出来事は全て夢だったのかと思った。扉を開く音を聞いたと思ったのは、気のせいだったのか? 
「あら。帰っちゃった」
 すぐ下から聞こえた女の声は、ぼやけた意識にぴしりと平手打ちをくらわせた。薫は上半身を起こし、信じられない思いで自分の下の淫らな女を見た。黒いワンピースの下から、白い胸がはだけている。はだけさせたのは自分だ。
起き上がろうとしたら首にかけられた両手が引っかかったので、無視してそのまま起きようとしたら、女の両手に力が入った。なので首を振って無理やり引き剥がさなければならなかった。リエの手は、たった今まで薫の首にかけていたままの形で、空(くう)で止まっている。
 リエは、その自分の指先を見つめながら言った。
「あ~………、ちょっと意外。乗り込んでくるかと思ったんだけどな」
「リ、……リエっ……おまえ、まさか……」 
 薫の体がなくなり、空になった人一人分の空間をなおも抱きしめながら、リエはちらりと薫を見た。見ただけで何も言わずに、視線を手に戻した。
「そうよ。私が電話したの。今日薫ちゃんがウチに来て、あたしとヤッて帰ります。だから帰りは遅くなりますって」
 薫は、顔を歪めてくしゃくしゃと泣きそうになった。
「あ、今の間違いなく、奥さんだから。薫ちゃんの位置からじゃ見えなかったかもしれないけど、あたしからははっきり見えた。奥さんが玄関から入ってきて、そこに立って、あたしに乗ってる薫ちゃんのこと、見てた」
「な……なんで、……そんな……」
 リエは、空を抱いていた手を天井に向けて、花卉(かき)が太陽に向かうようにまっすぐに腕を伸ばし、開いた。五方向にきれいに開いた指と、その上にある白い天井を見ながら言った。
「帰っちゃったねえ、意外。部屋に乗り込んでくるかと思ったのに」
 その言葉で、薫は跳ね起きた。そうだ! 奈美里(なみり)! こうしちゃいられない。
「……やっぱり、奥さんのトコ行くんだね
「そうだよ! 当たり前だろ! 急いで帰らなきゃあ。なんだって、こんなことしたんだよ」
 突然、リエが甲高い声で笑い出した。薫は思わず身を引いた。
 何だコイツ、どうしたんだ? 頭がおかしくなったんじゃないか……。
 ついさっきまで、その女の体で楽しもうと思っていたことは忘れた。代わりに軽い恐怖と嫌悪と、それから憎悪さえ感じた。
 くそ、この女のせいで……。
 薫はカバンを引っ摑むと、笑い狂っているリエをそのままにして、部屋を飛び出した。
 奈美里ちゃんの後を追わなきゃ。薫の、まさに不倫現場を目撃した奈美里ちゃんは、部屋に入らずになぜかそのまま出て行ってしまった。きっと家に帰っている。
 遠くでリエの笑い声が掠れていった。それがやがて嗚咽に変ったことは、薫は知るよしもなかった。

 リエの部屋から駅まで三分、それから電車に乗って二駅。薫と奈美里のマンションは、駅から徒歩約十五分。
 最初の三分、薫は、会社員に許されている限りのスピードで走った。息せき切って駅に着き、改札の中に滑り込むと、少し頭が落ち着いてきた。
 一旦、頭を冷やそう。
 すぐには電車に乗らずに、切れ間なくやってきては去っていく濃い橙の電車を何本か見送りながら、薫は必死で言い訳を考えた。だが結局、これといった妙案は浮かばない。これ以上時間を置くわけにもいかないので、仕方なく電車に乗った。
 二駅分の時間などあっという間だ。いつもの駅で降り、いつもの商店街を歩きながら、薫は今、帰ったら何を話そうか、必死で考えているというわけだった。

