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コジ 第3話

5
 腰を地面にくっつけるようにして座り込んだ。右手の指からは、しとしとと血が流れている。はぁー、はぁー、とゆっくり息を整えながら、流れる血を黙ってみつめた。
 痛い。指の先がじんじん痛い。
「痛いぃーーー。痛いよぉー……」
 こらえ切れずに声を上げる。だけど誰も来てくれない。左手でジャケットの内ポケットをまさぐると、かさりという紙の手応えがした。かさかさになった絆創膏が二枚、入っていた。痛む右手と左手でそれをめくり、右手の親指と人差し指に巻いた。血は絆創膏に赤い染みを作ってこぼれてきたが、ないよりはましだろう。
 顔を上げると、少し離れたところに池のようなものが見えた。相変わらず世界は暗いが、自分の周囲を見渡せるくらいには慣れてきている。
 足を引き摺るようにしてそこまで歩き、水に手を入れようとして躊躇した。ナキは、ここの食物や水は口にするなと言っていた。口にしなければ大丈夫だろうか。洗うだけなら……。
 少し考えて、やめておくことにした。
 そばに生えていた草をちぎり、それを絆創膏を貼っていない指に巻きつけた。
 そこまで終えると池のほとりに座った。膝を曲げ、足を胸に引き寄せ、両手で包みこむようにして。
「痛いよ……。ホントなら、今ごろは……」
 家に帰って、やわらかいベッドで寝ているはずだったのに。奈美里と体を寄せ合って。
「奈美里ぃ………」
 返事はない。
「奈美里ちゃ―ん……」
 泣きそうな薫の声は、闇に呑まれて消えた。

「………やるじゃナイ、彼氏」
 明瞭な、それでいてどこか艶かしい声がした。もし声を色で表すことができたら、限りなく紫に近い紅になるだろう。声から色気が匂い立つようだ。
「そうね」
 奈美里が淡々と言った。
「絶対醜女に捕まって、やられるだろうと思ってたんだけどナァ。意外」
「そうね」
「だってサァ、大体半分くらいは、あれにやられちゃうんだヨ」
「そう」
「そうそう、アイツらに捕まってサ、骨までしゃぶられるの。アイツら、そうすれば少しでも美しさを取り戻せるって信じてるんだヨ。そんなわけないってノ」
「そう」
「……なんだか、気のない声ネェ。うれしくないノ?」
「………」
「アラあら、黙秘」
「……」
 奈美里は黙って、目の前にあるビジョンを見た。奈美里と女のいるところも暗いが、その中に3D立体型ビジョンのようなものがあった。よくSF映画で見るような、映像を立体的に映し出し、実物がそこにいて動いているかのように見せる投影装置だ。
 女も画面を見つめた。ビジョンには男が一人、映し出されている。
 奈美里の夫、伊崎薫だ。彼は今、醜女との戦いの後、疲れて池のほとりで眠ってしまったところだった。
「……ねえ」
「ナニ?」
「私、どうなるの」
 奈美里は女に聞いた。女は、薄桃色の液体のグラスをくいと傾けた。
「さっき説明したじゃナイ。あの男次第。この闇の世界の中で、アンタのダンナがアンタを見つけ出すことができれば帰れル。そのときアンタが帰りたくなければ、それでもいいヨ。あの男がアンタを見つけ出すことができないか、あきらめたりすれば、アンタは帰れなイ。予定通り、アンタの選んだ未来が進行すル」
「……そんなのひどい。私のことが、夫に左右されるなんて」
「何言ってんのヨ。アンタの生活そのものが、あの男によって成り立ってたんじゃないノ。ナニを今さら」
「………私のダンナに、薫に、私が見つけ出せるはずないわ。無理」
「いいじゃナイ。そうしたら当初の予定通り、アンタは死ねるヨ。どうせアンタ自分から死んだんだから、別に文句はないでショ?」
 ミもフタもない言い方だった。
「……私に、自我の消滅する過程をもう一度辿れっていうの? あれってけっこう勇気がいるのよ」
「ダイじょうぶ。痛くないように、うまくやってあげるかラ。その辺は、ほらアタシ、プロだから」
「…………」
 そういう問題じゃない。だけど言っても通じなそうだ。女は俗世離れしていて、現実の道徳や常識が通用するとは思えなかった。
「自死したんだから、それくらいのこと堪えなさイ」
「…………」
「ダァイじょうぶ。かもヨ。アンタのダンナは、けっこうやるヨ」
 そう言って女は、ビジョンに映し出されている薫の寝顔にグラスを掲げた。
 確かに、薫の健闘は奈美里にも意外だった。一体夫のどこに、あんな力があったのか。うれしくないといえば嘘になる。半分以上が奈美里のためでなく、自分が助かるためにやったんだとしても。
 右手をかばうようにして、体を縮こまらせて眠る薫に、思わず毛布をかけてあげたいと思った。あんなところでうたた寝しちゃって、風邪引いちゃう。
 奈美里は首を振った。そんなことを考える自分が嫌だった。結局、私は死んだんだ。

