コジ 第4話
7
半分以上焼けたスーツの袖は、脱いで捨てた。ズボンの方も膝から下が焼け焦げ、下着サイズになってしまった。
「動きやすくなってちょうどいいや……」
爪に巻いた草の応急処置はとっくに剥がれてしまったが、痛みはもう感じなかった。
再び歩き始めた。
「奈美里ぃー」
呼ぶ声に力がこもる。それは薫がこの闇に来て初めてのことだった。醜女と火之迦具土に勝ったこと、この闇の中くじけずに奈美里を探して歩き続けていることが、薫に力を与えてくれた。
少し離れて、火之迦具土が後ろをついてきていた。もうさっきまでのように、炎を轟々と燃え盛らせてはいない。炎は風のようにさやさやと揺れながら、火之迦具土の体を覆っている。まるで獅子のたてがみのように。」
「奈美里ぃーー俺だよぉー、薫だよーー。迎えに来たよーー」
返事はない。ぬば玉の闇は沈んでいる。だけど最初ほどの敵意とよそよそしさはないように思うのは、気のせいだろうか。
「気のせいだ」
思考を読んでいたかのように、ナキの声がした。が、姿は見えない。
「……やっぱり、近くにいるんじゃないか」
ため息が洩れた。次は何が来るんだろう。まだ、奈美里ちゃんには会えないんだろうか。自分の呼び声は届いているんだろうか。届いていて無視しているんだろうか……。
歩きながら、後ろにいる火之迦具土を見た。柴犬くらいの大きさになって、炎の尾をぱたんぱたんと振っている。さっきまでの獰猛さの微塵もない。
「おまえ……俺になついたの?」
炎の獣は、薫の言葉に小首を傾げたように見えた。それから、ごろごろと喉を鳴らした。
「俺についてきたって、何もないよ……。それともまさか、俺が弱ったら食おうとしてるとか?」
火之迦具土はきょとんとした。
「火か……たしかギリシャ神話に火の神さまがいたな。火の神、ペレ。もしかして、おまえそれ?」
獣は、ぐぎゅると喉を鳴らした。
「それってイエス? ノー?」
「ぐぎゅる」
「わかんないよ。ああでもペレは、確か牛の姿だったなあ」
獣は、ふんっと鼻を鳴らした。
「今のノーってこと? おまえ、牛には見えないもんね」
「ふんっ」
「ははは。おまえは立派な獅子に見えるよ。ちょっと変わってるけど……」
「ぐぎゅる」
「ははは。だけど火之迦具土って何だろうなあ。火と関係があるのは、見ればわかるけど。あとは家具と関係があるってこと?」
「ふわ~あぁ」
獣はあくびをした。大きな口から、炎がボワッと吐き出される。
「なんだよ、そう露骨な反応するなよ。言っとくけど、わかってて言ったんだからな。でもヒノカグツチって、どっかで聞いたことあるんだよなあ……」
どこでだったか、いつだったか。誰からだったか。
「あーあ」
投げたボールがすぐそこに落ちたときのような力のない声を出して、薫は上を仰いだ。
上には永遠の黒が広がっている。
「ほんの少しの爽快感もない……」
見上げているこの空が青空で、歩いているこの地面が草原だったら。そう考えて、そんな景色はもう何年も見ていないことに気がついた。そういう場所を一緒に散歩したいな……。
火之迦具土が炎の尻尾をぱたぱた振った。こうしていると犬みたいにかわいい。案外人なつこいのかもしれないな。
「撫でてもいい?」
と薫が言ったそのとき。火之迦具土がびくんと奮えた。さっと顔を振り上げ、闇の向こうを凝視する。体を包む炎が一回り大きくなり、火之迦具土の体が緊張するのが薫にもわかった。
薫もそちらに目を凝らす。が、何も見えない。吸い込まれそうな闇が広がっているだけだ。だが火之迦具土は、その何もない闇の向こうを睨みつけている。一瞬でも闇から目を逸らしたら、その瞬間首をすぱんと切られてしまうかのように。獣の毛が逆立つように、火之迦具土の炎がそそり立ち燃え上がった。
と。次の瞬間、音もなく、全ての黒は全ての白となった。一瞬、世界が明滅する。そしてすぐに、再び闇の衣を纏った。