 薫は、外資系コンピューター会社に勤めている。社会人として三年目、仕事にも慣れてきたし、そろそろプライベートを一緒に過ごす誰かがいてもいいかなと思ったころに、参加した合コンで知り合った。
 年下できれいな顔立ち、大学の同級生や、同僚にはないかわいらしさを持った奈美里に惹かれ、付き合いだした。
 交際は順調に進み、三年の交際期間の後結婚した。奈美里は結婚を機に、これまで勤めていた化粧品の卸売会社の仕事を辞め、今は近所でパートをしている。
 付き合ってから結婚して二年の現在に至るまで、小さなけんかは幾度もあった。だけど結局最後は仲直りし、二人はうまくやってきたのだ。
 リエとは完全に遊びのつもりだった。結婚生活も板につき、薫は夫婦の関係にマンネリを感じていた。休みの過ごし方に関しても、夜の生活に関しても。かといってまだ子どもは欲しくなかった。
 刺激が欲しい、それだけだった。リエは上手で、行為は新鮮で気持ちが良かった。
 だけど遊びに決まってるじゃないか。そんなの、お互い承知だっただろ。それが大人の関係、暗黙のルールってやつじゃないのか。それなのにリエのヤツ、勝手なことしやがって……。

 住宅街を奥にいくにつれて、歩行者の数が減っていく。外灯の白い光の中に、虫が一匹飛び込んでジジジと焼ける音がした。
 そんな中、自分はもう二度とリエの部屋に行くことはないだろうな、と薫は考えていた。
 そう思っても何の苦痛も感じない。もともと、そろそろ潮時だと思ってたんだ。
 腹の中でリエに悪態をついているうちに、なんとなくショックが薄れてきた。気持ちが楽観的になってきて、奈美里ちゃんにどう謝ろうではなく、悲しみにくれている奈美里ちゃんをどう慰めよう、になってきた。
 マンションの明かりが見えてきた。家はもう、すぐそこだ。
 玄関扉をそっと開ける。いつもなら薫が何も言わなくても、気配で気づいた奈美里ちゃんの「お帰りなさ~い」という朗らかな声が聞こえてくる。それから夕飯の良い匂いが漂ってくる……のだが、今日はそれはないだろう。
 静寂と暗闇に包まれる家の中、薫はそっと上がると、奥の寝室のドアから、わずかに明かりが洩れているのが見える。
ド アを押し開くと、奈美里ちゃんがベッドで突っ伏して泣いている。薫はドアを入ったところでしばらく佇む。「奈美里ちゃん…」そっと声をかける。返事はない。部屋の奥に向かって一歩進み、また「奈美里ちゃん」と声をかける。返事はない。でも泣き声は少し小さくなる。そうしたら今度は、ベッドの端に腰かける。そうして謝る。「奈美里ちゃん、ごめん」って。
 そのあと奈美里ちゃんが、薫のほうを振り向くか、そのまま泣き続けるかはわからないが、薫は巧みに少しずつ移動していく。それからそっと、背中を撫でたり、髪に触ったりする。そして謝り続ける。「ごめんね、ホントにごめんね」って。それで多分、万事収まるだろう。