 暗闇の中、目が覚めた。青白い明かりを頼りに歩いた。そうしたら女がいた。そのときはまだ頭がはっきりしていなくて、女を観察する余裕はなかった。
 今、改めて女を見ると、女はとても変わっている。
 色とりどりの掛け布やクッションで飾られた大きな椅子に座り、その上で長い足を大胆に組んでいる。
 ひらひらとした布を幾重にも身に着けて、胸元や足がはだけていても気にする様子はない。長いつややかな黒髪は、一度頭の上で結い上げてから下に垂らしている。
 スタイルは抜群。背が高くて、立つと奈美里より頭二個分は上だった。肌は白くて、手足は細く長く、動きはしなやか。顔は当然のように美しい。まるでボディーガードを十人も引き連れているスーパーモデルみたいだ。
 そして身体中に、緋や紫紺、蒼色の玉や輪の飾りをつけている。女が身じろぎをするたびにそれらがシャランシャランと鳴った。
 天女さま、という言葉が最初に頭に浮かんだが、その言葉からイメージされるような淑とした感じは女にはない。
 女の服や言葉は勝手で奔放だ。天女さまというよりはむしろ、好きに振舞う女神様だ。
 その外見で、薄桃色のグラスを傾けている様はまるで一枚の絵のようだった。美しく艶やかで、そして生々しい。
 端から見ると、豪華な女と、平凡な主婦の奈美里が並んで座っているさまは奇妙に見えるだろう。けれどそれは別にどうでもいいことだった。
「それ、私も欲しい」
 奈美里は、女の飲んでいるグラスを指して言った。
「だめ」
 短い返事を返すと、女はこれ見よがしにゆっくりとグラスに口をつけて見せた。液体が女の白い喉を通過する、クッという音が聞こえてきそうだ。
「……喉が渇いた。何か欲しい」
「我慢しなサイ。ダンナだってあんなに動いているのに、ずっと飲まず食わずでがんばってるじゃなイ。ダンナがあきらめたりやられたりしたら、飲ませてアゲルよ」
「……ねえ」
「何」
「この後どうなるの」
「見てればわかるヨ」
 奈美里は肩を竦めた。