「え?」
何が何だかわからない。すると今度は、大地を揺るがすようなどーんという轟音と、激しい振動が薫を襲った。
転びそうになったが両脚を開いて踏ん張り、かろうじて地面に倒れることを防いだ。
たった今まで静だった世界は、動へと一挙にその座を譲った。
間髪入れずに、バチバチバチッという何かが爆ぜるような音がした。続いて地面が、低い地響きの音とともに細かな振動で揺れ出した。まるで何か大量に移動しているみたいに。
「何かが、来る!」
それも一人や二人、一匹や二匹ではない。もしかしたら、醜女よりも多くの何かが。闇の向こうから。暗黒の世界の更なる深奥から。
揺れる地面に立ってバランスをとりながら、十拳の剣を構えた。見ると火之迦具土は、火を最小限に小さくして、薫に向かって申し訳なさそうにぺこりと頭を下げたかと思うと、ぱっと体を翻し、背中を見せて走り去ってしまった。 柴犬からチワワくらいの大きさになっている。
「えっ、そんな……」
代わりに音が近づいてくる。
ゴゴ、ゴゴゴ、バチッバチバチッ ゴゴゴゴゴゴ バチバチバチッ バシャッ
閃光がきらめき、天から地へと闇を裂いて光が落ちた。続いてどーんという轟音と振動。落雷、と思った次の瞬間には、再び閃光が光る。揺れる大地にとどめを差すかのように突き刺さる、白い柱たち。
光と音は徐々に近づいてくる。大地を鳴動させる大量の何かも。
落雷の光に惑わされないように、どーんという衝撃にパニックにならないように、振動する地面に足をとられないように。剣を握る手に力を込め、両脚を踏ん張って、薫は耐えた。
「いっそ、早く姿を見せてほしい……」
その願いが届いたのか、見えてきた。
きらめく稲光の中、闇の平原にもうもうと湧き起こる黒い塊にしか見えなかった何かが、近づくにつれ形を取り始める。
それは、黄泉の軍勢だった。
さっきの醜女たちとは違う、武装した軍隊だ。おのおのが甲冑を纏い、槍や剣を手にしている。顔はよく見えず、ただの灰色に見える。
それがおおおおおおおおという鬨(とき)の声を上げながら、見渡す限りを埋め尽くしていた。薫ただ一人を目指して。
薫の目が漫画みたいに飛び出した。
同時に目を引いたのは、落雷と軍勢の間を自由に動き回るいくつかの稲光だ。
「何、あれ……」
ただの光じゃない、動きに意思がある。光の中には、人のような形、鳥のような形、猿のような形、火之迦具土みたいに獅子のような形、奇妙なよくわからない形、といろいろなのが見えた。
そして大きい。それらはみな、離れていても形がわかるほど大きい。
それらが光り輝く稲妻を発しながら、大地を駆け空を飛び回り、薫に近づいてくる。どうやら彼らが軍勢を率いているらしい。
薫はなす術もなく立ち尽くした。いや立つことさえできずに、振動にぐらぐらと踊った。
軍勢と稲光が近くまで来ると、正面から、宙から、右手から、左手から、さまざまな声が響いてきた。
「我は大雷(おおいかずち)」「我は火雷(ほのいかずち)」
「我は黒雷(くろいかずち)」「我は析雷(いかずち)」
「我は若雷(わかいかずち)」「我は土雷(つちいかづち)」
「我は鳴雷(なるいかずち)」「我は伏雷(ふせいかずち)」
「あわせて八種の雷神なり」
「覚えられるかぁっ‼」
くるりと踵を返し、薫はその場から逃げ出した。
8
雷神たちが声高く嘲笑いながら、地に宙に雷を振り撒いた。稲妻が乱舞し、バシャーンという耳を劈(つんざ)くような音が響き渡る。黄泉の軍勢が大地を轟かす。
さまざまな音が入り混じり、もう何が何だかわけがわからない。ただ一つ確実なのは、全ての音が薫目がけて迫ってくるということだった。
薫は走った。遅くても走った。
冗談じゃない、勝てるわけない。あんなの相手に、どうしろっての⁉
だけど勝てるわけないというのなら、醜女たちだってそうだったはずだ。今度だって何かあるんじゃないか?
