「毎日かあさん」のイジメ 西原理恵子と闇金サイハラさん
西原理恵子が毎日新聞に連載していた「毎日かあさん」は、手塚治虫賞などを取り、一時は有名な人気漫画だった。
離婚した元夫ーーカメラマンの鴨志田穣さんの最期を看取る場面は中でも有名だ。
その元夫の死を看取ったあと、落ち込んでいる自分(かあさん)を、子供たちが「変顔」で笑わせてくれた、というエピソードがある。
映画版では、小泉今日子が「かあさん」を演じていた。その場面はクライマックスに近い。「子供ってありがたい」「子育ては素晴らしい」と思わせる場面だ。
しかし、あれは、「いじめっ子」であるかあさんが荒れるのが怖いから、「いじめられっ子」である子供たちが、かあさんの機嫌をとっているだけだ、という見方がある。
その見方を私はツイッターで見た(誰のツイートかは忘れてしまった)。
西原理恵子が実際に子供をいじめていた「いじめっ子」であったのが、娘の告発のよってわかったので、その見方が正しいのではないかと思うようになった。
一見「美談」に思えることが、見方を変えれば、「イジメ」の現場になる。見方によって意味が変わる場面の典型例と言えるだろう。
西原理恵子の評価
西原の人格は邪悪だったのだろうか。シングルマザーであり、多忙を極める人気漫画家だった西原理恵子は、育児にきめ細かい配慮をする余裕がなかっただけかもしれない。
子供たちからみれば、多くの編集者やファンをひれ伏させる「かあさん」は、決して怒らせてはいけない、絶対の権力者に見えただろう。それが西原の意図でなくても、子供たちにとっては、「母親」とは別の姿に映っていた。
私は、娘さんとの確執を聞いても、結局のところ、西原の「いじめ」を大したことだと思っているわけではない。そういうことは、多くの家庭にありうることだと思う。以前のnoteにも書いたが、子供たちは、経済的豊かさを保証されていただけでも、恵まれていたとも言える。
それに、彼女はそもそも「清く正しい」イメージではない。
最近Netflixで始まった「闇金サイハラさん」の(イメージ上の)モデルは、西原理恵子だろう、と誰もが思うはずだ。
西原理恵子はもともと「闇金」的イメージであり、美談が似合わないといえば似合わない。
だが、彼女の場合は、高須克弥のようなマスコミのスポンサーという実際の権力者、そこから、保守系の政治家や安倍晋三のような本物の権力者と結びついてしまったことで、イメージ的に、言い逃れができない「いじめっ子」になってしまった気がする。
彼女自身がそれを目指したわけではなく、むしろ自分は「アウトローだ」というサブカル意識で権力から距離を取っていたはずが、高須との結びつきを契機に、「いじめられっ子になるよりはいじめっ子になりたい」が現実になってしまった。
それまで反権力ポジションを取っていたから、逆境の中の逞しさに見えたものが、金権にまみれた背景に代わり、毒舌もイジリも、むき出しの暴力に見えるようになってしまった。
それを象徴するのが、映画「翔んで埼玉」の宣伝に高須クリニックが絡んだ途端、非難が起こった一件だ。
「翔んで埼玉」を成り立たせている自虐的な差別ギャグが、アウシュビッツ否定論者である高須が絡むと本物の差別になって、シャレがシャレでなくなると感じる人が多かった。
西原理恵子がこのようになったのは、残念なことだった。周囲にとっても、本人にとっても。