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コジ 第5話

9
 呆然とした薫が一人、取り残された。
 姿はまるで原始人のようだ。幾度とない攻撃にさらされて、シャツもパンツもかろうじて文明人かな程度になっている。いつもワックスで整えている髪は、焼け焦げてぶすぶすだ。
 ある種の風格さえ醸し出していた。
 軍勢も八雷神も、あれほど恐怖に駆られて逃げ回ったのが腹立たしいほどきれいに消えてしまった。辺りを見回しても、激しい戦いの跡は見られない。
あるのは闇と静寂のみ。最初にこの世界に立ったときと同じように。どれくら い、そうして呆けていたのか。
 薫は闇に背を向け、坂の上を振り仰いだ。そこには白い光が輝いている。
 再び首をめぐらした。闇が広がっている。
 黄泉国と現世の境。ここは黄泉比良坂、光と闇の分岐点。
むろん帰りたい。だけど。そもそも自分がここにいる理由は何だったのか。
自分の活劇に酔いしれて、当初の目的を見失ってしまえるほど愚かにはなれなかった。醜女を払って、火之迦具土を負かして、黄泉の軍勢と八雷神を倒しても、大事なことは変わってない。
 白い光を未練がましく見上げると、薫は再び闇へと戻っていった。

 ナミも奈美里も、ビジョンを見つめたままじっと黙っていた。
 奈美里は、何て言ったらいいのかわからなかった。
 薫は奈美里を置いていかなかった。自分のために、この闇の世界に、黄泉国に戻ってきてくれたのだ。うれしくなくはない。
 でも自分は、どうでもいいやもうと思って、全部捨てた。
 だけど夫は今、こんなに自分を求めてる。
 ああでも、また同じことを繰り返すのはいや。つらいのはいや。何より…………は、いや。
 両手で顔を包んだ。熱い。なぜか、隣にいるナミの顔は見れなかった。
 どこからともなく声が聞こえてきた。低くて張りのある声。
「私の勝ちだ! ナミ!」
 ナミの肩がぴくりと震えた。
「私の勝ちだ! あの男は黄泉比良坂まで辿り着き、なおかつそのまま帰らなかった!」
 声は闇に響き渡り、高らかに勝利を宣言した。
「だから、ナミ……」
「うるさい!」
 叫ぶと、ナミは立ち上がった。鈴や玉の飾りが揺れ、シャランシャランと鳴る。
「まだ勝負はついていない! 私にはまだ、打つ手がある!」
「ナミ、まさか……」
 ナミは振り向き、奈美里を見た。漆黒の瞳に見据えられ、奈美里はびくりとした。「いいね」という声を、実際に聞きはしなかった。だが聞いたような気がした。
 いいね?
「まっ……」
 待って、と奈美里は言おうとした。ナミは、次の何かを薫のところへ向かわせようとしているのだ。
 そのとき、一つの声が頭の奥で甦った。

「おくさん?」
 女だった。たった四文字を、やけにゆっくり言った。最初、それが自分のことを指しているのだとわからなかった。奈美里が黙っていると、相手は勝手に続けた。
「奥さんよねえ? かおるちゃんの」
 電話を持つ手が固まった。
「今日ねえ、かおるちゃん、あたしのトコ寄ってくって。さっきLINEがあったの」
 奈美里のほうにもあった。遅くなる、ごめん、というスタンプ。

 奈美里はナミの瞳を見返し、頷いた。ナミが叫んだ。
「いけーーーっっ! スサノオ‼」
 突風が吹いた。
「卑怯だぞ、ナミ! 約束では、これで……」
「うるさい‼」
 ぷつんという音がして、ナキの声は聞こえなくなった。ナミが回線を切ったのだ。
 そのときのナミの姿を見て、悲鳴を上げそうになった。ナミの姿は醜女そっくりになっていた。
「ひっ……!」
 だがすぐに美しい姿に戻った。無表情な目でナミは奈美里を見返すと、視線をビジョンに戻した。