走りながら必死で考えた。足はとっくに限界だし、通勤靴だってぼろぼろだ。
背後からは、雷鳴と哄笑と、軍勢の足音が迫ってくる
すぐ横に、稲妻の刃が落ちた。甲高い笑い声がした。子どもが小さな虫をつついて笑っているときのような声が。
シュルシュルシュルッ ビュッ
「うわぁーぁっ」
足もとに、棒のような形をした稲妻が差した。足をすくわれそうになり、避けようとして踊っているような格好になった。ワハハハハハという笑い声が聞こえた。
遊ばれている。奴らはただ楽しんでいる。
「ちくしょう……なにが神だよ」
「……本当。神様ってろくなもんじゃない」
「そうヨ。そろそろ気づいてちょオだい。最も気高くも、最も勝手にもなれるのが、神ヨ」
「……ナキのことを言ってるの?」
「……それにネ、あのコたちにとって久々の出番なノ。これまで、醜女から逃れて、火之迦具土も倒して、あきらめずにここまで来たのなんて、両手で数えられるくらいしかいないんだから。これはたいしたものヨ。どオ? うれしい?」
「…………」
「……だからこそ大変だ、ってのもあるケド」
「え?」
「八人全員出ろ、とはアタシ言わなかったんだヨ。いっぺんに出ることって普通はないンダ。アイツらよっぽど暇してたんだナァ」
奈美里の顔から血の気が引いた。
何かあるはずなのだ。何か、奴らに対して致命的な何かが。
「ナキィーーーーッッ!!」
もつれて転びそうになる足を一生懸命動かしながら、叫んだ。
「ナキッ ナキ。ナキィーーー!」
「……まさか、ここまでやるとは思わなかった。全員出てくるとは」
思いがけない近くで、低音のハスキーボイスが聞こえた。
「お、思わなかったって、なんだよ。やる、って、誰が、何を、やるって、言うんだよ‼」
「…………」
「おい! どうすれば、いいんだよ」
「……あれは黄泉の軍勢と八種の雷神」
「それはもう、聞いた!」
「……十拳の剣を使え」
「ええ⁉ 使えって、どーやって⁉」
返事はない。
「そんな……」
ガシャーン バシャッ バシッ ビュンッ
シュルシュルシュルシュル シュルシュル
連射。右に左に足元に、頭すれすれに、槍、棒、ブーメラン、さまざまな形の稲妻が乱舞する。薫はまるで、稲妻の海に浮かぶ小さな木っ端だった。
「くそっ、くそっ」
ここまできて……。涙が浮かんだ。悔しい。と同時に、ここまでやったんだという満足感も浮かんできた。
ここまでやったんだ。闇に立ち向かい、醜女を払い火之迦具土を倒した。すごいよ俺、えらいよ俺。奈美里ちゃんだって、すごいって思うよ。許してくれるよ……。
そのとき。
かおる…
場違いな声がした。甘くて優しくて、ときには少しうっとおしい、そして切ないあの声。
かおる……
奈美里ちゃん……
かおる。じゃあね。
奈美里⁉
甘い幻の中に逃げこもうとしていた意識が、冷や水をぶっかけられたように目が覚めた。冷や水をぶっかけたのは奈美里だ。違う、自分だ。
じゃあね⁉
そうだ、奈美里は死んだのだ。
そんなバカな。
奈美里、そんな言葉はちっともロマンチックじゃない。俺はちっとも好きじゃない。まして言われたくなんかない。
「ちくしょう……」
ふざけるな、何もかもだ。奈美里もナキも、この世界も。醜女も火之迦具土も、後ろにいる何かも。
「奈美里ぃぃーーー‼」
