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森元首相「杖をついていると障害者に見えて大事にしてくれる」の何が問題か

またまた「森元」が問題発言というから、何事かと思った。

しかも、「速報」で流れてきた。

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私はたっぷり1分間、この発言の何が問題なのか、考えてしまった。本当にわからなかったのだ。

「障害者」は別に差別語ではないだろう。

(子供の「供」がよくない、というのと同じような理屈で、障害の「害」がよくないとうるさく言う人もいることは知っているが、くだらないと思う。「害」が悪いなら、「障」も悪いし、ひらがな「がい」にしても同じだろう)


そこで、ネットでこのニュースへのコメントを読むと、

「杖=障害者=悪」のような価値観で発言しているからよくない、

らしい・・

やっぱり、よくわからない。この発言から、どうしてそういう価値観が読み取れるのだろう。


多くのメディアで、「杖をついていると障害者に見える」と切り取られて見出しになっているが、より正確には以下のような発言だった。


「杖をついていると身体障害者に見えてみんなが大事にしてくれるだから杖をつかっている」


「杖をついていると障害者に見えてみんなが大事にしてくれる」

地元での「軽口」には違いないだろうが、これが障害者を揶揄していることになるのだろうか。


もしかしたら、

「障害者を大事にするのは当たり前なのに、それをことさらに言うのは、本当は当たり前だと思っていないから、つまり、障害者に差別意識があるからだ」

という思考が働いているのかもしれない。

しかし、その勘ぐりは、間違っているのではないか。


そんな風に思うのも、私がたまたま、Netflixの新作映画「西部戦線異状なし」(反戦映画の古典のリメイク)を見ていたからかもしれない。

第一次世界大戦を扱った映画だが、その中に、次のような印象的な場面があった。


若いドイツ人兵士の主人公が、戦場の診療所で、傷を負った戦友と再会する。

その戦友は膝に銃弾を受けていた。

「足は切らせない。障害者(cripple)にはなりたくない」

と戦友は訴える。

主人公は、戦友を励まし、食事を持ってきてあげる。

しかし、その戦友は、

「もう終わりだ」

と、主人公の前で、フォークで首を刺して自殺する。


1960年代、私が子供の頃には、まだ傷痍軍人が街中で物乞いをしていた。

足のない人が、古ぼけた軍服を着て、うなだれて路傍に座っていた。

その横を通って、ランドセルを背負った私たちは学校に行った。

それは、忘れらない光景である。


いま、杖をついたり、車椅子を使って、街中を楽しそうに行く人を見ると、本当にいい時代になったと思う。

まだまだ不十分だろうが、障害がハンデにならない社会を作っていかなければならない。

障害を負ったら人生が終わるーーそんな時代があまりに長かったのだ。


森元首相は、私より25歳くらい年上、戦中生まれだ。

もちろん、私よりも、「障害者が大事にされる」のが当たり前でなかった時代を知っている。


医大での挨拶ということで、今回の「障害者に見られたら大事にされる」という発言は、

「医療や社会制度のおかげでいい時代になった」

という思いが根底にあったのではないだろうか。

(そもそもは、「杖をついているが心配するな」が、言いたいことだろうが)

ちょっと森元首相に好意的すぎる解釈だろうか。

しかし、森元首相の発言を「障害者が大事にされること」への揶揄だと感じる人には、「障害者が大事にされるのはずっと当たり前だった」という思い込みがないか、と考えてしまうのだ。

「何を言っている、障害者を大事にするのは当たり前ではないか」

と言い切ってしまうと、それを「当たり前」にするために払われた、これまでの多くの人の、多くの努力を、むしろ無視しているように感じるのは、おかしいだろうか。



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