6
 はっと目が覚めた。目が覚めても、まだ夢の世界にいると思った。なぜならどこもかしこも真っ暗だから。薫は瞬きした。まだ暗い。いくら待っても、一向に明るくならない。
 薫はようやく、どこにいるのか思い出した。
 いつの間にか眠ってしまったらしい。スマホを見ようとして、持っていないことに気がついた。
「ああ……カバンに入れてたんだ……」
 目の前の黒い泉が、静かな水面をたたえている。時折りピチャーンという何かが跳ねる音がする。それ以外何も聞こえない。さっきまでの騒ぎが嘘のようだ。
 静寂の中じっと座っていると、闇に溶けて消えてしまいそうだ。どこまでも続く黒が、薫のちっぽけな意識と体など呑み込んでしまうかのように。
 慌てて首を振った。さっきからどのくらい経ったんだろう。時間の感覚がまるでない。
「あてて……」
 体を動かそうとすると、あちこちがぎしぎしと痛んだ。だけどこのままこうしていても仕方がない。ずっと休んでいたいのはやまやまだが、ここにいても奈美里のほうから現れることはなさそうだ。
 瓢箪の水を一口飲んだ。ぬるい水がからからになった喉を潤していく。風呂の水が、こんなにうまいなんて。
 重い腰を上げた。再び暗闇の中を、あてどもなくさ迷うために。
「奈ぁ美里ぃーーー……。奈美里ちゃ―ん。なーみーりー」
 こんなに名前を呼んだことって、今までなかったんじゃないかな……。
 薫にとって、その名前だけが唯一の頼りであり、支えだった。その名前だけが、平和な、あたたかくて気持ち良いものへと導いてくれる。これをなくしてしまったら、自分は闇に呑まれてしまうだろう。
 ようやく薫は、疲労した心と体でそのことを理解してきた。