後ろを振り向いて叫んだ。同時に、今しも薫の背中を刺し貫こうとしていた稲妻に向かって、十拳の剣を盾のように翳(かざ)した。
「謝るって言ってるだろ‼」
稲妻は十拳の剣に当たって、ガキンと跳ね返り、自らが飛んだ軌跡をなぞって戻っていく。自分が発せられたところ、析雷(さくいかづち)を目がけて。
稲妻は析雷に突き刺さり、鳥の形をした体を貫いた。
自分の雷には弱いのか、それとも十拳の剣ではね返したからか。大きな足の、始祖鳥のような析雷の体が燃え上がった。電線がショートしたように、バチバチバチッと光が弾ける。グゲエエエエ、という鳥の断末魔が響き渡った。
雷神たちがそれを唖然として見つめている。黄泉の軍勢も同様に、てんでに空を見上げている。
焼き鳥となった析雷は、ひゅるるるるという間抜けな音を立てて地面に落下した。
その瞬間、あれほどまで騒がしかった場が静寂に包まれた。あり得るはずのない出来事に、誰もが驚き、声を発することができない。
稲妻を跳ね返した、薫が一番びっくりしていた。改めて十拳の剣を見ると、さっきまでの古びた鋼色とは違い、銀色の輝きを放っている。
「すごい……」
真っ先に動いたのは若雷だった。少年のような姿の彼は、空を飛ぶ小さな雲に乗っている。だけど普通の少年より、腕が二本ばかり多かった。
上空から、四本の腕で繰り出す稲妻がブーメランのように飛んでくる。それを紙一重でかわした。すぐに次が飛んでくる。それもかわした。
薫は稲妻のブーメラン三つ、四つを避けた後、剣に引き摺られるように跳躍した。そして次にきたそれを空中で真ん中からたたっ斬った。ブーメランは二つに割れ、析雷のときのように、自分の飛んできた軌跡をたどっていく。というわけにはいかなかったが、方向を失って黄泉の軍勢の中へと突っ込んでいった。兵たちが、おうおう叫んで逃げ惑う。
若雷は舌打ちした。
薫はすたんと地面に降り立つと、剣を構えながらぜえぜえと肩で息をした。薫ではない、剣がやったのだ。薫は柄を握っていただけだ。
すぐに剣が下を向いた。着地した地面の土が、ずぶずぶずぶずぶという気味の悪い音とともに盛り上がってくる。と思う間もなく、輝く光の塊が目の前に飛び出した。薫より二回りも大きいそれは、発雷している巨大な土竜(もぐら)だった。
土雷は薫の前に躍り上がると、ばばばばばという土を掻(か)くような音とともに、稲妻の突撃玉と化して襲いかかってきた。
剣が反応する。薫は跳んだ。高々と頭上に剣を掲げて振り下ろした。剣が土雷の脳天を直撃し、頭蓋骨を叩き割る。目の前で、土雷の顔と体は二つに分かれた。
ぐぐっぐぐぐぐ
というくぐもった低い声が割れていく口から洩れる。剣が、土雷の下半身まで真っ二つにすると、目を覆いたくなるような光景が現れた。割れた土雷の身体から、白い小さなものが無数に飛び出てきた。白いものはもぞもぞと動いている。薫はそれを、ここに来てすでに見たことがあった。醜女にたかっていたものと同じ、蛆だ。
何万という蛆が、土雷の身体から這い出してくる。沈んだ船を見捨てる鼠のように。
薫は体を翻すと、脱兎のごとく走り出した。
黄泉の軍勢と六雷神がそれを追う。若雷が歯軋りして言った。
「畜生アイツ、析雷に続いて土雷までも!」
「なかなかやるな。おもしろい」
地を駆ける大雷がそれに応える。若雷が少年のようならば、こちらはがっしりした体躯の大男だ。