「奈美里」
 大きな声はもう出さない。いや、出せなかった。もう喉がからからで、潤してくれる水もない。それに大きな声を出さなくても、今なら届くような気がした。
「奈美里。帰ろ……」
 薫の歩みは亀のように遅々としていた。戦いの間は麻痺していた感覚が戻ってきて、歩くたびに全身がちぎれるように痛い。剣を杖にして、足を引き摺るようにして歩いた。
「奈美里……」
 それでも呼ばなければ。呼ばなければ、聞こえない。
 囁くように喉を震わせる。ひっそりとした闇に向けて。
「奈美里……いる?」
 今にも消え入りそうなその声に応えたのは、どんという大きな音だった。
 疲れ切った体がびくりと震えた。歩みを止めて、耳を済ます。
 音は一回きりだった。だが薫にはわかった。行く手の深淵から何かがやってくるのが。
 戦いに続く戦いで、五感は磨かれ、研ぎ澄まされている。目には見えなくともわかる。何かが奥にいる。そいつは闇の中から、こちらに敵意を発している。
 ため息を吐いて、ゆっくりと足を踏み出した。今更、逃げ出さない。
「……ま、今度こそやられるだろうけど」
 またか細い声で呼んだ。
「奈美里」
 その声に応えるように、またも、どんという衝撃が走った。
 さっきより近づいている。薫は立ち止まった。くず折れそうになる体をなけなしの力で伸ばし、鉛のように重い腕で、剣を構える。

 どん、どん、どん

 衝撃が連続して起こった。薫のからからに乾いた喉が、ごくりと唾を飲みこもうとしたが、唾が湧かずにかすという変な音がした。
 そいつが闇の中から姿を現した
 大きい。ナキよりも大雷よりもさらに大きい。
 引き締まった身体、赤銅色の肌、長い手足。ナキとよく似た白い服の下の胸が、鍛え抜かれた筋肉で隆起している。そいつが手に大きな剣を携え、悠然と闇の中から歩いてきた。身体からにじみ出る迫力が、何もしなくとも薫を圧倒する。
 身体だけではない。そいつは、薫がこの闇の世界で戦った誰にもなかった、理知の光を放っている。
 さらに目を引いたのは、背中に垂らした長い髪と、それ以上に長い髭だった。まるで昔の中国の武将のようだ。
 十拳の剣を弱々しく構えた薫と向き合うと、大人と子どもだった。しかも、歯を食いしばり、必死の形相で剣を握りしめている薫に対し、そいつは片手にぶらりと下げている。なのに発せられる殺気は大きく凌駕している。
 圧倒的な威圧感。
 男は薫をじっと見つめた。精悍な双眸が薫を捉えた。
 薫は全身ぼろぼろだった。だが、疲れ切っているのに、目には長い時間苦労してもなお目的を達成し得ない人のヘンにぎらぎらした光があった。
「ここまでよくやったな。母上が私まで借り出したのは、まだ数えるほどしかいない。感服する」
 どうやら誉められているらしい。
「だがここまでだ。悪いが……」
 そう言うと、男は右手に下げていた剣を高々と掲げた。なすすべもなく、薫は頭上に振りかざされた剣を見上げた。刃がきらりと光った。

「……誰?」
「愛しい、アタシの子。アタシのスサ。須佐之男命(すさのおのみこと)ヨ」
「強いの?」
「すごく」
「ふうん……」
「惜しイ?」
「………」
 わからない。