2
 そう考えているうちに、マンションに着いた。黄色い光に照らされたエントランスに入り、エレベーター横の上ボタンを押す。離れた階に止まっていたらしく、壁の向こうからウィィィン……というかすかな音が聞こえた。こんなときに限って、やたらと時間がかかっているような気がする。薫はつま先でせわしなく床を叩いた。ようやく一階のランプが点灯し、ドアがゆっくりと開いていく。中には誰もいない。急いで飛び込むと、六を押した。ドアがゆっくりと閉じ、再びウィィィン……という物憂げな機械音を響かせて上昇を始める。
 妙に気が急(せ)いた。いったん落ち着いていた気持ちが再び焦っていて、胸の奥がざわざわする。
 エレベーターが六階に止まると、薫は待ちきれずドアをこじ開けるようにして跳び出した。誰もいない廊下を小走りに駆ける。
濃紺色の玄関扉は、いつもと変わらぬ顔でそこにある。開ける前に耳を近づけて中の様子を窺ってみたが、何も聞こえない。
 扉を開けて中に入ると小さな玄関、そこを上がって廊下の先を右に折れると、ダイニングキッチンとリビング、その奥に部屋が二つあり、一つは寝室で、もう一つの部屋はあまり使っていない。
 玄関は薄暗い。思い切って開けると、奈美里は奥の寝室にいるのか、人の気配がしない。
 靴を脱いで上がり、ダイニングにいくと、明かりはついているが誰もいない。
 奥の寝室に目を向けた。ドアがほんの少し開いて、細く明かりが洩れている。ごくんと喉を鳴らした。さあ、正念場だ。
 一つ深呼吸をしてドアの前に立つ。細い隙間からベッドの端が見える。中からは物音がしない。
「奈美里ちゃん……」
 ドアをそっと押した。これも思った通り、奈美里はベッドに横たわっていた。だが突っ伏しているのではなく、真ん中に仰向けになり、両手を胸の上で合わせている。薫が入ってきたことにも、気がついていないようだ。
「奈美里ちゃん……」
 もう一度小さく呼んで、薫はベッドに近づいた。
 奈美里はぴくりとも動かない。
 なぜか胸が苦しくなってきた。心臓が体内で、どくんどくんと脈打っている。その脈動がうるさくて痛い。右手で胸を押さえた。
「奈美里……寝ているの?」
 また一歩ベッドに近づき、上から彼女を覗き込む。
 目をつむっている。薫の影が顔にかぶさっても、気づく様子はない。
 そっと彼女の頬に触れた。その途端、頭の中が真っ白になった。
 頭の半分ではパニックを起こし、もう半分では、目の前のことがどこか遠くで起きているように感じられた。 
 奈美里の頬はぬるかった。冷たいというほどではないのだが、人の肌としてはあり得ない低さだ。いつも触れている彼女の肌とは、異なる何かのようだ。色も変に白い。
「……奈美里、起きて。冗談はやめて」
 動揺して、両手を肩を掴んで強く揺すった。首ががくがくと揺れる。手応えはない。
「怒ってる? ごめん。謝るから」
 手にいっそう力を込めた。奈美里の体は、揺さぶられるままにぐらぐら揺れた。
「起きて……」
 反応無し。奈美里の瞳は閉じたまま、唇は何も言わない。気のせいか、摑んでいる肩がさっきより硬くなった気がした。
 手を離すと、奈美里の体はどさりと落ちた。

 死んでいる。

 呆然として、ベッドの上の妻の死体を眺めた。思考力を取り戻すのに時間がかかった。
 自分の、薫の、不倫現場を見て、それで死んだというのか。まさか。
 だがそれ以外の可能性があるだろうか。今朝家を出るときは、元気だったのだ。
 咄嗟に、ベッドの横の、サイドテーブルの上の時計を見た。針は二十一時十七分を差している。その横にあるものに視線を移す。錠剤の入った茶色い小ビンと、水の入ったコップ、それと封筒が置かれている。本当はさっきから、それらのものが視界に入っていた気がする。でも気づかないふりをしていたんだ。
 薫はよろよろと錠剤の入ったビンを取った。ラベルはない。フタを開けて中を覗くと、白い錠剤が二つ入っている。それらが、ビンが傾いた拍子にカランとなった。
 これが毒なのだろうか。これを飲んで、奈美里ちゃんは……死んだのだろうか。
 封筒を手に取った。封はされておらず、中には、便箋が一枚だけ入っている。それを広げると、藍色のインクで書かれた数行の文字が目に飛び込んできた。