「何を落ち着き払って……!」
「案ずるな。どうせ奴らは蘇る。ナミさまの手によって」
「それはそうだが……」
「土雷など、今度は何の屍を肉とするやら。ふっふふふ」
その言葉に、若雷は嫌な顔をした。
「手応えのあるやつは久しぶりだ。それっ」
大雷の稲妻は、平たい紐のようだった。主の掛け声とともにひゅるひゅると、的を目がけて伸びてゆく。前方をちょこまかと逃げる薫は、剣を振りつつそれを払った。
「そうなの?」
「そうヨォ」
そう言いながら、ナミはグラスを指で弾いた。ぴん、と水晶のように綺麗な音がこだまする。
「でも、あんまりしたくないけどネ。それをやるには、一回、元の姿に戻らなきゃいけないカラ」
奈美里はその言葉を正確に理解した。奈美里の知っている古事記の通りであるならば、ナミの姿は、今見えているようではないはずなのだ。
薫は走った。十拳の剣を振りながら。どこを目指せばいいのかわからないが、とにかく走った。闇雲に。
右手後方から熱風が吹きつけてきた。左手後方からは、ガラスを引っ掻いたようなきりきりきりという高音が聞こえてきた。
何雷だかわからない。大体、覚えてもいない。
走り続けた。右手後方の温度が一気に上がった。振り向くと、品の悪い赤色の火と雷で覆われた大猿が、地面を蹴りながら走ってくる。
といきなり猿の横面を、輝くように燃えさかる、炎の塊がごおっとはたいた。
「ぎゃっ⁉」
猿が叫んで、慌てて炎を払おうとする。が、紅蓮の炎は瞬く間に燃え上がり、大猿こと火(ほの)雷(いかづち)を包んでゆく。
「ぎゃっぎゃぎゃぎゃっ」
滑稽な声を上げ、火雷が手足を振り回すが、猿の火より、燃えさかる炎のほうが強い。とうとう大猿を完全に包みこみ、轟々と天高く吹き上げて燃やしてしまった。猿は輝く炎の中で、ムンクの叫びのように口を開けて燃え尽きた。
炎の飛んできたほうを見ると、思った通り火之迦具土だった。薫に気づくと、「自分にできるのはこれくらい」とでも言うように、炎の尻尾を振って闇の中に消えていった。薫は剣を挙げてそれに応えた。
「ありがとう……」
きりきりと歌う、不思議な光の玉みたいなものも切った。これはふわりふわりと動いていたので難しくなかった。最初から、興味がないかのように辺りを漂っていたのだ。
歌うのに夢中になっていたのか、薫が近づいたのにも気がつかないようで、真上から剣を振り下ろすと真っ二つになった。キャベツを切るときのような、ざくっという音がした。
名前はわからないが、きっと雷神の一人だろう。
析雷、土雷、火雷、鳴雷(なるいかづち)。すでに八雷神のうち四を倒している。薫には彼らの名前こそわからなかったが、残り四という数字は把握していた。それが自分自身の力ではなく、剣と運と火之迦具土のおかげだということも。残りの四雷神は、仲間を倒された怒りに猛り狂い、容赦なく攻撃してくるだろう。
走って、走って、走り続けた。連続する閃光のおかげで、見通しがきくのだけが助かる。
前方に坂が見えた。その上を見上げて、あっという声が洩れた。
かすかな光が見える。これまでこの世界をさ迷って、炎だの稲妻だのの光はいやというほど見たが、そういうものとは違うやわらかい光だった。果たしてそれが地上なのかはわからないが、ともかくあそこには光がある!