 がしゃんと鈍い音を立てて、剣が手から落ちた。剣はそのままガラガラと回転して地面を滑っていった。
 腕がもげそうなほどの衝撃を覚えた。
 うそだろ……心の中で呟いた。明らかに勝てないと思いつつも、心のどこかで、もしかして……と思っていたのだ。今までだって勝てそうにない奴らを相手にして、どうにかやってきたんだ。だから今度だって……と。
 それが甘い考えだったことがわかった。圧倒的な力量の差、というヤツだ。男が一歩、前に出た。
「終わりだ」
 後ずさりすることもできずに、痺れる腕をぶらんと下げて、男を見た。窮鼠が最後に何を見るのかわかった。鼠が見るのは、死への直行便である真っ赤な口ではなく、猫の尻尾を見ているのだ。目の前の恐怖から逃れるために。
 目に入ってきたのは、さっき落ちて転がっていった十拳の剣だ。
 あれがあれば……どうだというのか。あれは今まで素晴らしい活躍をしてくれた。薫をリードして。だから、あれさえあれば……。
「トツカ……」
 呂律の回らない口調で、薫が言った。
 男はそれを聞き逃さなかった。
「剣を預けるとは、ナキもおまえに入れ込んでいたのかもしれないな。むろん、この十拳の草薙の剣の足元にも及ばないが、あれはまあまあの剣だ」
 ……あれ今、なんて言った? トツカの、クサナギの剣っていったか? それって、今俺に突きつけられている、この立派そうな剣のこと?
 だけど十拳の剣っていうのは、俺の持ってたやつのことじゃ……薫の頭は混乱した。いや、混乱という方法をとって〈死にかけている、しかも痛そうな方法で〉という現実から意識を逸らそうとしていた。
「だって、十拳の剣って、あれのことじゃ……」
 男は薫を哀れむような目で見た。
「ツカというのは拳(こぶし)のこと。だからトツカの剣というのは、十の拳分の長さの剣ということで、固有の名前ではない」
 眩暈を覚えた。じゃあ、十拳というのは長さの単位であり、一メートルとか三十センチとかそういうのと同じなのか。長けりゃみんな十拳の剣なのか。
 がっくりと、肩から力が抜けた。
 目の前で男の長い髭が揺れている。
 長い髭だな……。
 男がずいと前に出る。やられる、と思った。今度こそダメだ。さっき奇跡的に大雷を裂いたように、今度は自分があの大きな剣で……。
「戻れ」
「え」
「戻れ。ここまでよくやった。振り返ってまっすぐ進み、黄泉比良坂を上れば、帰れる」

 がたーん、と椅子を蹴倒してナミが立ち上がった。奈美里は驚いて彼女を見上げた。目が吊り上がっている。
 ビジョンの薫は、須佐之男命の言葉が信じられないように、突っ立ったままだ。

 我が耳を疑った。咄嗟に反応できない。
 薫の胸に剣を突きつけたまま、男は言った。
「俺は母君に言われたから、やむを得ず来たまでだ。お前のことはわかっている」
 わかっている? 
 男はにやりとした。口の動きと一緒に髭が揺れた。
「俺にも妻は何人もいるし、遊んでいる。当たり前のことで、騒ぐようなことじゃない」
 頭にかっと血が上った。わかっているって、そういうことか。
「だから、俺はそんなに気が進まないのさ。おまえは八種の雷神まで倒して、よくやった。母君は少し横暴だな。お前に同情しているよ。もういいから帰れ」
 同情? もういいから帰れ? ……ありがたいね。ああ、帰りたいね、帰りたい。こんなとこもうたくさんだ、うんざりだよ。こんな目に合うほどの何をしたっていうんだ? そう、お前も言ってくれた通り、俺はそれほどのことはしてないんだよ。
 だけど。
 薫は強く唇を噛んだ。血の味がした。
 まだ奈美里に会っていない。
 悔しい。くそ、腹立たしい。
 男がちくちくと草薙の剣で薫の胸を突いた。痛い。
 ああ、腹立つ。長い髭だな、ちくしょう。お前、何様だ? 
 薫は一歩引いた。胸が剣の切っ先から離れる。
 それから背を向けて走り出した……いところだが、代わりに、
「うわあああああああ」
 意味不明の大声を上げながら、男に向かって突っ込んでいった。男は、突っ込んできた薫の頭をむんずと摑んだ。男の力強い指の一本一本が頭骨に響く。頭が砕けそうに痛い。頭皮が引っ張られ、目が吊り上がる。首が体からちぎれそうだ。
 だが薫は、無我夢中で男の髭を引っ摑んだ。目的はこれだ。たとえやられても、このむかつく髭に一矢報いる。
 男が薫の頭を引っ張る。薫も男の髭を引っ張った。数本がちぎれた。
 その瞬間、頭を摑む力が緩んだ。頭がふっと軽くなり、もんどりうって地面に倒れた。激しい痛みが走る。でも手に握った、千切れた男の髭を離さなかった。
 この後すぐに来るであろう斬られる衝撃を予想して、薫はぎゅっと目をつむった。
 だが、しばらく待っても何も起こらない。おそるおそる目を開いてみた。
 男は消えていた。そこにあるのは闇と、たった今まで圧倒的存在感を誇る何かがいた、という空気のざわめきだけだった。
信じられない。いないと見せかけて、闇から突然、剣が振り下ろされてくるんじゃないかと思った。びくびくと首を巡らして、誰もいないことを確認すると、体を起こした。
 どこからか豪快な笑い声が聞こえてきた。