 もうこれ以上生きていく自信がありません。
 お世話になった方々には、申し訳ありません。
 今までありがとうございました。皆さまのご多幸をお祈り申し上げます。

 薫くん、幸せになってね。
 じゃあね。
                         
                       奈美里

 女性にしてはめずらしくやや大きめなその字は、妻の奈美里のものだった。
 全部冗談なのではないだろうかと思って、薫はベッドを振り返った。そこにはいたずらっ子のような顔をした奈美里が目を輝かせていて、手紙を摑んで震えている薫を笑って見上げている。
 わけはなかった。
 そんな薫の甘い願望を、意地悪な神さまがどこかで嘲笑っている声が聞こえそうなほど、部屋はひっそりと静まり返り、ベッドの上には妻の死体が転がっていた。   
 本当に死んでいる。これは彼女の遺書なのだ。
 それならば。なんだろう、この感じは。
 ひどく短い。薫の不倫を目撃して、そのショックで自殺したのは間違いないのに。恨み辛みは書いていない。自殺にいたるまでの気持ちが、綿々と書き連ねてあるわけでもない。
 薫は本物の遺書を見たことはなかったが、こういうものなのだろうか。人生の終息に、あまり長い文章なんて書かないのだろうか。だがこれは、人一人の人生の終焉を顕すにしては、あまりに……淡白すぎないだろうか。
「奈美里ちゃん、奈美里ぃ……」
 情けない声が出た。目に涙が滲んできて、視界が潤んだそのとき。
 信じられないことが起こった。
 薫の目の前、部屋の中央の空間の辺りに、もやもやと黒い霧のようなものが現れた。いや、霧というのは正確には当てはまらない。そんな薄いものではなく、それはもっと強い、黒。墨汁を塗りたくったような漆黒だ。
 最初はサッカーボールくらいの大きさだったその黒い闇がみるみる大きくなり、あっという間に人間くらいの大きさになろうとしていた。
 このままいったら……自分も奈美里も呑み込まれてしまう。
 そう思った瞬間、黒の中から、何かが飛び出してきた。
 それは一人の男だった。
 薫は驚いた。口を開けたまま、言葉を出すことができなかった。だが驚いたのは、目の前に突如出現した「黒」から男が出てきた、ということだけではない。さらに驚いたのは、男の服装と髪型だった。男はまるで、歴史の教科書から飛び出てきたような格好をしていた。それも大昔だ。 
 袖のゆったりとした白い服、腰に帯びた剣。きっちり左右に分けられて、耳の横で結い上げられた長そうな髪。
 ……そう、古代の天皇や豪族が、こんな格好じゃなかっただろうか。
 何にしても普通じゃない。黒い闇が部屋に突然もやもやと現れて、そこからコスプレした男が出てくるなんて。薫はいっそ気絶したくなった。
 男は薫の真正面に降り立つと、真っ直ぐにこちらを見た。男の方が薫より背が高いので、自然見下される形になる。男はりりしく、整った顔立ちをしていた。薫はたじろいだ。だが勇気を奮い起こして、喉を震わせた。
「あ、あんた……」
 発することができたのはその三文字だけだった。「何だ」というその続きは、どこかへいってしまった。
 なぜなら男の力強くはっきりした声が、薫のたどたどしい発音を上から打ち消してしまったからだ。男は声を張り上げた。
「おい、おまえ!」
「はっ、はい!」
「今なら間に合う! 来い!」
 と言って男は薫の腕をぐいと摑むと、そのまま自分が出てきた「黒」の中に、薫を連れ込もうとした。
 薫は慌てた。
「な、何するんですか」
 居丈高な男の態度に、薫はつい敬語になった。強そうな人間に対して、条件反射でそうなってしまう。これはもう性質だった。
 男は薫の叫びを無視して、腕を摑んだままずんずん黒の中に戻ろうとした。
 薫は、「いい加減にしろ、何だおまえは!」と言ってやった。
 心の中で。
 現実にできたのは、男の力に逆らい、いやいやをすることだった。
 男はようやく薫の、泣いているような、怒っているような顔を見ると、さっきよりは少し優しい調子で言った。
「おまえは妻を、愛していないのか?」
 思いもかけなかった言葉に、二の句が告げない。ますます頭が混乱した。鼻水も出てきた。黙っている薫に、男は重ねて言った。
「どうなんだ。愛していないのか?」
「あ……愛してるよ! 愛してる!」
 薫は真っ赤になって叫んだ。感情が高ぶってくる。不思議なことに、感情が高ぶると、相手の不可思議さも理不尽さも強そうなことも気にならなくなる。
 男はにやりと笑った。
「それなら、来い!」
 再び腕を強く引かれた。今度は抵抗する間もなかった。
 薫は男に引き摺(ず)られ、闇の中に呑まれた。

コジ 第2話
コジ 第3話
コジ 第4話
コジ 第5話
コジ 第6話 (完結)

#創作大賞2023 #ミステリー小説部門


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