あそこまでいけば、きっと……。
「すごイ」
「すごいの?」
「すごいヨ。ここまで辿り着いたのは、本当にわずかしかいないんダ。しかも、八種の雷神全員を相手にしてサ」
めずらしく、常に冷静で余裕しゃくしゃくなナミの声が興奮している。
「でもまだ全員やっつけてない」
「そりゃそうだけど……ってなんで、アタシがあの男をかばわなきゃいけないノ。アンタだって本当はすごいって思ってて、うれしいんでショ?」
奈美里は視線を逸らした。図星なのを見抜かれたくなかった。
薫の活躍がうれしい。純粋にすごいと思った。初めて見た夫の一面に、かっこいいとさえ思った。そんな自分がいやだった。
「ただ、この坂まで着いちゃったってことはァ」
「え?」
「あの男がアンタを置いて、元の世界に帰っちゃう可能性が高くなったってことだけどネ。だって平和で安穏な元の世界が、すぐそこに見えるんだモノ」
はっとした。そうだ、これはおそらくあの坂。古事記において、黄泉に落ちた妻・伊邪那美命(いざなみのみこと)を捨てて、迎えに来たはずの夫・伊邪那岐命が行ってしまった坂。
黄泉国と現世を結ぶ、黄泉比良坂(よもつひらさか)。
「もっともアタシにとってはそのほうがイイんだけど。そうすればアタシの勝ちだからネ」
そう言ってナミはぐいとグラスを飲み干した。あまりうれしそうではなかった。
「しまった!」
「まずいな」
「逃すか!」
若雷の稲妻のブーメランが、頭上すれすれを掠めて飛んだ。同時に、大雷の長い稲妻の棒が脇を突く。それらの攻撃を、巧みに避け、はね返し、薫は坂へとひた走った。
もうすぐ、もうすぐだ。坂の麓まであと少し。
というところになって、身体に纏わりつくように黒い霧が発生してきた。気づいたときにはもう、頭から足先まで、すっぽりと包まれている。そしてその中では、針のように短く鋭い雷が無数に閃き飛び交っていた。まるで雷雲に閉じ込められたように。
だが薫は、たとえ前が見えなくとも、そのまま走り続けた。光の匂いのするほうに。
そして見た。針のように鋭い稲妻たちが飛び交う奥に、赤く光る吊り上がった目を。雷とそっくりに、細く鋭い。
目は薫を見据えると、両端を吊り上げた。するとそこから無数の針の雷が飛び出してきて、まるで薫が針刺しであるかのように突き刺さろうとした。
剣を振るって、針の雷を薙ぎ払いながら、発信源の、赤い月のような目を睨んだ。
もういちいち怖がっている余裕なんて、ないんだよ。
この世界で散々な目に合いながら、薫は生きるにおいてけっこう大切なことを学んでいた。
恐怖を駆逐する感情は、怒りということだ。
「邪魔、するなっっ!!」
赤い瞳の眉間を目がけて、十拳の剣を突き刺す。
シャアアアァァァッ
猫が毛を逆撫でされたときのような声が響いた。と同時に千本の針の雷は塵のようになり、ふっふっと闇に消えていく。
薫を包んでいた黒い霧は晴れ、後には、額から血を吹き出している大きな黒猫が倒れていた。
「黒雷か……」
薫は走り、とうとう坂の麓にたどり着いた。見上げると、坂の上彼方に小さな白い光が見える。
「出口だっ」
外の世界、薫の世界だ。だが後ろを振り向くと、黄泉の軍勢と、少年と大男の姿をした雷神が憤怒の形相で肉薄していた。あともう一人いるはずなのだが、どんな姿でどこにいるのかわからない。
そのときナキの声が響いた。
「よくぞここまで辿り着いた! 桃だ!」
「は⁉」
もも? 桃?
麻痺状態の薫の脳が咄嗟に反応できずにいると、「横だ!」とまたナキの声がした。
横? 左右をきょろきょろすると、左手にそれはあった。坂の麓の左の横に、ちょうど薫と同じくらいの背のかわいい木が、坂を登るものに手を差し伸べているかのように枝が低くしなっている。そこに桃の果実が並んでいた。薫はそれをもぎ取った。
そして後ろを振り向くと、狙いを定める間もなく、迫りくる異形の群れに投げつけた。
「くらえっ、桃だよ!」
ぎゃあああぁぁぁっっ
いきなりすぐ近くで、悲鳴が炸裂した。たった今まで何もなかった空間に、忽然と大きな稲妻の白い塊が出現している。だが出現すると同時に、稲妻はバチバチバチッという激しい音を鳴らし、火花を散らして苦しげに身をよじらせたかと思うと、真っ黒い炭となり動かなくなった。