 しばらくすると、前方に異様な気配を感じた。
 見渡す限りの黒だった世界に、ぽつんと赤い光が見える。と思った瞬間、それはみるみるうちに大きくなった。近づいている。
 焼けるような熱風が吹きつけてくると同時に、ゴオゥッという轟音が耳を劈(つんざ)く。
「火⁉」
 薫を目がけてくる一直線に近づいてくる、それは炎の怪物だった。赤く朱色に激しく燃えさかる炎を身に纏(まと)い、炎は闇の空高く舞い上がり、火の粉となって降り注ぐ。駆け抜ける炎の残滓(ざんし)は、彗星のように闇に輝く。
 大きな体躯が、もしや体が大きい分動作は鈍いんじゃないか、というそれに出会ったものが誰でも抱くであろう淡い期待を打ち砕いて、俊敏に駆けてくる。
 近づくにつれ、燃えさかる炎の中に四つ足の生き物が見えてきた。獅子だ。獅子に似ている。黄金の鬣(たてがみ)を風になびかせて咆哮する百獣の王。ただし今それがなびかせているのは、黄金ではなく炎。
 一刻も早く逃げなきゃいけないのに、薫は、暗闇に舞う炎の美しさに見惚れた。
「あの紅蓮の炎に焼かれたら、俺みたいなヤツの罪と汚れも浄化されるんだろうか……」
 なんとなく見当違いなことを言いながら、だけどその瞳の中の獰猛さと敵意を認めないわけにいかなかった。
 怪物の口の端が上がっている。笑っているのだ。残忍な肉食獣の表情だった。
「馬鹿者! あれは浄化してくれる聖獣なんかじゃない! 狙った獲物に噛みつき引き裂き、喰う。暗黒の世界を徘徊する獣だ‼」
 ナキの声がした。夢から覚めたように、薫は悲鳴を上げて逃げようとした。だが遅い。身体の向きを変えようとしたその瞬間、獣が高く跳躍した。
「うわああああ」
 薫のところまで、まだゆうに五メートルはあったであろう距離を一息に飛び越えた。ゴッという音と炎を舞い上がらせながら、獣は薫に踊りかかった。
 頭上から振りかぶってきた最初の一撃を、すんでのところでかわす。かわした拍子に、ジャケットの裾に火が燃え移ってしまった。慌ててバタバタはたきながら、向き直って体勢を整える。
 獣のほうも、思いがけず攻撃をかわされてバランスを崩したようだったが、ひらりと、たった今まで薫の立っていた地面に着地する。
 薫と獣は正面から対峙した。
 獣が薫を見つめる。赤い炎の奥に光る、白い双眸(そうぼう)で。薫も負けずに睨み返した。嫌だったが。だって目を逸らしたらかかってくる。じっとりと背中をつたう汗が、緊張のせいなのか、獣から吹きつけてくる熱風のせいなのかわからない。
 獣は再び跳躍し、薫に踊りかかった。
 顔のすぐ斜め上に迫った怪物の前肢に向かって、棍棒を思いっきり振った。  獣がギャンと鳴く。奇跡が二度起きた。
 どうやら破れかぶれの一発が当たったらしい。が、間髪入れずにまた襲い掛かってくる。それをまた紙一重でかわし、次の攻撃を棍棒で払った。
 次々と繰り出されてくる獣の攻撃を、よたよたと何とかかわしていった。何の神様が気まぐれを起こして、薫を助けてくれたのか。
 そのうちに、怪物の動きは大きな体に似あわず俊敏だが、もしかしたら頭のほうはそんなに良くないかもしれない、ということに気がついた。
 動きが単純なのだ。前肢を振り上げ、炎を撒き散らしながら鋭い爪を薫の顔に叩きこもうとするか、大きな口を開けて牙で頭を噛もうとするか、のどちらかなのだ。その順番とタイミングさえつかめば、何とかかわすことができる。
だがそれが精一杯だった。攻撃する余裕がない。したくても、どうやったらいいかわからない。
 獣はただ、薫が疲労して動けなくなるのを待てばいいのだ。
 もしかしたら、薫が攻撃をかわしているのではなく、獣が薫をいたぶって遊んでいるのかもしれない。猫が鼠を、追い詰めてすぐには殺さないように。
 戦局が変った。獣の振りかざした肢を棍棒で振り払ったとき、炎がとうとう燃え移った。棒の先がめらめらと燃え出す。慌てて棒を振って火を消そうとしたが、風を受けてますます強く燃えさかり、熱さのあまり棍棒を落としてしまった。獣が、瞳と唇の端を吊り上げる。これほど熱いのに、全身が氷に包まれたようになった。
 獣が炎の舌で唇を舐めた。急がず、ゆっくりと、おもむろに口を開けて飛びかかろうとしている。いっそ意識を失いたいと思った。体を焼き尽くすほどの炎は、きっとすごく痛いんだろう。
 薫の意識の中で、すっと怪物の姿が遠ざかっていった。熱風もゴウゴウいう音も、急速に引いていく。すべてが遠くなろうとしている中で、ぽちゃと何かの音がした。薫に向かって自己主張している何かがある。
 この音って何だっけ。炎に不釣り合いな、そう、あれは水の音……。
 薫の目がかっと開いた。世界が駆け足で戻ってくる。
 棍棒のほかに唯一ナキが持たせてくれたもの、それを腰から引き剥がし、手を、伸ばさなくとも届く距離に迫っている赤い獣の大きな顔に、思いっきりぶちまけた。

ぐぎゃぁぁぁあああああ

 暗い悲鳴が響き渡る。至近距離で聞いた薫は、頭の奥で銅鑼を叩かれたように脳みそがぐぁんぐぁんと揺れた。
 じんじんと痺れる耳を両手で塞ぎながら見ると、獣は地面を転げ回っている。顔から真っ黒な煙が立ち昇り、じゅうじゅうという音が聞こえた。
炎の獣が焼かれるというのも妙だが、その音と匂いは、確かにものが焼けるときのそれだった。
「効いたんだ……」
 ナキにもらった、風呂の水。
 