 わははははは。よく髭に気づいたな。母君、私の負けです。ははははは。

 それだけ言うと、声は余韻を残して消えていった。その余韻が消えるころ、ガシャーンというガラスを割るような音が、闇の奥から響いた。
 薫と男が戦った喧騒は薄れていき、身を潜めていた静寂がおどおどとかえってきた。薫は、ゆっくりと呼吸を整えた。
 この髭が男の弱点だったのか? でももしかして、最初から男はやる気がなかったのかもしれない。だから薫が、少しでも反撃する意志を見せたとき、もういいと思ったのかもしれない。
 母君に言われてやむを得ず、て言ってたし。
………母君? 男の母親って、誰? 

10
 闇の奥にぼんやりした小さな明かりが灯った。薫は目を凝らした。
 明かりは人影だ。人影がふぅわりと光っている。
 目まで疲れ切っているからよく見えない。でも人影は、次々と現れてきた異形のものたちとは違う。真っ直ぐに立つ華奢な体。
 奈美里だ。
 立ち上がって駆け寄ろうとした。だが立ち上がった瞬間視界がぐらりと揺れて、倒れそうになった。十拳の剣を杖にして、なんとか防いだ。
駆けていきたいのに、体が動いてくれない。やむを得ず、剣を杖にして一歩一歩進んだ。何度も倒れそうになった。だが人影は、薫のそんな、老人のような弱々しい姿を見ても動かない。
 それでも嬉しかった。久しぶりに、妻に恋する気持ちを思い出していた。やっと、やっとだ。辿り着いたら、何て言おうか。やっぱり名前? それとも「逢いたかった」? いやいや、何も言わなくてもいいんじゃないか、夫婦なんだから。
 人影まであと少し、というところまで来た。確かに奈美里であることが、もうはっきり見て取れる。
 だけどなぜなのか、やっぱりその姿がよく見えない。顔も体も奈美里であることがわかるのに、なぜか、全体を見ると輪郭がぼやけてしまう。
 何かがごんと当たった。目をぱちくりさせた。目の前を見つめた。何もない。進もうとする。またごんと当たった。
 何かある。見えない何かが。
 薫は手を上げ、辺りをまさぐった。ごつごつしたものに触れる。
 そこに、目に見えない岩の壁のようなものがあるのだ。これのせいで、奈美里ちゃんの姿がぼやけてしまっている。
 薫は、頭を前に押し出した。壁に当たる。十拳の剣を放り出して、手を振り上げて壁を叩いた。手が痛くなった。
壁の向こうの奈美里は、そんな様子を黙って見ていた。
 ちょっとやそっとで壊れたりするようなものじゃないとわかると、薫はわあわあ泣き出した。
 それでも人影は動かない。そのうち疲れてきて、泣き声が嗚咽に変った。

「奈美里……」
 人影は佇(たたず)んでいる。
「奈美里……もう、帰ろう………」
 人影は佇んでいる。涙がこみ上げてくる。
「奈美里、ちゃーん……」
 流れる涙を拭いもせずに、頬を伝うにまかせた。涙をたくさん流すのは、悲しくてつらい。なのに不思議に、甘くて優しい。
 薫が泣くのを見ても、人影は動かなかった。でも声は伝わっている。そう思った。
 何か、言い続けなければいけないんだ。何か言うべきときと、何か聞くべきときと、何も言葉はいらないときがある。それを間違えると、歯車はずれる。
「奈美里ぃーー……俺が……悪かった……だから、もう帰ろう……」
 人影がぴくりと動いた。
「……浮気、しちゃったんだよ……ごめん。もう、しないから……」
 火之迦具土や雷神や、須佐之男命と戦ったときの勇姿はどこへやら。薫は子どものようだった。
「ねえ……愛してるのは、奈美里ちゃんだけだから……」
 満身創痍のいでたちに似合わない、安手のドラマのようなセリフを薫は口にした。

見えない岩の壁は天岩戸(あまのいわと)。
 古事記において、黄泉に落ちた妻・伊邪那美の醜い姿に恐れをなし、夫・伊邪那岐は地上に逃げ帰った。その所業に怒り、追いかけてきた伊邪那美と、逃げる伊邪那岐を永遠に隔てた別離の岩。
 伊邪那岐は岩の向こうの妻から離れていったけど、薫は岩の向こうの奈美里を求めた。