後にはぶすぶすというくすぶった音と、もうもうと吹き出される黒い煙だけが残った。
「ぜんぜん気づかなかった……」
姿を消して密かに近づいていたそれは伏雷(ふせいかづち)。ということは後で知った。
伏雷を消した桃はぽうんときれいな弧を描いて、黄泉の軍勢へと飛んでいった。丸い形を崩し、中からピンク色の果肉と果汁を弾けさせながら。そうして軍勢の頭上までくると、桃は、幾百片幾千汁にも別れ、彼らに降り注いだ。
ぐぎゃああああと断末魔の悲鳴を上げながら、黄泉の軍勢はどろどろに溶けていった。もともとが死人の兵なので、身体は腐肉でできている。そのうえ聖なる果実によってさらに溶けていく様は、まさに地獄だった。溶けた体はしゅうしゅうと蒸発して消えていった。
運良く聖果から逃れることができた兵たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
「おのれっ‼」
若雷が怒りのあまり赤鬼の形相となって、空から雷のブーメランを投げようとした。
薫は、聖果の力にぼうっと見惚れてはいなかった。桃はもう一つある。腕を大きく振って、それを空中の若雷目がけて投げた。桃は虹のように美しい半円を描き、若雷めがけて飛んだ。
学生のときの最後のスポーツテストだって、こんなに力を入れなかった。そのときは、わざと全力を出さないことがカッコいい気がしたのだ。でも今そんなことを言っていたら、死ぬ。
だが本気で投げたのに、桃はふざけて投げた高校生のときほども飛ばなかった。曲がりも落ちもせずにびゅんと飛んでいったのは、聖果それ自身の力によるものだ。
「偉そうにしやがって! いけぇ!」
薫は叫んだ。狙い違わず、桃は若雷の顔に正面から突き当たった。薫はたしかにその瞬間を見た。
桃は、若雷の顔をぱきんと割ってしまった。こんなに離れているのに、ぱきんという軽い音を聞いたように思った。
ひびがみるみる顔中に広がり、若雷の幼い顔は、氷のようにぱきぱきと亀裂が入って割れていった。やがて亀裂は、顔だけでなく首から胴、手足にも広がっていった。ぱきぱきという小気味の良い音を立てて若雷の体は割れ、ぱらぱら下に落ちていく。
若雷はなくなった。
「…………」
自分の見たものが信じられなかった。まるで悪夢だ。夜毎苛(さいな)む。
そのまま坂を駆け上がろうとしたそのとき、目と鼻の先にズァッという音と共に何かが突き刺さった。
「やっぱり……」
歯噛みして後ろを振り向く。大雷だ。
でかい。頭が異様にでかい。ヒトの形をしているが、ぱきぱきと割れていった若雷同様、化け物だ。
大きさだけではなく、顔も体もどこか作り物めいていた。嘘っぽいのだ。肉をただ、型に入れて整えたような。それが一層恐怖を誘った。
長い雷の棒を両手で軽々と振り回しながら、じりじりと距離を縮めてくる。
「正直、ここまでやるとは思わなかった。誉めてやる」
「ありがとう」
と心の中で返事した。声に出したら怒りそう。
びゅんびゅんという唸りを立て、雷の華を散らしながら、雷の棒が鼻先を掠めた。
気が遠くなりそうだ。もう倒れてしまいたい、と何度も思ったことを思った。
「何をしている! 伏雷や若雷のように、桃を投げれば良いのだ」
突然、ナキの声がした。
「え、え? だって二個しか……」
「そんなはずはない。桃は三個セットだ」
「いや、だって、二個しかなかったよ」
「そんなはずは……何っ」
ぷつん。驚いたような声を最後に、会話は途切れた。
「ナキ?」
返事はない。
「ナキ」
しーん。ため息をつく気にもなれなかった。そもそも、ここまでやれたのが奇跡なのだ。
十拳の剣を両手で持ち、構えのポーズを見せたものの、腕に力が入らなかった。持ち主のやる気減退が伝わるのか、剣の輝きも鈍い。
「どうした。抵抗を見せてみろ」
大雷が言った。
ムリ。打つ手無し。限界です。
「……ないの? 桃」
ナミは今、ナキに「三個目の桃はない」と伝えたのだ。どうやら彼らは、遠くにいても心で会話できるらしい。それを聞いて、ナキは薫との会話を切ってしまったのだ。
