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「子ども」ではなく「子供」と書く理由

PTAの役員になると面倒だ、という話題の中に、言葉づかいへのやかましさがよく挙げられる。

例えば、会報などで「子供」と書いちゃダメ、「子ども」と書きなさい、とうるさく教えられるという。

まだそんなことをやっているのか! というのが正直な感想だ。

「子ども」表記が広がったのは、1980年代の後半だと思う。

なぜなら、はっきり覚えている。

私は編集者だった。ある新聞記者が、原稿に「子ども」と書いてきた。

記者のくせに漢字を知らないのか、と思って私が「子供」と直すと(まだ手書き原稿の時代だ)、記者がゲラ段階で「子ども」にしてほしいと言う。

「なんで『子供』じゃダメなんですか」

「君は新聞を読んでいないのか。子供の『供』は、『お供』とか、付属的、従属的な意味があるから、子供にサベツ的なんだ」

「はあ? どういうことですか? もう一回説明してもらえますか」

しかし、何度説明されても、わからない。

「その理屈なら、『こども』って言葉自体がダメですよね。なんで『供』をひらがなにすればサベツ的でなくなるんですか?」

「実は俺もよくわからん」

「一つの単語を、漢字とひらがなで混ぜ書きするのは、基本的に避けるべきだと思いますけどねえ。美学的にも。『大人』とのバランスが悪いし」

「とにかくそうなったんだ。仕方ないだろう」


どうも、国連の「子供の権利条約」採択(1989)のとき、そういう話になったらしい。

そもそもこの条約の正式名称は「児童の権利に関する条約」だ。

それが「子供の権利条約」と通称され、かつ「子供」を必ず「子ども」と表記(「子どもの権利条約」)しなければならない、となった経緯は知らない。

子供の人権を表記の上でも尊重するため、とか何とかの理由だろう。

経緯は知らないが、結局は例の「国連の方から」の威光であろう。

どうせ朝日新聞あたりがそれを担ぎ回ったのだろう。

「子ども」という表記が広まったのは、それからだと思う。

もちろん、子供たちが

「子供という表記はサベツ的だ! 使うな! 『子ども』にしなさい」

と声をあげたわけではない。


1980年代後半あたりは、「言葉狩り」のピークだった。

たとえば、ある日突然、「床屋」という言葉を使えなくなった。

その理由はいまだにわからない。理髪店という言葉に対して、床屋は立派な言葉ではない。立派ではないほうの言葉で呼ぶのは職業差別だ、ということだろうか。

「床屋って言葉が使えないから、床屋談義とか、床屋政談、なんかも使えない」

と、あるライターがぼやいていたのを覚えている。

いまは「床屋」という言葉は復活している。このあいだ街を歩いていると、「とこや」という名前の理髪店があった。

「床屋」には、「理髪店」よりも、リラックスし、のんびりしたイメージがある。

だから「床屋談義」とか「床屋政談」という言葉もあるのだが、「床屋」という言葉が一時使えなくなったために、こうした言葉が忘れられた気配がある。文化的損失であろう。

いずれにせよ「子ども」という表記には、あの頃のビクビクした空気がよみがえってきて、嫌なのである。

それもあって、私は意地でも「子供」と書く。


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