 天岩戸の向こうの奈美里は、わずかに微笑んでいた。
「俺……ここに来て、すごくがんばったんだよ……」
(知ってる)
 声に出さずに奈美里はこたえた。
「信じられないくらい。俺、剣で戦ったりしたんだよ」
(知ってる。見てた)
「俺、普通の会社員なのに……走るのだって、学生のとき以来なのに……」
(それも知ってる。そんなに運動をしてないのに、不倫をする体力と気力はどこにあるんだろう)
「俺、すごかったんだよ。何人もの、強そうな、わけわかんない奴らを倒した。それも全部、奈美里に、逢いたいからだよ……」
 そこまで言うと、薫は力尽きたようにうなだれた。
 奈美里は心動かされていた。すべてを捨てたはずなのに。こうなるのが怖くて、とっとと自分を殺したのに。
 なのに今、薫への想いがこみ上げてくるのを奈美里は自覚した。
 一歩、足を踏み出した。薫が顔を上げる。
「薫……私に、戻ってきて欲しい?」
 薫は、残りの力を振り絞って、両手を壁につけて声を張り上げた。万歳をしているみたいだった。
「欲しい」
 張り上げたつもりなのに、掠れていた。喉だってとっくに限界なんだ。
「私のこと、愛してる?」
「愛してる、愛してるよ」
「大切?」
「大切! 世界で一番、大切」
 奈美里も、どうしたらいいのかわからなかった。近くに駆け寄っていきたい。駆け寄って、自分のためにぼろぼろになってしまった薫に、優しくしたい。
 でも、そうしたくない気持ちも消えない。そんな簡単な話なら、死んだりしないのだ。
 言うべき言葉が、湖の底に沈んでいる。湖は澄んでいるから、言葉を見つけることはできるのだが、どうもうまく摑めない。水は深いみたいだし。
「もう浮気しない?」
「しない。しないよ」
 ここぞとばかりに、薫は言葉を重ねた。
「浮気なんか、もう絶対、しないよ。僕には奈美里だけだ。あれは一時の過ちだったんだよ」
 見えない岩の壁に、薫はやたらと触れた。
「だから、ねえ、奈美里ちゃん。もう、許して……」
「……どーしたノ? 何、感動のあまり、泣いてるのノ?」
 ナミが、奈美里の横に来て言った。さっきまで立っていたのに、奈美里は急にうずくまってしまった。うずくまって顔を埋め、小刻みに肩を震わせている。
「どうしたノ」
 奈美里はナミを見上げた。顔が涙で濡れている。
「……違うの」
「何ガ?」
「……言ってることが、違うの」
「何が」
「一時の、過ちって、違うよぉ! 浮気したの、今回だけじゃないのよぉ!」
 悲鳴のように叫んだ。
「それって、そのオンナだけじゃなく、それとは別に浮気してたってコト?」
 こくりと頷いた。
「前に、会社の若い女の子と、してるの。何回か」
「……その話、ダンナから直接聞いたノ?」
「ううん。私が知ってるのは、相手の子が言いにきたから。自分が結婚することになっていろいろ清算したいからって。だから薫は、私が知ってるって知らない」
「……テことは、アイツはアンタが、前の浮気を知ってるってことを知らないで、『一時の過ち』っテ言ってるわけネ」
 ナミは、目を細めて岩戸の向こうのぼろぼろの男を見た。
「……でなきゃ、もう忘れてるのかも」
「クズだネェ」
 ナミの澄んだ声が風に舞って、辺りに散った。
「……どーすル? あの男と一緒に帰ル? それとも当初の希望通り、死ヌ? どっちでもいいヨ、アタシは」
 奈美里はうううと嗚咽を漏らした。
 ナミは長い髪をかき揚げながら、立っていた。
 薫は岩の向こうで、何が何だかわからない風でぺたんと座っていた。
 やがて奈美里が言った。
「………人生は、やり直しが、きくと思う?」
「キクわけないだロ、ばか。どっちみち、アンタが自分で選んだんじゃないカ」
 奈美里は、少女のようにくすんくすんと鼻をすすった。 