 呆然と座り込んで、獣の、じたばたもがき苦しむ様を見ていた。
「すごいじゃないか」
 張りのある声が、あいかわらずどこか他人事のように聞こえてきた。薫は疲れ切って声も出ない。
 獣はどうやら反撃してくることはなさそうだった。黒い煙を顔から立ち昇らせながら、うぎゃあうぎゃあと火の粉を撒き散らしてもがいている。
 もう大丈夫だと思った。ナキが、現れたまま消えないことがその証拠だ。でも勝ったという興奮や高揚感は感じなかった。
 もうちょっとで、あの熱そうな火で焼かれ、大きな獣に噛み砕かれて死ぬところだったんだ……。
「あれは火之迦具土(ひのかぐつち)だ。ああやってこの世界を徘徊していて、獲物を襲う」
 ヒノカグツチ……その言葉の音に、どこかで聞き覚えがあるような気がした。
 あれぇ、どこだっけ……。
「あれにやられるものも多いんだ。なかなかやるじゃないか」
 ……どうやら誉めてくれたらしい。
「私も個人的に、あれには思い含むことがある。おまえが勝ってくれてうれしいよ」
 声のトーンがほんのわずか落ちた。薫はナキを見た。黒く長い睫毛が、瞳に暗い影を落としている。続きを話してくれるのを待ったが、ナキはそれきり口を噤んでしまった。仕方がないので、別のことを口にした。
「あの水が効くとは思わなかった。あの、風呂の水……」
「禊の水は聖なる水。聖水だ」
 ああ、そうか。だから風呂の水を汲んできたのか……。

 ぐぎゅるるるるという、低い呻き声が聞こえた。見ると、炎の獣はいつの間にか転げ回るのをやめて座っている。聖水で焼かれた顔の一部は真っ黒に焦げているが、煙はもう出ていない。
 薫がさっと緊張する。ナキが落ち着いた声で言った。
「大丈夫だ。もうやつは襲ってこない」
 それを聞いて薫はあらためて獣を見た。体を包む炎が一回り小さくなっている。
「一度負けたら、二度襲ってはいけない。そういうルールなんだ」
「……ルール? ルールって何」
「……ところでどうだ。元の世界に帰りたいか?」
「か、帰るって……帰れるの⁉」
「望むなら」
「だって、そしたら、奈美里ちゃんは……」
「どうにもならない。帰ったら、おまえが最後に見た状態のままだ」
「じゃあ、……だめじゃないか……」
「だめとは?」
「帰れないだろ! このまま帰ったら、何のためにここに来たのか……」
 薫の言葉に、ナキは大きく口を開けて笑った。薫は驚いた。初めて見る、屈託の無いナキの笑顔だった。
「ならばこれを貸してやろう」
 そう言うと腰の紐をほどき、ナキは薫に最初のあれを渡した。あの長くて重い剣だ。
「多分もう使えるだろう」
 手を伸ばし、それを受け取った。ずっしりと重い。だけどその重みは、もはや薫にとって非現実的なものではなくなっていた。その重みは、薫を守ってくれるもの、薫と一緒に敵を倒し、災厄をかわし、奈美里のもとへと導いてくれるものだった。命を護るものの強さと優しさが剣から伝わってくる。
「十拳の剣だ」
「トツカの剣……」
 意味はわからないが、薫はその響きに頼もしさを覚えた。
 鞘から抜き、闇の世界の黒い天にかざして、つくづくと眺めた。
ふと横を向くと、ナキはもういなかった。

「良かったじゃナ~イ。彼氏、アンタを置いてかないって」
 長い足をぶらぶらさせながら、揶揄するように女が言った。
「……あれはいいの?」
 女の言葉は無視して、奈美里はビジョンに映し出された火之迦具土を指した。すっかり鋭気をなくし、柴犬くらいの大きさになって薫の後をついていっている。
「アア……傷はそのうち治るサ。一応、あれも神だからネ」
「なんか、後、ついてってるけど」
「久しぶりに反撃されたから、驚いて、逆に興味が湧いちゃったのかもネ」
 肩を竦めて、女は両手を広げてみせた。
 火之迦具土と女の関係に、奈美里はもう勘づいている。それだけじゃなく、奈美里は、女と、薫のもとに時折り現れる男の正体について大体予想がついていた。

