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残虐なる日本人 日本人=「プレデター」説

以前の記事で引用した通り、想田和弘さんは、非暴力主義者であり、侵略された場合でも戦いを拒否する。

僕自身は、「相手を殺してまで生き延びたい」とは思わない人間である。(中略)武器を取って相手を殺すことが(おそらく何人も!)、そもそも自分にできるような気がしないし(自分を殺そうとしている人間を殺すというのは、そう簡単なことではないと思う)、たとえ殺すことができたとしても、それが自分の幸福につながるようにも思えない。

マガジン9

いかにも9条信者らしく、戦争と殺人を同等に見ている。

かつて共産党が、防衛費を「人殺し予算」と言って非難されたが、同じようなセンスだろう。

戦争は、政治的勝利を目指し、ある倫理やルールに則って行われるのが通常で、最初から無法な「殺人」とは分けて考えるべきだ。

それでも、結局は「殺し合い」ではないか、と言われれば、そうかもしれない。

いちおうそれを認めた上で話を進めたい。

自分が人を殺すことが想像できないのは、私も同様である。

私も、想田さんと同じく、戦後日本の平和教育を受けて育った人間だ。虫を殺すことにすら罪悪感を覚える。


「残虐さ」で有名だった日本人


しかし、戦後すぐの時期、日本人は「残虐な民族」だと思われていた。

いま、ウクライナ侵攻のブチャ虐殺などで、「ロシア人は残虐だ。昔からそうだった」と言う人がいる。

しかし、戦後は日本人のほうが「残虐さ」で有名だったことを忘れている人は多い。

民俗学者の千葉徳爾は、名著『たたかいの原像』(1991)の序章で、次のように書いている。

筆者が第二次大戦の敗者としてシベリア抑留生活二年半の苦役を終え日本に帰ってきたとき、多くの日本もしくは日本人批判の文字や声の中に、「日本人は残虐なる民族である」というものが少なくなかった。(中略)そこで、この日本人についての「残酷」とはどのような内容をもつかを明らかに知りたいと考えた

『たたかいの原像』p13

千葉はロシア人の残酷さを経験し、「自分が過して来たシベリアの収容所生活もかなりひどいものであった」のに、日本に帰ってくると、日本人の方が残虐だと言われていて、驚いたわけである。

「プレデター」は日本人がモデル


ハリウッドの人気映画「プレデター」は、そうした戦後すぐの日本人のイメージ、その「残虐さ」をもとにしている、と思う。

正式な設定になっているかは知らないが、あれを見れば、外国人が思う「武士」がモデルだと思ってまず間違いないだろう。

ネットで検索しても、プレデターが「武士道」に従って行動している、と見る人が多いのがわかる。

女子供、弱っている者は襲わない。

強そうな者を選び、1対1の真剣勝負を望む。

そして、その相手を無慈悲に、徹底的に倒す。

この最後の「徹底的に倒す」点が、武士道の、ひいては日本兵の行動の特徴だと思われた。

それが、「日本人は残虐」というイメージに結びつく。


斬首の慣習


それは、武士道の民俗史料を研究した千葉徳爾の結論でもあった。

勝つならば徹底的に相手を倒す。戦闘の相手の首を斬って主将あるいは仲間に示すという作法が(中略)日本人のたたかいかたの形態上の注目すべき特色である。(中略)こうした徹底的な殺害方式、ことにその形が斬首であったことが、日本人が残虐な殺しかたをするという考えを多民族に与える点で、かなり効果をもったと思われる。

『たたかいの原像』p294

映画「プレデター」にも、敗者の首を切り取って鬨の声を上げるシーンがあったと思う。

西洋にも、トドメを刺す、mercy killの考え方はあると思うが、倒れた者の首をいちいち斬るという徹底性は、異様で野蛮に見えるのだろうか。

(もっとも、この間、韓国映画「代立軍」を見ていたら、かつての朝鮮軍も敗者の首を切り取っていたから、日本だけではなかったかもしれない)

日中戦争でも、捕虜に同じことをしたという話があって、それが戦後「日本は残虐な民族」というイメージを強化した、と千葉は見ている。


千葉も言うとおり、かつての斬首の慣習にも文化的背景があり(怨霊信仰など)、ただちに日本人の残虐さを示すと思われるのは、日本人としては不満だ。

いずれにしても、それは過去の日本人のイメージである。

いま「プレデター」を見て、あれは日本人がモデルだ、と思う人は、むしろ少ないだろう。

しかし、いま「ロシア人は残虐だ」と言う人も、日本人がずっと「平和主義的」だと思う人も、かつて日本人は「プレデター」のように思われていたことは、知っておいていいかもしれない。





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