見出し画像

「強者」と「弱者」のあいだ 中間の文学のために

少し前の話題になったが、市川沙央氏が芥川賞を取った時、

「重度障害者の受賞なぜ〝初〟か考えてほしい」

という発言が、ちょっと波紋を呼んでいた。


芥川賞の件ひとつどうかと思うことがあって、近代日本の文学史には、障害者やハンセン病者の作家による豊かな蓄積があるんですよね。そういう先行作品がまるで存在しないかのような物言い(報道の問題かもしれないが)をされているところが気にはなりました、選ぶ方も知らないのでしょうかね



病者や弱者に「寄り添いたい」という、今の主流マスコミの論調があるから、その方向に世論が(また文学賞も)操作されている可能性はあるでしょうね。

ただ、強者と弱者、病者と健常者、差別者と被差別者、といった対立項は、文学含め思想・芸術の中では絶えず話題になってきたことだから、この機会にもう少し議論されてもいいだろうと思った。

LGBTとか、ポリコレ、キャンセルカルチャーとかの問題にも接続するからね。

でも、今のところ、あまり議論の広がりは見えない。


私が市川氏の発言で最初に連想したのは、トーマス・マンの「ゲーテとトルストイ」です。

トーマス・マン「ゲーテとトルストイ」(岩波文庫)


これは、1922年の講演録だから、101年前のものですね。

有名な講演だと思いますが、ここでトーマス・マンは、「病める者」と「健康な者」の両者を比較して、どちらにも「高貴さ」がある、という議論を展開する。

「病める者」の代表として挙げられたのがシラー(結核)とドストエフスキー(癲癇)で、「健康な者」の代表がゲーテとトルストイでした。

ごくごく単純化すれば、マンはここで、以下のような対立図式を用いている。


「ゲーテ、トルストイ」VS「シラー、ドストエフスキー」

「自然」VS「精神」

「健康」VS「病理」

「長命」VS「短命」

「古典主義」VS「ロマン主義」


そしてトーマス・マンは、対立する両者の「中間」に真理があることを明言します。


対立しあうもののあいだを、とらわれない誠実さと倫理性をもって、いや、この欺瞞的な「中庸」の敬虔さをもって、認識と洞察と世界市民的な教養に対する信念をもって、移り動く
(岩波文庫p208)


ーーことを、20世紀の芸術家として、自分のモットーとするわけです。


中庸というこの実り豊かな困難さよ。汝は自由であり留保なのだ!
(岩波文庫、同)


中庸が「欺瞞的」であり、ときに偽善的で優柔不断的であっても、それを選ぶという決意。

「病める者」の「健康な者」の中間に立つ、という文学観からどんな文学が生まれるかといえば、「ベニスに死す」などを思い浮かべるといいでしょう。


よく知られるように、これは単なる文学論ではありませんでした。

1922年、トーマス・マンの目の前には、ボルシェビキによる共産主義革命運動と、ヨーロッパにおけるファシズム運動の両方がありました。

「弱者」のイデオロギーである共産主義と、「強者」のイデオロギーであるファシズムの両方に、トーマス・マンは対抗しなければならなかった。

どちらも強力なイデオロギーであって、民主主義とか自由主義とかは、弱々しく感じられました。それは、現在でもおそらくそうでしょう。

その状況下で、文学上の「中庸」と、政治上の「自由」を守ろうとしたトーマス・マンの熱弁は、いまも胸を打つ内実があります。


当然ながら、その「中庸」の難しさをわかっていたのもトーマス・マンでした。

20世紀のインテリは、どちらかというと弱者に負い目を感じ、共産主義にシンパシーを感じるようになる。トーマス・マン自身も、のちにそういう批判をされることがありました。


20世紀のファシズムも、共産主義も一応落ち着いた現在。

21世紀の現在も、やはり「中庸」の難しさを感じます。

私は、現状はどちらかというと「強者」「健常者」の「高貴さ」が無視されがちだから、「弱者」「病者」への傾斜を常に警戒しています。

健康であり、「まとも(ストレート)」であることが、そのまま「残忍さ」を持つことはトーマス・マンも指摘しています。しかし、そこに自然の「高貴さ」を認めないことには「美」の認識は始まりません。

とはいえ、もちろん私も、誰であっても、100パーセントの「強者」「健常者」ではなく、「弱者」「病者」への共感をあわせ持っているものです。


いずれにせよ、「病める者」と「健康な者」の理念的な対立は、100年前と同様、いまも未解決であることは確かです。

そして、文学、思想は、トーマス・マンのいう「とらわれない誠実さと倫理性」をもって、両者の中間に立つべきだというのも、また確かだと思うわけですね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?