 奈美里は短大卒だが浅学ではない。短大に行ったのは、「女は結婚して子供を生むんだから、四大に言ったらその分遅くなるじゃない。どうしても行きたいんなら、二年分の学費は自分で出しなさい」という母の言葉のためだった。
 自分で学費を稼ぐだけの自信はない。だから親の言う通りにした。
 短大では国文学科を選んだ。親は「家政学科か、せめて英語をきっちりやるとこにしなさい」と言った。だけど奈美里は、そこは自分の意思を通した。もともと国語や歴史が好きだったのだ。「私はやりたいことをやるの」と言って、親の反対を押し切った。だが短大での二年間の勉強は、社会で役に立たなかった。
 就職活動のときは苦労した。短大で学んだこととは何の関係もない、小さな化粧品会社の事務に決まった。それでもラッキーだった。中には最後まで決まらずに、表向きは「やりたいことを見つけるためアメリカに留学する」といって、そのまま連絡が取れなくなってしまったり、何年もフリーターのままの子もいる。 
 だから、役に立っていないとはいえ、日本史は多少知っているのだ。薫は謎の男を「ナキ」と呼んだ。それから真っ黒なこの世界。醜女、火之迦具土。もうわかる。
 ここははるか昔の夢の世界、日本神話の世界なのだ。日本の創世を物語った「古事記」、その中には黄泉=死後の世界も描かれていて、そこでは醜女や炎の怪物、火之迦具土などが登場してくる。
 そして薫がナキと呼んだあの男。あれは、日本の国造りの神の一人、伊邪那岐命(いざなきのみこと)ではないのか。
 私、黄泉に来ちゃったんだ。……っていうか、黄泉ってほんとにあったんだ。意外。
 あの男が伊邪那岐命なら、この女は多分……。それなら薫に倒された火之迦具土は、女の子どもということになる。
「ヒノはあそこを自由に動き回っていて、いつ出会うかわからないの。最初にヒノに会って、焼き殺されちゃう男もいるんだヨ」
「最初に?」
「そう。歩き出してから数十秒で」
「悲惨……」
 言いながら奈美里は思った。最初に焼き殺されたといえば、この女がそうではなかったか。火之迦具土を生んだときに、その炎で焼かれて、黄泉に落ちたのではなかったか。それを追って伊邪那岐命が……。
 淡々と話す女の表情はいたって平静に見え、内心では何を考えているのかわからなかった。
 そのとき女の背後の暗闇から、ビビビという機械のような音が聞こえた。驚いて振り仰ぐと、闇の一点が歪み出している。そこに突然、火花のような光が瞬いた。続いてバチバチバチッという、電気のはねるような音。
 光の中から鳥が現れた。奈美里は、この鳥も火之迦具土のように、体が炎で覆われているのかと思った。だが違った。鳥が纏(まと)っているのは火ではなく、火よりも白く火よりも鋭い、電気だ。 
 鳥は発雷していた。空気をバチバチいわせながら、女の肩に止まる。
「なかなかヤりますな」
 鳥がしゃべった。驚いて鳥を見上げたが、鳥のほうは奈美里に一瞥(いちべつ)もくれない。
 大きい。翼を広げれば、三メートルはあるのではないか。
「ほんとォ」
「ドウしましょう。もうワタシたちがイってもイイですか」
 女は、ビジョンの薫から視線を外さないまま頷いた。薫は後ろをついてくる火之迦具土に、なぜか得意げに話しかけている。
「おイき」
「ショウチしました。ナミさま」
 再び闇が歪み、鳥は消えた。
 奈美里はその会話を聞いていた。鳥は女を「ナミ」と呼んだ。間違いない。
薫はわかるだろうか。以前に話したことがあったが、薫は「うん、うん」と頷きながらスマホの画面ばかり見ていた。

#創作大賞2023

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