 そうだ、全部、自分で選んだ道だ。夫と女の関係なら、本当はとっくに気づいてた。
 仕事が忙しくて帰りが遅くなるという日が頻繁になったこと、以前より自分に優しくなったこと、セックスした後の薫の笑顔が、満足ではなく安堵の表情になったこと。
 心当たりならいくらでもある。こんなことは簡単にわかってしまうのだ。
 腹が立った。嫉妬した。だけど何もしなかった。 
 結婚後すぐに夫が、会社の若い女の子と不倫して、こともあろうにその女が悲劇のヒロインぶってやってきて、ぬけぬけと、
「薫さんとそういう関係にありました。でも私、今度結婚することになったので、もうやめようと思います。本当に薫さんのこと愛してました」
 と言ったときも、引っぱたいてやりたいくらい腹が立った。だけど我慢した。夫に対しても、何も言わなかった。
 なぜなら、嫉妬と腹立ち以上に怖かったからだ。平穏無事な自分の暮らしが壊れてしまうのが。そんなことになるくらいなら、多少の怒りや悲しみや嫉妬くらい、我慢したほうがまし。
 だって離婚して一人になってしまったら、どうやって生きていったらいいのかわからない。技術も特技もない。短大を出た後の数年間の事務経験のほかは社会経験もない。
 ずっと夫に、夫のおかげで成り立つ生活に、つまりは夫の収入に依存して生きてきたのだ。寄生虫のように。
 そうやって三十歳近くになった。今さらぽうんと一人になったら、明日、何をしていいのかわからない。
 今回も、しばらくしたらやめるだろうと思い、傍観していた。
 でもつらかった。毎日毎日が痛くてつらかった。そのうち何もかも億劫になっていった。
 だから止めを刺されたとき、死ぬことにした。そのほうが楽だったのだ。
 実は前から準備していた。後は飲むだけだった。
 相手の女から電話がかかってきて、あの「おくさん」の声を聞いたとき、心が決まった。わざわざ女の部屋まで出かけて行ったのは、現場を見て踏ん切りをつけるためだ。崖っぷちに立って、下を覗き込んで躊躇している自分の背中を押すために、奈美里は行ったのだ。
 どんな光景を見ることになるのかわかっていたし、予想通りだった。泣き叫んで、苦しい思いをする気なんかない。見た瞬間、これでつらくてつまらない毎日と、意味と意義のない自分の人生を終わらせることが出来ると思った。
 努力をしてこなかった、夢中になれない人生。夫ではなく自分が悪いのだ。

あとからあとから惨めな涙が溢れ出た。ナミが明瞭な声で言った。
「だけど、やり直しはきかなくテモ、そこからアタラしく始めることはできルんじゃないノ」
 大きな声ではなかったが、奈美里の耳にはっきり届いた。でもやっぱり涙は止まらない。
 天岩戸の向こうの男は、口をぱくぱくして何か言っている。男は、命がけの戦いをくぐり抜けてきた勇者だ。
「奈ぁーー美ぃーー里ぃーーちゃあぁーーーん……」

 黒い岩と岩の間に、黒い水が溜まっている。
 何かが跳ねたのか、ぽちゃーんという音がした。水銀の滴が水面を打ったような、高く澄んだ音だ。
 岩の一つにナミは座り、片足を立てて膝を胸元に引き寄せ、顎を乗せている。伏せた長い睫毛が瞳の表情を隠していた。
 遠くのほうから、声が響いた。
「ナミィ……」
 低いがよく通る声だ。けれど声の主は姿を見せない。うんと遠くのどこかにいるのか、闇の中すぐ近くにいるのか。 
「ナミ……」
 声が大きくなった。目を伏せたまま、ナミは微動だにしない。
「ナミ……今回は私の勝ちだろう」
 姿を現さないまま、闇の奥からナキが言った。
「……そうとは言えない。男は最後に違うことを言った。それで女の気が変わった」
 またぽちゃーんと音がした。
「……ナミ、私が悪かった。もう許してくれ……」
 闇の間から、ナキが姿を現した。
「ナミ……」
「来るな‼」
 ナミが鋭く叫んだ。ナキの姿は闇に消えた。
 辺りは再び、静寂に包まれた。

#創作大賞2023


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