「ない」
「どうして」
「飲んじゃっタ」
そう言って、ナミは空のグラスの底をみせた。
「あれがそうだったのっ⁉ どうして、そんなことしたのよ⁉」
「だって、ここまで来るなんて、思わなかったんだモノ。何アンタ、怒ってるノ? アラララ、やっぱりダンナを心配してるんダァ」
「だって……不倫したって、いくらなんでも八つ裂きにされて死ぬのは、かわいそうだと思う」
「それならダイじょうぶ。本人には『殺されたらその通りになる』って言ってあるけど、実際にはそうじゃないノ。あきらめたり逃げ出したりしたときと同じ、元の世界に戻るだけヨ」
「……そうなの? じゃあなんで、殺されたら本当に死ぬなんて言ったの」
「だッてそうでも言わないと、真剣にならないでショオ。それじゃツマんないじゃなイ。だから相談して、そういうルールに決めたのヨ。もっとも痛みは感じるけどネ。それよりアンタ、アタシの質問に答えてヨ。あの男を心配してるノ?」
「……何であなたは、聖果である桃を飲んでも平気なの?」
「おやおや、またゴマカシ。ってことはきっと図星なんだネ」
「…………黄泉のものが桃を食べたら、溶けるんじゃないの? 黄泉の軍勢や雷神たちみたいに」
ナミは白い足を組み替えて、鼻で笑った。
「アタシをやつらと一緒にしナイで。最初はダメだったけど、とっくの昔に力を取り戻して、そんなの平気になってるヨ。だから姿だって違うんじゃナイ」
確かに。古事記では、黄泉に落ちた伊邪那美命は醜く変貌してしまったはずだ。だからこそその姿に恐れをなし、伊邪那岐命は逃げ帰ってしまったのだから。だが今、奈美里の前にいる女は美しい。
「アタシを誰だと思ってんノ。国造りの神、伊邪那美命だヨ」
本当にそうなのだ。
「どうやら足掻(あが)く気もなくしたらしいな」
もうすぐあの雷の棒が楽にしてくれる。薫は無意識のうちに目を細めていた。すると何かが鼻腔を刺激した。かすかにたゆたうその香りは、薫のよく知っているものだ。
甘くて懐かしい。まるで平和ないつもの象徴のように感じられて、泣きたくなった。泣いて甘い香りにすがりたい。
でもそれまでには、もう少しだけやらなきゃいけないことがあるらしい。
香りにはうっすらと色がついていた。早咲きの桜の、白と見紛うほどの淡い桃色が。
囁くように甘い桃色が漂いながら、辺りをゆったり包み込んでいく。薫だけではない、大雷も。
「な、何だこれはっ⁉」
大雷は腕を振り回し、香りをはらおうとした。だがはらってもはらっても空気のように纏(まと)わりつく。
さらに、後ろでもがき続けていた溶けかけの黄泉の軍勢をも包み込んでいった。そして止めを刺していく。
どうやら、薫にとっては甘い香りでも、奴らには鋭い凶器らしい。
薫は、漂う香りにコーティングされた十拳の剣の、銀の刃に唇で触れた。それから囁くような低い声で歌った。日本人なら誰でも知っている、あの歌を。
「も~もたろさん、ももたろさん。お腰につけた、きび団子……」
歌いながら密やかに、桃色の香気に苦しめられている大雷に忍び寄る。
「ひっとつ~ わたしに……」
大雷が気づいたときは、もう遅かった。
「くっださいなっ!」
地を蹴り、大きな頭に剣を叩きつけた。剣はざくんとめり込み、そのまま彼を切り裂いた。
左右真っ二つに分かれた大雷は、体の左と右でまるで仲違いをしたようにきれいに分かれて倒れた。大雷は横一直線になった。
「……ふ~ン」
「だめだった?」
「だめじゃないヨ。好きにすればいいサ」
「……うん」
「……ただ、そうするンダと思ったノ」
何も言わずに、奈美里は手の中の小さな容器を玩(もてあそ)んだ。誕生日に薫がくれた、桃の香りの香水だ。桃が聖果と聞いて、これのことを思い出した。そうしたら、気がついたら手の中にあったのだ。
空のグラスを何度も指で弾きながら、ナミはビジョンに視線を戻した。そこには八雷神が累々と骸(むくろ)を並べていた。
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